附箋を剥がす(31)Including 「全然」(その20)

先日必要があって……というほどの必要でもないけれども、獅子文六の『ちんちん電車』(河出文庫)を読み返していた。その附箋を剥がすためのメモ。
この作品、以前、いわゆる「ら抜き」の問題で、取り上げたことがあるものである。

その家は、吉原の有名な義士ファンの幇間(たいこもち)と、吉原芸妓の夫婦がやっていたというが、二人とも、もう、ジイさんバアさんだった。私たちは学校の帰りだから、店の中の椽台で食べたが、普通の客は座敷に通った。昔の汁粉屋の客は、皆、座敷へ上がったものだが、ここの座敷からは、すぐ、海が見渡された。品川の海が、まだ、高輪の岸を洗っていた時代である。(泉岳寺――北の辻。P44)


「ら抜き」(正しくは「a-r抜き」)があるかと思えば、逆に、現在では「見渡せる」がふつうのことばに「a-r」が入っている例もある。

札の辻の次は三田であるが、以前は、その停留所を薩摩原(サツマッパラ)と呼んだ。そのくせ、ここを終点とする電車は、三田行の札を掲げていたが、恐らく、字画が多くて書きにくかったからだろう。幕府時代に薩摩藩の屋敷があったから、その名が出たのだろうが、原という荒涼の感じは、、電車が開通しても、まだ残っていた。(芝浦。P52)


「サツマッパラ」に目が留まってメモしておいた。何故目に留まったかは、たぶん僕以外の人には理解できないので理由は書かずにおく。

その頃、この店はカキアゲといってもイカを使い、サシミもマグロでなくブリだったが、それはそれで、結構食べれた。そして、まだ親がかりの身だった私にも、そう懐の痛まぬ値段だった。(東京港――新橋。P66)


以前引いたもののほかにも、いわゆる「ら抜き」があった。

実は、最初の調査の時に、私は貸切り電車に乗って、ここを通ったのだが、とても街がよく見える。タキシやバスに乗っては、望まれないことである。それは前にも書いた。(新橋――銀座。P73)


「a-r」が入っている例。

銀座の柳というものに、私は一向に魅力を感じず、水もない街路に、あんな木を植えたって仕方がないと思うのだが、昔は松と桜の並木だったのを、なぜ柳にしたかというイワレは、あの出雲町の交番に、巡査が立っていて、夏の日のカンカン照りには可哀そうだというので、日影の多い柳の木を、鋼板の側に植えたのが、ハジマリだという。(新橋――銀座。P75)


助詞「を」が気になったのでメモしておく。

昔の銀座も、前に述べたように、飲食は栄えていたが、名も知れぬ店というのは一軒もなかった。誰もチャンと名を覚えていられるほど、有名店ばかりだった。(銀座――京橋。P83)


現在ではまったく違和感はないけれども「ら抜き」と言えば言えないことのない例。

昔の銀座に、スシ屋の目ぼしい店はなかったように思うが、今は東京一、日本一みたいなのがあるらしい。だが、私は行く気になれない。ベラボーに高いというからである。そして、高いのを喜んで集る客なぞと、同席する気になれない。そんな連中は、スシの代りに紙幣でも食ってればいい。スシなんてものは、普通に食べて、千円も払ってくればいいのである。その程度の食べ物である。食べ物にも、身分というものがある。身分をわきまえて、相当に食わせる店が、銀座に二、三軒ある。私が水準が高いというのは、そういう店があるからである。(銀座――京橋。P84)


単に、面白いな、と思っただけのもの。

ところで、突然に、あの近代的恐竜の出現である。よく思い切って、あんな工事ができたものと、感心するくらいだが、橋の存在は、全然無視されたから、今の状態になるのは、当然である。(日本橋。P96)


否定を伴わない「全然」の事例。

金港堂の方は、教科書出版だったから、あまり縁がなかったが、とにかく、有名な出版社が日本橋に多かったという過去に、興味を感じるのである。それは、昔日の日本橋が、東京のあらゆる一流的な企業を、吸い寄せ、その中心になってたことの証跡となるかも知れない。(続・日本橋。P105)


いろいろな言葉に「的」を付けてしまうのは日本語の造語力の強さを示しているけれども、「一流的」はあまり見慣れない例なのでメモしておく。

室町三丁目の電停附近を十軒店(じっけんだな)といい、人形やが沢山列んでたが、いつの昔か。三月と五月の節句人形の売出しの時には、電車の窓から、賑やかな彩りが見えた。年末になると、羽子板の市が立った。戦後、人形屋の一軒がゴルフ道具屋になったとか聞いたが、そのような転業のために、街の季節感は、もう味わわれなくなった。(神田から黒門町。P108)

