読書感想文の書き方・その3

久しぶりに「読書感想文の書き方」を書いているが、今回はこれまでとちょっと違う趣旨である。

今年の夏休み、中学2年の娘が、恒例の読書感想文の宿題を、苦労しながら何とか仕上げた。対象作品は、芥川龍之介の『鼻』。
切羽詰って家にあった本の中から短いものを選んだようだが、実はこの作品、かなりの難敵である。到底、一筋縄で行く作品ではなく、深く読みこんでみないと、どういう作品なのか、判らない。短いだけに、難しいのである。
その割にはまずまず頑張ったとは思うのだが、粗筋がかなりの比率を占めていた。中2ともなると、課される枚数は400字詰め原稿用紙で5枚、中々の分量である。娘には、粗筋は最低限で良い、ということを言いはしたのだが、ただ粗筋を省いただけでは、所定の枚数を大幅に下回ることになる。感想文なのだから…などと理屈だけ言うのは酷だろうし、既に大幅に書き直すほどの時間もない。だから、粗筋が多くなるのも致し方ないところだとは思う。

けれども、読書感想文は、提出することが最大の意義なのではない。提出するという事実はむろん重要だけれども、それだけで終わっては意味がない。自分が書いたものが、ほかにどのような書きようがあったのか、顧みて考えることは大切だろう。
それで、見本というほどのものではないが、「お父さんならこう書く」ということを示しておくことにした。娘に読ませるために書くものだから、娘が自分の感想文の中で使ったキー・ワードや視点は、極力取り込むように配慮した。
むろんこれが正解だというわけではなく、こういう書き方もある、という一例にすぎない。公開するほどのものではないが、娘に見せるだけだから、と手を抜かないために、ここにアップすると決めて書いたものである。

   芥川龍之介の『鼻』を読んで

ホシナ@ハウス   
 「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」――短くなった鼻がまた元の長さに戻った時、禅智内供はこう考えました。そして、「はればれした心もちが、どこからともなく帰って来る」のを感じるところで、『鼻』は終わります。
 この作品の中心になっているのは、内供の鼻の話題です。内供は、五六寸もある長い鼻を、内心気に病んでいました。ある時、弟子の僧が教わって来た鼻を短くする法を試してみると、その効果が現われて、鼻は短くなりました。
 ところが、短くなった内供の鼻を見て、周りの人々が笑うようになります。短くなる以前には、人々があからさまに笑うことはありませんでした。元の長い鼻に戻った内供が「もう誰も哂うものはない」と考えたのは、鼻が元に戻れば、周りの人々の態度も元のようになると思ったからです。内供の鼻が長くなった後のことは書かれてはいませんが、果たして本当にそうなったのでしょうか。
 そのことを考える上で、最初に書いた「もう誰も哂うものはないにちがいない」と言う言葉がヒントになると思います。内供がそういうことを思ったのは、実はこれが初めてではありません。ほとんど同じ言い方で、内供が「こうなれば、もう誰も哂うものはないのにちがいない」と考えるところがあるのです。それは、長かった鼻が短くなった時のことでした。そしてその時、内供は「のびのびした気分」になっています。
 この部分は、長い鼻に戻ったところと良く似ています。鼻が短くなった時にも、内供は元のように長くなった時と同じような気持になったということです。けれども、長い鼻が短くなった時、その結果は内供の期待した通りのものではありませんでした。
 見た目から考えれば、長い鼻はおかしく、短い鼻はおかしくないはずです。だから、内供には、鼻が短くなって人々が笑うようになった理由が分りません。短い鼻が見慣れないからだとも考えてみますが、それだけが理由ではないようです。
 内供のことを笑うようになった周りの人々の気持を、作者は「傍観者の利己主義」という言葉で説明しています。鼻が長いという内供の不幸に対して同情していた人々が、鼻が短くなってみると、何だか物足りない気がして、もう一度同じ不幸に陥れてみたいような、消極的な敵意を持つようになる、ということです。つまり、鼻が短くなることによって、周りの人々が持っていた内供への気持が、同情から敵意へと変化してしまったのです。それが、周りの人々が内供のことをあからさまに笑うようになった理由です。
 内供はそういう周りの人々の気持の変化に気付いていないようです。長い鼻に戻った内供の「もう誰も哂うものはないにちがいない」という気持は、鼻が短くなった内供の「もう誰も哂うものはないのにちがいない」という気持と違いがありません。そしてその時に感じた「のびのびとした気分」と「はればれとした心もち」の間にも違いはないでしょう。
 内供は最初、長い鼻が短くなれば笑われることはないと考えました。そして今度は、長い鼻に戻れば笑われることはないと考えたのです。長い鼻が短くなった時と、短い鼻が長くなった時とで、内供の気持には変化がありません。内供にとって、周りの人々の態度の変化は、見た目の問題に留まっていて、気持の変化を捉えることができていないのです。
 周りの人々の気持が、内供の気持と同じように元に戻ったのだとしたら、内供のように「もう誰も哂うものはない」と考えて良いかもしれませんが、内供の鼻は、単に長いのではなく、長かったものが短くなって、また長くなったのです。
 鼻が長かった時には内供に同情していた人々の気持は、鼻が短くなった時に「傍観者の利己主義」によって敵意に変化してしまいました。それは、内供が不幸を切り抜けたことに対して物足りない気持を持ったからです。だとすれば、鼻が短くなったことによって人々に笑われるという不幸を、鼻が長くなることで内供が切り抜けた時に、周りの人々が感じることは、やはり「傍観者の利己主義」による敵意だと思います。鼻が元のように長くなったとしても、一度笑われるようになってしまった内供が笑われなくなることはないのではないでしょうか。
 この作品は、単なる内供の鼻についてのおもしろいお話のようにも見えます。また、最後に内供が「はればれとした心もち」になることによって、さわやかな印象で終るようにも思えます。けれども、登場人物の気持を良く考えながら読んで行くと、内供の鼻をめぐる、周りの人々の気持の変化が深く書き込まれていることが分ります。そして、その変化に気付くことのできないない内供の気持のずれが、うまく書かれていると思いました。


まあ、半日で仕上げたものだから、大したことはない。特に後半は、もっとふくらませたほうが良いだろう。
もっとも、時間を掛けたらもっと良くなるかといえば、そんなこともないだろうが。

原稿用紙バージョン

娘からは、特に反応はない。

夏の風物詩

毎度々々同じようなことを書いて恐縮だが、学校の長い休みの期間、特に夏休みには、当ブログの「読書感想文の書き方」の各エントリへのアクセスが急増する。とりわけ今年は、例年にも増して驚くほどのアクセスがある。
「驚くほど」がどの程度なのか具体的に書くと、日頃のアクセスの程が割れてしまうから書かないけれども、僕にすれば十分に「驚くほど」で、ざっと、ふだんの5倍を優に超す数に及ぶ。それが、1の5倍で5なのか、1万の5倍で5万なのかは、想像にお任せすることにする。

検索ワードは「読書感想文 書き方」とか「読書感想文 1年生」とか、それに「坊っちゃん」とか「車のいろはそらのいろ」とか「大どろぼうホッツェンプロッツ」とか、いろいろな作品名を組み合わせているものが多いのだけれども、中でも今年は、「メガネをかけたら 読書感想文 書き方」というワードで辿り着いているケースが異様に多い。しかも一時的なものではなく、夏休み開始直後から、継続してである。「メガネをかけたら」という本は読んだことがないのだけれども、大々的に課題図書にでもなっているのだろうか?
確かに、このワードでググってみると、僕のブログがかなり上の方に来る。この本を取り上げたことはないし、そもそも、過去に「メガネ」ということばを使ったことすらないのに。