ヤッチャ場は秋葉原へ移ったが、その殷賑の余曳が、まだ窺われないこともない。須田町附近が一つの盛り場として、面影を止めてることも、また、電車通りに、ベッタラ漬で有名な、中川屋という漬物や、ノレンの古い万惣という果物屋のあることも、ヤッチャ場との関係の名残だろう。(神田から黒門町。P109)


「a-r」抜き。現在なら「味わえなく」「窺えない」というところだろう。

私はこの稿を書くために、更めて浅草見物に出かけ、伝法院の中の幇間塚というものに感心したが、さらに、奥山の弁士塚の前に立って、実に、感慨無量だった。タヌキ塚とちがって、この方は碑も立派なものだが、刻まれた弁士の名を読むと、いちいち記憶が甦ってきて、その声まで、耳に聞えてくる。花井秀雄なんて名は全然忘れていたが、八字ヒゲの顔や、"不夜城の光景と相成りまァす"という、キネオラマの説明の文句まで、思い出して、わが年少の時代に、再会した想いがした。(六区今昔。P154)


否定を伴わない「全然」の事例、その2。

さて、そのキレイで巌丈な、耐火建築になった本堂だが、いつも、サイセン箱の前で、拝んで帰るだけなのを、今度は、浅草の顔役が案内してくれたお蔭で、内部に入ることができた。(観音堂と周辺。P160)


助詞「を」が気になったのでメモしておく、その2。

「起き上がって、見ると」

「走れメロス」を読んでいて、ここをメモっておこうと思った人はほかにあるまいけれども、気になってしまったのだから仕方がない。

ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろと起き上がって、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧いて出ているのである。(『走れメロス』新潮文庫、P177)


いいかげんに読んでいると、「潺々」なんていう耳慣れないことばが出て来ても、見逃してしまうものである。今まで意識した記憶がない。わざわざ調べなくても、おおよそ文脈から察しが付くからだろう。音「せんせん」、「水がさらさら流れる△様子 (音)」 の意の古風な表現。」(『新明解国語辞典』)。

それはともあれ、「起き上がって、見ると」である。「起き上がってみると」でないところがポイントで、接続助詞「て」の前後で、「起き上がる」と「見る」という別々の動作を表わしている。
このように、読点が打ってあり漢字が宛ててあれば誤解の余地がないけれども、古典の文では、こういう判断が難しい場合がある。けれども、古代語は近代語に比べて接続助詞「て」の前後を接続する力が強いから、「起き上がってみると」式ではなくて、「起き上がって、見ると」式と考えた方が良いものが多い。

たとえば、土左日記冒頭の「してみむとて、するなり」も、「書いてみようと思って」なのではなくて、「書いて(それを)見ようと思って」なのだと、僕は、考える。
そう考えると、掉尾の「とまれかうまれ、とくやりてむ」との呼応が見えて来る。書き了えて、読み返してみたら、不本意なものになっていた、だから、破ってしまおう、というのである。

「まにまに」

昨日も取り上げた『近代異妖篇 岡本綺堂読物集三』より。

普通の幽霊草といふのは曼珠沙華のことで、墓場などの暗い湿つぽいところに多く咲いてい(ママ)るので、幽霊草とか幽霊花とか云ふ名を附けられたのだが、こゝらで云ふ幽霊藻はまつたくそれとは別種のもので、水のまにゝゝ漂つてゐる一種の藻のやうな萍だ。(「水鬼」P77~78)


これ自体は何ということもないのだけれども、「まにまに」ということばを見ると、思い出すことがある。

長い学生時代の最後の頃だったか、ある先輩が、自身の師匠の論文(?)の校正をしていた。その文章が掲載される論集が、僕がアルバイトしていた出版社から出されるものだった関係で、その先輩が赤入れした校正刷りを見ることになった。
すると、源氏物語の浮舟が「波のまにまに漂って行く」というようなことが書かれていた箇所を、その先輩が「波のままに」に直しているのを見つけた。
「川の流れの」というような表現なら「ままに」でも良いかも知れないけれども、「波のまにまに」というのは小舟が波にもまれて行ったり来たりする様子を、2人の男の間で揺れ動く浮舟にたとえたものだろうから、それを「ままに」に直してしまったら台無しである。
執筆者の意図は明白で確かめるほどのことでもなく、校正者に断るのも先輩に対して語彙不足を指摘するようなのが憚られて、黙って最終校正を元の通り「まにまに」に戻して下版した。