これだけ人気のあるのは一体どんな本なのだろう、きっとジブリか何かに関係があるに違いない、と思って調べてみたのだが、案に相違して、この「メガネをかけたら」という作品、どう見ても絵本である。
読書感想文を書こうと思う、否、書かねばならない状況に陥っているからには幼稚園児ではないだろうし、「メガネをかけたら 読書感想文書き方がわからず進まない小二」なんていう、微笑ましいと言って良いのかどうかことばに迷うようなワードが見られたことからしても、小学生(の親)が検索を掛けて来ているものと思われる。

絵本が駄目なわけではないし、これはきっと良い絵本なのだろうけれども、小学生が、長い休みの期間を使ってわざわざ感想文を書くのだから、もっとふつうの、時間を掛けなければなかなか読めない本にした方が良いのではなかろうか、と思う。それに、感想文を書く意味も、「書く」ことに第一義があるのではなくて、むしろ「読む」ことにあるもののように思う。
そもそも、絵本なら読むのは簡単だけれども、簡単に読める本なら感想文が簡単に書けるというものではないだろう。

ともあれ、検索で誤ってここに辿り着いてしまった方には、当ブログには「メガネをかけたら」については何も書いていない、ということを、お断りしておく。

読書感想文の書き方・その2(5)

承前

さて、これまで書いて来たことを纏めてみる。

まず、前にも書いた書き出しから。

あまんきみこさんの『白いぼうし』という本をよみました。この本には8つのおはなしがはいっています。ぜんぶおもしろいのですが、その中でも一ばんおもしろかったのは、「山ねこ、おことわり」というおはなしです。


次に、あらすじを書いてみる。

タクシーのうんてんしゅのまついさんが、わかいおとこの人をのせて、その人がいうとおりにハンドルをみぎにまわしたりひだりにまわしたりしているうちに、きがついたらおとこの人がネクタイをしめた山ねこになっていました。まついさんがびっくりして、「おりてくださいよ」というと、おきゃくさんの山ねこは「"山ねこ、おことわり"とはかいてなかったですよ」といいます。


そして、それに対する感想。

ふつう、山ねこはタクシーにのったりしないので、タクシーに「山ねこ、おことわり」とかいてあるわけがありません。でも、そういわれたまついさんが、「それは、まあ、そうだ」とおもって、山ねこにいわれたところまでいったところが、おかしくてわらってしまいました。


ひとまず、纏まった。が、何だか尻切れトンボである。
そこで、作品の末尾部分にも、触れておく。

山ねこは、タクシーをおりるときに、まついさんに「山ねこ、おことわり」とかいてあるかみをくれました。でも、まついさんは、「また、いつでも、どうぞ」といって、かみをやぶりました。そういうやさしいまついさんが大すきになりました。


1行20字で、タイトル、氏名を除いて27行になる。文字数は、最初の目標を達成。
むろんのこと、内容は大した出来ではない。だが、これまで纏まった文章を書く機会のなかった小学1年生にとってみれば、こんな程度のことを書くだけでもけっこう大変なものである。

本当なら、何故、最初は「おりてくださいよ」と言っていた松井さんが、「山ねこ、おことわり」の紙を破ることになったのか~山猫がタクシーに乗った理由とか、着いた先で山猫を待っている間に松井さんが見た光景とか~、ということも書くべきだろうが、それを纏めるのはなかなか難しい。だから、「小学1年生の感想文」という限定付きで、そこは省いた。むろん、3年生くらいになれば、そこは付け加えておかなければならない重要ポイントだろう。

これで、一応、終わり。

ところで、どうやら今年は感想文の宿題は出ていなかったようだ。読書の記録として、作品名を列挙しておくだけで良いらしい。ほっとしたような、ちょっと残念なような…。

読書感想文の書き方・その2(4)

承前

あらかた書く内容は出し終えたので、書き始めることにする。

読書感想文コンクールで入賞しようと思ったら、書き始めからしてありふれたものであってはいけない。他の子とは違う、読者の心に訴えかけるような書き方をしなければならない。
たとえば、こんなふうに。

おきゃくさんが山ねこにかわっていたのにきがついたとき、まついさんは、どうおもったんだろうね。きっととてもびっくりしたとおもうよ。ぼくだったら、ハンドルをきりそこねてじこをおこしてしまったかもしれない。だって、それまでふつうのおとこの人だとおもってうんてんしていたんだからね。びっくりするのがあたりまえさ。


小学1年生がこんな文章を書くか? とお思いの方もあるだろうが、実際には、こんな感じのものが、存外、ある。
だが、ぼく個人としては、こういうものを子供が書くというのはかなり気持が悪い。
むろん、自力でこんな書き出し方をできる子供もいるのだろう。が、何となく、書かされている感を払拭できないのである。

小学1年生なら、次のようなものが常道だろう。

あまんきみこさんの『白いぼうし』という本をよみました。この本には8つのおはなしがはいっています。ぜんぶおもしろいのですが、その中でも一ばんおもしろかったのは、「山ねこ、おことわり」というおはなしです。


こんな書き出しは、無駄といえば無駄である。
読まなければ感想文は書けないのだから「よみました」と書かなくても判るし、この作品を感想文の対象にしたのも面白いと思ったからである。つまり、当たり前のことを書いているだけのことである。
コンクールで入賞するような感想文には、こんなありきたりなものはあまりない。「読書感想文の書き方」講座としては、むしろ避けるべき悪い例だとも言えるだろう。
だが、小学1年生なら、誰でも書きそうな冒頭ではないか。「良い読書感想文」であれば、こんなことは書くべきではないかもしれないが、一般的な小学1年生の感想文には、あって然るべきだろう。
小学1年生が、小学1年生らしい文章を書くのは、悪いことではない。

ここでは、コンクールで入賞することを、目的としているわけではない。「良い読書感想文の書き方」ではなくて、あくまでも「読書感想文の書き方」である。
読書感想文を何とか自力で書き上げることができるようなやり方を、教えようとするのである。良い感想文に仕上がるに越したことはないけれども、それは結果であって、かならずしも目的ではない。だから、後者の方向で、進めることにする。

小学1年生にとって、400字といえば十分長文である。初めて書く長文で、無駄を完全に削ぎ落とした文章を書こうとするのが、無理である。自力で書き上げるためには、こういう無駄が、不必要だとは言い切れない。
無理して、背伸びをするべきものではない。

続く

読書感想文の書き方・その2(3)

承前

どんなお話かがあらあら纏められたところで、初めて次の質問をする。

「どこが面白かった?」

山ねこが、「"山ねこ、おことわり"とはかいてなかったですよ」というところ。


「どう面白かった?」

ここが、重要である。面白かったところが「どこか」というだけでは、「~するところがおもしろかったです」で終わってしまう。
どこが面白かったかだけではなくて、何故、どういうふうに面白かったかを、導き出す必要がある。
もちろん、面白いと思った理由をことばにするのは難しい。いろいろ話をしながら、子供と一緒になって、ポイントになることばを繋げて行くことが肝心である。
子供にあれこれ考えさせても、感想文として纏まること、纏まらないことがあるが、そんなことは気にしないで、いろいろ引き出してやるのである。

もし自分が運転手さんで、お客さんが山ねこになっていたらどう思う?

びっくりする。きっとタクシーからにげだしちゃう。


松井さんはどうした?

びっくりしたけど、タクシーをとめて、山ねこに「おりてくださいよ」といった。


山ねこは、「"山ねこ、おことわり"とはかいてなかった」と言ったけど、どう思う?