ただそれだけのことなのだけれども、観点を変えれば、異文が生まれる原因の一つを、目の当たりにした瞬間だったと言えないこともない。

逆接の接続助詞「を」に関する断片語(3)

かなり以前、伊勢物語(第6段)にある下記の表現

女の、え得まじかりけるを、年を経て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。


の「年を経てよばひわたりけるを」について、これが「年を経てよばひわたりける(女)を」の謂で、「を」は接続助詞(逆接)ではなく、格助詞と見るべきことを書いた。

※「逆接の接続助詞「を」に関する断片語(1)(2)

先日、『近代異妖篇 岡本綺堂読物集三』(中公文庫)を読んでいて、こんな表現を見つけた。

むかしの旗本屋敷などには往々こんなことがあつたさうだが、その亡魂が祟をなして、兎もかくも一社の神として祭られてゐるのは少いやうだ。さう判つてみると、職人たちも少し気味が悪くなつた。しかし梶井の父といふのはいはゆる文明開化の人であつたから、たゞ一笑に付したばかりで、その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを、細君は女だけに先づ遮つた。それから社を取りくづすと、縁の下には一匹の灰色の蛇がわだかまつてゐて、人々があれゝゝと云ふうちに、たちまち藪のなかへ姿をかくしてしまつた。(「月の夜がたり」三、67~68頁)


「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを」の「を」である。この「を」に準体助詞「の」が上接することからも明らかなように、格助詞の「を」で、連用修飾を表わす。
件の勢語の「を」を、そういう表現だと考えるのである。

むろん勢語には、準体助詞「の」はない。が、近代語ではこういう場合に準体助詞が必須だけれども、古代語ではそうではない。
直前の「え得まじかりけるを」も、「え得まじかりける(の=女)を」ということで、準体助詞なしに、「え得まじかりける」を体言句にしている。綺堂の文と同じ事柄を表わすのに、古代語であれば、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたを」という類の言い方が、可能だったのである。

さて、綺堂の文の「しかし」以降の1文で、主語は「梶井の父」だけれども、文末「遮つた」は、その述語ではない。「遮つた」の主語は、言うまでもなく「細君」である。
この文は、「しかし梶井の父といふのは…その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとした」と、「焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを、細君は女だけに先づ遮つた」という別々の文としても表現しうるものを、1つの文に凝縮して表現しているのである。

勢語の文も、これと同じことが言える。
「女の、え得まじかりけるを、年を経て呼ばひわたりけり」と「年を経て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり」とが、1つの文に統合されているのである。

なお、綺堂の文を、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたけれども」と言い換えても、意味は、通じる。通じるけれども、むろんのこと、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを」とは、まったく別の表現である。
「年を経てよばひわたりけるを」を「言い寄り続けていたけれども」と逆接に訳出しうることと、この「を」が逆接であることとは、直接の関わりがない。そういう言い換えをしても、意味の疎通する訳文めいた別種の表現を、創り出せるに過ぎない。

附箋を剥がす(30)

『日影丈吉傑作館』(河出文庫)より。

駅の近くの市場の前で、わたしは宮の妻君に別れ、病院に引返した。その短い時間、いっしょにいるのが堪えられないほど、わたしは女を気の毒に思った。(「ねじれた輪」P107)


「妻君」は宛て字だろうが、判りやすい。それはそれとして、過去何度か取り上げた「に」の使い方。

ふいに幸運に眼がくらんだような気持も手伝って、洲ノ木はその晩ひどく酔っぱらい、川本に明日を約して別れてから、やっとの思いで家に辿りついた 。が、目のさめた昨日の今朝は、川本という男が酔ったまぎれに幡随院をきめこんだのを真に受けて、ありがた涙をこぼさんばかりだった、彼の単純さが腹立たしくさえなった。(「吉備津の釜」P139~140)


烏森の飲み屋で偶々同席した男(川本)から就職の世話をするという話をされた次の日の場面。
「幡随院をきめこむ」なんていうことばを目にしたことがなかった。辞書を引いても出て来ない。……が、考えてみたら、幡随院長兵衛は口入れ屋だった。

「やっぱり、ぼくが秘密のミッションを背負いこむことになったな」と、豊岡は愉快そうに笑いながら、いった。
「うちの会社が東南亜に得意先をつくりだした時から、そうなるくさいとは思ってたんだが」(「消えた家」P161)