ふつう、山ねこはタクシーにのらない。だから、そんなことかいてあるわけがない。


そこで、面白かった理由を纏めると、こんなところになるだろう。

ふつう、山ねこはタクシーにのらない。だからタクシーに「山ねこ、おことわり」とかいてあるわけがない。
でも、山ねこが「"山ねこ、おことわり"とはかいてなかったですよ」というと、まついさんも、「それは、まあ、そうだ」とおもってしまうところがおもしろかった。


続く

読書感想文の書き方・その2(2)

承前

本は、『白いぼうし』に決まった。とは言え、全部の作品について書くわけにはいかないから、ひとつに絞る。

「どのお話が面白かった?」

全部。


小学1年生の答えなんてそんなものである。だが、それでは到底、感想文にはならない。
そこで、いろいろ話をしながら、一番おもしろかったものがどれか、考えさせる必要がある。

「山ねこ、おことわり」がおもしろかった。


「どこが面白かった?」と聞いても、答えはやはり「全部」に違いない。そこで、もう少し答えやすい質問から始める。

「どんな人が出てくる?」

まついさん。タクシーのうんてんしゅさん。
山ねこ。わかいおとこの人だったけど、タクシーにのっているうちに山ねこになる。
山ねこのおかあさん。
山ねこの妹。


実際には、「山ねこのおかあさん」は登場しない。山ねこの話の中に出て来るだけである。が、山ねこが「母が…」と言っているし、積極的な誤りではないから、この程度のものはそのままにしておいて良い。

「どんなお話?」

まついさんが、わかいおとこの人をタクシーにのせて、その人がいうとおりにハンドルをみぎにまわしたりひだりにまわしたりしているうちに、きがついたらおとこの人がネクタイをしめた山ねこになっていた。
まついさんが「おりてくださいよ」というと、おきゃくさんの山ねこは「"山ねこ、おことわり"とはかいてなかったですよ」という。それで、まついさんはいわれたところまでいく。
山ねこは、おいしゃさんで、おかあさんがびょうきになったので、いえにかえってきた。
山ねこのおきゃくさんがおりるとき、「山ねこ、おことわり」とかいてあるかみをもらった。
まついさんは「また、いつでも、どうぞ」といって、かみをやぶった。


小学1年生が、これだけの内容をいちどきに纏められるわけはない。少しずつ、どんな話か、聞き出しながらメモを取る、できれば、本人にそこまでさせるのが、望ましい。
むろん、短い話とはいえ、あらすじをすべて書いていたら、書くべきことを書くことができない。ただ、お話の内容をきちんと理解できているか、ということを確認する意味で、あらすじを尋ねるのである。
それに、話したり書いたりしているうちに、思い出したり考えが纏まって来たりすることもあるものである。
実際にそれを感想文にする際には、その中から、必要最低限のところだけを抽き出す必要がある。だからといって、抽き出すくらいなら、最初から書かなければ良いじゃないか、ということにはならない。最初から、必要最低限のことを、過不足なく書くことなど、大人にもできることではない。

続く

読書感想文の書き方・その2(1)

去年の子供の夏休みに書いた「読書感想文の書き方」が、意外に好評(?)なようなので、今年も書いてみることにする。
「好評」といったところで、読者の目的の過半が泥縄の宿題対策と思しいから、それほど難有いわけではない。とはいえ、アクセスされて迷惑を被ることはさらさらないから、頭のリハビリまでに、してみようとするのである。
ぐだぐだした前置きは、前回書いたが、読書感想文コンクール入賞を目論んでいるのなら、残念ながらお眼鏡違いである。ほかを当たるに如くはない。そうでなくても、夏休み中に最後まで書き了えられるかどうかの保証はない。

今回は、息子・小学1年生用。
どう贔屓目に見ても根性が足りないから、こんな七面倒くさいことは絶対にしまいと思うのだが、一応、シミュレーションだけはしておく。
6年生の娘用のものを書いても良いのだが、去年の5年生用との違いを出す能力が、ぼくにはない。そもそも、去年のが5年生用として妥当なのかどうか、判断のしようもない。
そこで、明らかに違いの出る1年生用にするのである。1年生用の方が楽そうだ、という打算も、あるにはある。

さて、当ブログの「読書感想文の書き方」では、読書感想文を書くためのセオリーに、必ずしも則っていない。それは、そんなものを知らないから、ということもあるのだが、読書感想文だけに通用する書き方をしても、意味がないと考えるからである。
目指すのは、まず、何が書かれているかを把握すること、そして、その書かれていることに対して、自分の考えを述べること…これは、読書感想文に限らず、文章を書く基本である。
良い感想文を書こうとするなら、「何が書かれているか」すなわちあらすじは最小限に抑えて、「自分の考え」すなわち感想を、多めに、いろいろな角度から書くべきだろう。
だが、文章を書き慣れていない小学生、特に低学年なら、ある程度の字数をあらすじに費やすことは、文章を書く訓練として重要である。
受験対策で、評論文の「要約」をやらされた覚えのある方も多かろう。それは、要約することで、文章に書かれた内容を、把握できるようになるからである。あらすじを書くのは、それと同じことである。
それに、それほど多くの語彙を習得していない段階で、感想に多くの文字を費やそうとすると、「おもしろかった」「たのしかった」を連発することになりかねない。小学生が、自力で書けることを、何とか書けるようにするのが眼目である。

文字数について明確な指定はないが、小学1年生なら、あまり長い話の感想を書くのは難しいだろう。概ね400字~600字といったところ。
作品も、あまり長いものでは感想文にまとめるのは難しいので、短めのものになる。絵本でも構わないのだが、どうせ書くのなら、少々きちんとしたお話にしたい。そこで、あまんきみこの『白いぼうし―車のいろは空のいろ』を選ぶことにする。適度な長さの短篇で、子供の興味も惹きやすい、というのがその理由である。

続く

読書感想文の書き方・その2(導入)

ネットで検索を掛けてみると、読書感想文を宿題として課すことに対する評判は頗る悪い。
曰く、そんなものを書かせても何の役にも立たない。曰く、感想などというものは自分の心の中で持っていれば良いのであって、他人に伝える必要はない。曰く、こんな無意味なものを強制されたら、子供が読書嫌いになる。etc…。
結果、感想文が丸写しできるサイトから適当なものを選んで、ちょっとアレンジして提出すればそれで十分、極論すれば、その方がむしろ子供のため、というような論調になる。

読書感想文に子供が悪戦苦闘する様子を見たり、子供から助け舟を求められた自分(親)が苦悶したりすれば、そんなことを言ってみたくもなるだろう。だから、そういう意見に一理もないとまでは言わない。
だが、読書感想文かどうかはともかくとして、ある程度纏まった文章を書く訓練をすることは、断じて無駄ではない。社会に出れば、文章を書く必要が生じることがある。だが、必要が生じてから書き始めても、遅いのである。今や、原稿用紙の使い方もロクに知らない文学部の学生がいるのが実情である。
むろん、文章を書く訓練が、読書感想文でなければならない理由はないのだが、子供が、いきなり社会問題や政治・経済の状況について論じろと言われても、無理である。だから、身近な話題、遠足についての作文とか、読書感想文とかで、訓練を始めるわけである。

心の中で思っていれば良い、という意見も、一見まともなように見えるかもしれないが、やはり見当外れである。
たとえば、修学旅行でどこに行きたいか? という話し合いをクラスでしたとする。その時、自分が強く行きたいと思う場所があったとしても、それは自分の考えだから、他人に伝える必要はなく、心の中で持っていれば良い、と考える人はいなかろう。欲しいもの、やりたいことなども、思ってさえいれば十分、というものではない。
自分の考えを、他人に伝えることは重要である。そしてそれには、そのための訓練が必要である。これも、読書感想文でなければならない理由はもちろんないが、読書感想文ではいけない理由もない。

さらに、読書感想文を書かされた所為で読書嫌いになった人がいることは事実かもしれないが、それと、読書感想文を書くことに意味があるかどうかということは、本質的に関係がない。水泳教室に無理やり通わされて水泳嫌いになった子がいたとしても、水泳教室に意味がない、という人はあまりいない。
それに、うちの娘は、苦闘を何年も繰り返しているが、そして、それによって文章を書くのが得意になったとは到底言えないが、少なくとも、一向に読書嫌いになる気配はない。読書感想文が大嫌いだったということと、読書嫌いになったこととの間に因果関係の認められる事例があったとしても、それが普遍性を持った法則であるとは限らない。