「……くさい」ということばは、特別珍しいものではない。

(接尾語的に用いて)〔(ア)省略〕 (イ)いかにもそれらしい。「バター」(=西洋風だ)」 (ウ)その程度がひどい。「めんどう―」(『旺文社国語辞典』)


『新明解国語辞典』をみると、「……くさい」の前に来る語は、古い版には「形容動詞の語幹」とあり、最近の版にはそれに「体言またはそれに準ずる句」が加えられている。「うそくさい」とか「ばかくさい」とか。
「そうなる」というようなことばが前に来るのは、あまり見たことがない。

大学を出て、親父さんの自動車修理工場の見習いをしてた友人を、一度そこへ連れてゆくと、すっかり料理が気に入り、それから何度かいっしょに行った。(「夢ばか」P190)

私の家があったのは東京のはじっこの町である。そこには、くねくねと曲った舗装のしてない道路を中心に、 平家か二階建ての家が押しならんで、それよりも高い家は一軒もなかった。(「泥汽車」 P229)


著者は 明治41年生まれ。「…ている」「…ていない」ではないことばを使っているのは、珍しいのではないかと思って抽いておいた。

「まったく、顔を見合わす、というのは、ふしぎなことです」と、竪野はうなずきながら訥々とこたえた。(「人形つかい」P193)


形容詞の丁寧な表現の作り方の事例。


球は家にいた。勤めているあいだは、勤め先の秘密にわたるような話はできなかろうが、やめてしまえば、もう義理にしばられる気にもならないだろうと考え、吾来は何か聞きだすつもりで来たのだが、多少は目的を達しられた。(「明治吸血鬼」P281)


「達しられた」が気になった。
「られる」が付いているからには「達し」 は未然形だから、上一段型に活用する「達しる」という動詞かもしれない、コレは発見か? と思って『日本国語大辞典』を引いたらふつうに載っていた。

たっしる【達】〔自他サ上二〕(サ変動詞「たっする(達)」の上一段化したもの)「たっする(達)」に同じ。


が、載せられていた用例は未然形のもの。上二段活用と認定するためにはそれ以外の活用形もなければならない、と思って青空文庫を検索したら、幾つも出て来た。
梶井基次郎「交尾」から、一例を、孫引きする。

その声は瀬をどよもして響いていた。遠くの方から風の渡るように響いて来る。それは近くの瀬の波頭の間から高まって来て、眼の下の一団で高潮に達しる


何とういうことはない。

附箋を剥がす(29)

ついこの間から、暫くの間「積ん読」していた『日影丈吉傑作館』(河出文庫)を読んでいる。
その中で、ちょっと気になったところを抽いておく。
「彼岸参り」(1958年)より。

前列から二番目の席にかけている、スーツを着た老婦人がスチュアデスに話しかけた。
「この前、まいりました時は、たしか……」
「この前は、いつ、お出でにになりました」
「ちょうど五年前、主人の七回忌の時に」
「ええ……でしたら、その時はまだ……この式に改良されましたのは、一昨々年からですわ」
「そうですか、あの頃は、お危のうございましたね」と、いうと、昔者らしい、スーツを着た老婦人は、あはあはと笑った。(一、P64)


割と最近、別のところで「……うございます」形式の形容詞の丁寧な言い方について書いたことがある。
その時に、「とんでもない」の理論上の丁寧な言い方「とんでものうございます」の実例を見たことがない、とも書いたのだけれども、上記の「危のうございます」が使われている同じ作品の、同じ人物の会話表現でも、やはり、「とんでものうございます」は使われていない。

「だが、なんだってタグボートを改良したんだい……」と、井ノ本はいらいらした声を出した。
「そんなに、お客が喜ぶものを、模様替えする必要はないじゃないか?」
「いえ、あなた……真空の中に出ることは禁止になったんでございますよ」と、婦人がすかさず口をはさんだ。
「禁止ですって、まさか、あなたが五年前に、政府に陳情書を出したわけじゃあ、ありますまいね……」
飛んでもございません……新聞でお読みになりませんでしたか?」
「さあ、三年前のことではね?」(一、P66)