さて、何故改めてこのようなことを書き出したか? というと、夏休みも残り僅かとなって、今年も「読書感想文の書き方」を書いてみようかという気になったからである。
もっとも、僕の住む墨田区は、例年通り9月1日から学校が始まるけれども、お隣の江東区では、節電対策としてか、夏休みの開始が前倒しされ、それに伴って今週半ばには授業が開始される。そういう地区の方にとってみれば、時宜を逸した間抜けなタイミングなわけであるが、あくまでも、僕自身のシミュレーションとしてやっているので、あしからず。墨田区の夏休み中にも書き了わらない可能性もかなり大きいが、シミュレーションが終わらなければ、子供の宿題を見てやれないわけでもない。

なお、夏休みも終盤を迎えて、相当切羽詰って来たのだろう、検索語句も、「丸写し」「パクリ」「楽に書ける」なんていうえげつないものが増えている。そういうワードでここに辿り着いても、残念ながら、楽には書けないし、丸写し・パクったところで大して良くできたものではない。それに、この「その2」は完成するかどうかも判らないし…。

続く…はず)

読書感想文の書き方(その後)

いよいよ小学校の夏休みが始まった。
冬休みの時にも書いたが、学校の長い休みの時期には、当ブログの「読書感想文の書き方」の各エントリへのアクセスが増加する。もっとも、手頃なものを探して丸写し、というのがアクセスの主な目的だろうから、増加したと言っても、手放しで喜べる筋合いのものではない。
とはいえ、これほどまでに如実にアクセスが上がると、第2弾を書いてみようか、という気にもなる。むろん、「気になる」だけで、こんな面倒なこと、気力と体力が充実していないとできないが…。

アクセスのログを見ていると、「読書感想文の書き方」と、「5年生」「坊ちゃん」「400字」「原稿用紙」「2枚」というようなワードを組み合わせて来ている場合が多いようである。これは、今までと同じ傾向。

だが、ここのところのアクセスで、何でそんなワードで? というものがある。いずれも、「読書感想文」との組み合わせである。

「曲り角の日本語」「聖徳太子」。
どちらも、それぞれの書籍を紹介したページと、「読書感想文」のカテゴリで引っ掛かっている。それで来てしまった方、何の参考にもならなくて申し訳ない。
ただ、『曲り角の日本語』(岩波新書)のような本で感想文を書くのは難しいし、『聖徳太子』(同)もお話ではなくて歴史の書だから、やはり感想文には向いていないと思うのだが…。
何か特別な事情がない限り、他のものを選んだ方が良くはないだろうか。

「三宝絵」。
『聖徳太子』を紹介した文の中に「三宝絵」ということばが入っていて、それが引っ掛かっているわけだが、それにしてもこれは、意味不明である。「三宝絵」で感想文を書かなければいけない人に、一体どういう事情があるのかと思うと、実に興味をそそられる。
そもそも、「三宝絵」など、まず、読みこなして何が書かれているかを理解する段階で、相当高い壁がある。その上でさらに、感想文を書こうと思っても、何を書いたら良いのやら、さっぱり見当がつかない。
だいたい、提出される側も、余程の博学か物好きでない限り、書かれていることが妥当なのかどうか、判断のしようがないのではないか。

「2枚」

先週末あたり、当ブログの「読書感想文の書き方」の各エントリへのアクセスが急増した。
「急増」と言っても、分母が微々たるものだから、大したことはないのだが、それでも増えているのには違いない。

何故増えたかと言えば、まず間違いなく冬休みの宿題対策である。冬休みも残り僅かになって、手っ取り早く宿題を片付けられるサイトを探していて辿り着いたものだろう。本人か親かは特定できないが、小学生向けのものだから、たぶん後者が多いと思われる。
これらのエントリを書いた趣旨からすれば、そういう付け焼刃の対策は不本意だとも言えるのだが、一旦公表したものが、どんな使われ方をしようと文句を言うべき筋合いでもない。

もちろん、読書感想文の参考になるようなサイトは数多いから、「読書感想文」というキー・ワードだけで辿り着くものではなかなかない。これに何か別のワードを組み合わせて来ているわけである。

実際に検索された語句を参考に、Googleであれこれ検索してみた。
読書感想文/書き方/坊っちゃん」を組み合わせると、1ページ目に当ブログが出て来る(本日現在。以下同)。ちょっとびっくりだが、作品名で絞ると、それほど多くのものがないのかもしれない。
ほかに、「読書感想文/坊っちゃん/小学5年」でも1ページ目。「小学5年」という語句で検索するのは、まず間違いなく本人ではなくて親だろう。小学生なら、検索しても「5年生」というのが普通である。小学生ではない経験を持っていて初めて、「小学」とか「中学」とかを付けるものである。

更に驚くことに、「読書感想文/書き方/2枚」を組み合わせると何とTOPに来る。「読書感想文/2枚」でも1ページ目。
この「2枚」というワードはかなり切実である。しかも1回だけではなく、他のワードとの組み合わせも含めて何回も。そこまで切羽詰まっているのなら、どうぞご自由に丸写ししてください、という気にもなる。ただし、これは本人が検索して来た場合に限るが。
検索して来たのが親であれば、子供に丸写しをさせる元ネタを探すために検索して来たと思しく、だとしたらそれは残念な結果である。
むろん、本人が自らの意思で丸写しするのも手抜きではある。が、子供が自分で手抜きをするのと、親が子供に手抜きをさせるのとでは、だいぶん意味合いが違う。「子供に手抜きをさせる」というのは、実のところ親が手抜きをしているのである。

親だって、仕事もあれば家事もあって忙しい。たまの休みくらいは、自分の好きなことをしたい。子供の宿題にそんなに付き合ってはいられない、という気持ちも良く判る。
それに、良い感想文を提出させるためなら、丸写しで十分である。というより、丸写しの方が遥かに合目的的でさえある。
丸写しで終わらせるのであれば、子供にとっても楽だし、親にとってはなおさら楽である。が、親はそれで良いかもしれないが、子供はそうではない。僕が子供に感想文の書き方を教えるのは、子供に文章の書き方、物の考え方を学ばせるためであって、良い感想文を提出させるためではない。

さて、先のエントリは、僕がどうやって子供に感想文を書かせるか、というシミュレーションである。
子供に理屈だけ教えても、できるようにはならない。理屈はこうで、実際にはこうするんだ、というふうでないと、子供の身には付かない。これがなかなか大変である。
改めて簡単に掻い摘んで説明すると、まずは、広告の裏紙でも何でも、いらない紙に思い付いたことをランダムにたくさんメモさせる。面白かったところとか、感想とか。当然、纏まった文章になどなっているはずがない。
少し纏まっているブロックごとに切り取って行く。切り取ったら、順番を考えて並べ替えて行く。当然、さっきよりは少し纏まって来る。
並べ替えたらもう一度書く。少し纏まったと言っても切り貼りを写しただけだから、どうしても繋がりの悪いところが出て来る。まったく繋がらないところもあるので、足りない部分を書き足す。重複している部分があったら片方を消す。できたらもう一度切る。が、最初ほどは細切れにならない。そしてまた並べ替えて書き直す。書き足す。そしてもう一度切る。並べ替えて書き直す。…そうやっている内に、だんだんと纏まって来る。言ってみれば、KJ法みたいなものである。

そうやって漸くでき上がったものは、大変な苦労の甲斐もなく、読書感想文コンクールで入賞するような代物では到底ない。が、子供の頃にそうやって苦労して書き上げた経験が、いつかどこかで何かの役に立つようなことがあれば、と願うものである。
どうしても丸写しをしたいのであれば、ご随意に。

ともあれ、どんな動機であれ、当ブログを訪れてくれた方には感謝する。