その他、最近では「正しい言い方」とされている「……ことでございます」の例。

「自殺なんて、伝染病のようなもので、ございますね」
「そう申せましょうね……現代ではもう、精神性の伝染病以外にはなくなりましたから」
「ほんとに恐ろしいことで、ございます……はじめ、どなたか一人、試しにおやりになると、すぐ真似をする方が出てくるのですからね……はじめは学生さんでしたか、いきなりタグボートの手すりを乗りこえて、外へ飛び出したんで、ございますってね」(一、P67)

「なかには、もっと積極的なのも、いたんだよ……宇宙服を脱ぎ捨てて、ぱッと飛び出したのがある……これは生身で、いきなり真空の中に入ったから、内臓が破裂して、いっぺんにオジャンさ……そんなこんなで旧式のタグロケットは、禁止されたんだ」
「ほんとに恐ろしいことで、ございます
七十歳の中年婦人は、同じ文句を繰り返した。(一、P68)


これも、同じ作品の、同じ人物の会話である。
形容詞の丁寧な言い方は、固定的にどれが正しいと言えるものではなくて、語によって、違いがあると考えた方が良いのかもしれない。

続・昼下がりの月

もう一回だけ書いて、これで終いにする。

厳密には……」の続き、その3。

数寄屋橋のそばにあるデパートを出たところで秀一は煙草を買い、英子は、
「あ、月が出ている」
と空を見上げた。


英子にこれまで書いてきたような月に対する正確な知識があったわけではないだろう。が、昼の月が毎日見えるものではない、ということを感覚として持っているから、昼の月を見て、「あ、月が出ている」と言うのである。毎日見えるものなら、そんなことを言うはずがない。

空を見上げて、昼の月が出ていたら戻ろうと思い、見上げようとして、もし出ていなかったらと不安になって、汗ばむのかまわず歩き続けた。


作品の最後で、英子に空を見る決心がつかないのは、空を見上げても月が見えるとは限らないからである。
「昼の月が出ていたら」というのは戻るための踏ん切りである。踏ん切るためには月が出ていなければならない。が、月が見える確率は、さほど高くはない。
それがわからないでこの小説を読んでも、正しい解釈に至ることは覚束ない。

昼下がりの月

厳密には……」の続き、その2。

「戻ってくれ。たのむ」という秀一の言葉に、その選択を迫られた英子は、作品最後で、昼の月が出ているかいないかに賭けようとします。初夏の頃であり、よく晴れた昼下がりならば、昼の月は見える可能性は高かったでしょう。


この1文は、小説の結末部分について「昼の月」を絡めて説明したものだけれども、この理解はさすがに致命的である。
ここで「昼下がり」になっているのは小説の本文にそう明記されているからだが、それまでの「真昼時」がどこに行ってしまったのかは不明である。
それはまた措いておくが、「昼の月」が「晴天であれば、満月以外なら見える」のだとしたら、前者の条件は問題なく、後者の条件も29/30の確率で実現する(考慮されていないらしい新月を減算したとしても、14/15に下がるに過ぎない)から、たしかに、「可能性は高かった」と言える。それを前提として、空を見ることを躊躇する英子が、家に戻るという決断を先延ばしにしていると結論するのである。
空を見ればほぼ間違いなく見えるはずの月を見ようとしないのなら、たしかにそう思わざるを得ないだろう。が、その思い込みが間違いなのは、当ブログをご覧の方ならもとよりお判りのことだろう。

「昼下がり」――仮に午後2時として、月が見える可能性のあるのは月齢25日頃~翌10日頃の間だけである。ただしこの期間内でも新月なら見えないし、その前後の日も極めて細い月で、昼の月が見える、とは言いがたい。
また、小説の舞台になっているような都会なら、2時が月の出入の間際になる各1~2日は、建物の陰に隠れて見ることができない可能性が高いと思われる。とすれば、その時に月が見える可能性は、1/3程度しかなかったはずである。
もっと言えば、小説の内容からして半月に近い形の月が期待されることを加味すれば、多く見積っても可能性はそこからさらに半減する。
29/30(もしくは14/15)の確率に賭けようとしたと考えるか、1/3(もしくは1/6)の確率に賭けようとしたと考えるかで、作品の読みが根本的に変わることはない、とは断じて思わない。

「真昼時」?

厳密には……」の続き。

前回、月を見たのが「真昼時」だということに付き合って書いて来たけれども、そもそもこれが疑わしい。

英子が別れた夫の秀一と一緒に昼の月を見たのは、結婚指環を誂えに出掛けた帰りである。


小説の本文には上記の通り確かに「昼の月」と書いてあり、この後にも「秀一」が「昼間も月が出るんだなあ」と言っている。
けれども、それと「真昼時」とは違うだろうと思う。「真昼時」という言葉には、正午前後の印象がある。
二人は「数寄屋橋のそばにあるデパート」を出たところで「昼の月」を見ている。
デパートの開店と同時に入ったのなら、出て来るのは「真昼時」かもしれないけれども、二人はこの後「有楽町の喫茶店」に入り、その後、姑と「指環を誂えたことを報告かたがた夕食を一緒にした」のだから、そんなに早い時間帯だとは思われない。

そもそも、「昼の月」の描写は、次のようである。

ビルの上にうす青い空があり、白い透き通った半月形の月が浮かんでいた。


半月だと明記されているのだから、月齢7日前後の頃だとしか考えられない。22日頃の月も半月だけれども、その月齢なら、月は昼前には沈んでしまう。
月齢7日なら月の出は11時30分過ぎ頃、正午には、まだ地平線からほど遠からぬ位置にある。1時間に15度ほどずつ昇る見当だから、「ビルの上」に月が見えるのは、早くて午後2時、恐らく3時頃までの時刻で、デパートでの買い物帰りに近くの喫茶店でひと息、というのに丁度良い時間帯だろう。そしてその後、姑の家に行って夕食を食べる……作者は、周到に時間を計って書いているのである。「昼の月」を「真昼時」だと思い込んで読んでいたら、こういうところが見えて来ない。

小説などの文学作品は、書かれていない(ように見えて、実は書かれている)ことまで読むと、よりおもしろくなるものである。表面的に書かれていることだけを読んでいてもそれなりにおもしろいだろうけれども、それでは少々、もったいない。

「厳密には…」

あまり厳密ではない話。

本を読んでいて、おもしろいと思うこともあればそうとは感じないこともある。
もっとも、良いにしろ悪いにしろそれ以上の感想を持つことは稀なのだが、ごく最近読んで、久々に腹の立ったものがあったので、腹立ち紛れの勢いで書いている。
書評だのレビューだのというまとまったものではなく、あまりに低次元の断片語なので、著者名や書名は割愛することとする。

ある有名な作家の、ある有名な小説に関して、こんなことが書かれていた。

昼の空にある月というものを見たことがあるでしょうか。天候や月齢によっては見えにくい時もありますが、晴天であれば、満月以外なら見えるのです(厳密には、真昼時限定ならば四分の一以上が欠けている月のようです)。


何とも、意味不明な文である。
「見たことがあるでしょうか」と読者に問いかけているのを見ると、逆に、「見たことのない人がいるのでしょうか?」と聞き返したくもなるが、当該の小説にはそういう男が出て来るのだから、それは措いておく。
まずは、「天候や月齢によっては見えにくい時もありますが、晴天であれば、満月以外なら見えるのです」というのが、どういう知識に拠って書かれているのか、不思議でならない。
「満月以外なら見えるのです」と「厳密には、……」との整合性がどうなっているのか理解しがたいこと、「月齢によっては見えにくい」ということの指し示している意味が判らないことも措いておくとして、この文を読む限り、晴天であって満月でない日であれば、1/4以上欠けた月が、真昼時には必ず見える、ということになる。
そんなはずがないことは、小学生にでも判ることである。(もっとも、国文科の大学生でも判らなかったりはするのだが……。)

言うまでもないけれども、月は、同じ月齢であれば、ほぼ同じ時刻に昇り、ほぼ同じ時刻に沈む。むろん、季節による誤差があって、厳密に考える必要のある場合にはきちんと調べる必要があるけれども、数時間に及ぶ差が出るようなことはないから、大雑把に「ほぼ同じ」と考えておいて、大過ない。
月が「四分の一以上が欠け」るのは、単純に計算して、月齢20日頃~翌11日頃の間になるだろう。
その内、「真昼時」に月が見えるのは、月齢23日頃~翌7日頃の間(むろん新月は除く)で、その期間内に真昼時に四分の一以上欠けた月が見られるのは確かだけれども、それ以外の日には、月は見えない。「晴天であれば、満月以外なら見える」ことを前提にして「真昼時限定ならば四分の一以上が欠けている」ということが「厳密」だとは、到底思われない。
そんなことは、古典を少しでも齧っていれば調べなくても判ることだけれども、判らないのなら当然調べてから書くべきだろう。

ここまでは、謂わば揚げ足取りみたようなものだけれども、もう少し大事なことが、ある。
続きは、また書く。

【10月19日】
記述が不明確なところを、若干修正した。