神保町ブックフェスティバル

例年、神田古本まつりの一環で、神保町ブックフェスティバルが開催される。
目玉はいろいろあるのだろうけれども、神保町の古書店街に比較的容易に行かれる者にとっては、古本よりむしろ、各出版社が出店して新刊書籍を販売する企画に食指が動く。
定価販売が原則の書籍だけれども、「ちょっと汚れておりますので」という名目で、実際にはさして汚れていないものが格安で入手できる。近年では、ふつうの書店でも自由価格本が扱われるようになっているとはいえ、その比ではない安さのものが、少なからずある。
そもそも書籍なんて、新刊として書店に並んでいるものだって、多少なりとも汚れていることがあって、本当に汚れていたところで、決定的な瑕疵になるものではない。
そして、神保町界隈に社屋を構える専門性の高い小さな出版社が多い分、魅力的なものが見つかることもある。
今回、10分くらいしか時間がなかったのでざっと見回しただけだったのだけれども、目に付いた本が1冊あったので購入した。

その本…が何かは書かずにおくけれども…が出版されて間もない頃だったと思うのだが、著者と思いがけない場所でお目に掛かったことがある。
それ以前にも小さな学会で一度会ったことがあったので、こちらから声を掛けた。先方は僕の顔までは覚えておらず、名乗るまで気づいていなかったのだが、そうと判ると急に慌て出して、「著書では酷いことを書いてしまって…(もごもご)」。その場はそのまま別れたのだが、何だ、酷いことを書かれているのか、と思ったまま、その本も読まずにいた。それが、特価で出ていたので購入したのである。
で、読んでみたら、ちっとも酷いことなんか書いていない。むろん反論したいところもないわけではないけれども、それはお互い様、真っ当な批判である。
何せ、根拠も明示せずに「理解できない」なんていうことを平気で書く人がいるような世界である。こんな批判なら、望むところである。
本来なら、きちんと学問的な場で批判を展開すべきなのだろうけれども、学説の相違はあるにしても、大筋の立場には異論がないので、改めて何かを書く気力が沸かない。それで、こんなところでお茶を濁しているわけである。

とまれ、それほど気にしていたわけではないのだけれども、ほんの僅か何となくもやっとした気分がないでもなかったのが、きれいさっぱり晴れたのは、神保町ブックフェスティバルのお陰である。

「イバンカ氏」

イヴァンカ・トランプ米大統領補佐官の来日を、各報道機関が伝えている。
いちいち「イバンカ・トランプ」と言うのも長ったらしいし、「トランプ」では大統領と紛らわしいからか、NHKを始め、ほとんどの報道機関が「イバンカ氏」と表現しているようだ。
「イバンカ」は「氏」じゃないと思うのだが…。

篠沢秀夫

何だか訃報ばかりだけれども、これは外せない。

「篠沢教授に全部」は永遠です…篠沢秀夫さん旅立つ

 TBS系「クイズダービー」の解答者として人気を集めた学習院大名誉教授の篠沢秀夫(しのざわ・ひでお)さんが26日未明、都内の病院で死去した。84歳だった。09年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、自宅で闘病生活を送っていた。葬儀・告別式の日程は未定。喪主は妻礼子(れいこ)さん。

 ◆篠沢秀夫(しのざわ・ひでお)1933年(昭8)6月6日、東京都生まれ。現日比谷高卒。学習院大文学部から東大大学院に進学、フランス文学を専攻。パリ大留学後、73年に学習院大教授に就任、04年から名誉教授。77~88年にかけてTBS系「クイズダービー」に出演。1枠のレギュラー解答者を務め、学者らしからぬ珍解答で人気に。13年に瑞宝中綬章受章。趣味は46歳で始めた乗馬。血液型AB。(日刊スポーツ)


大人になってから、篠沢教授の学者としての偉大さ(…の一部)を知るに至ったけれども、とはいえやはりクイズダービーの印象が抜けることはない。

自筆原稿

メモ。

太宰治「斜陽」、最終回の直筆原稿など発見

 作家、太宰治(1909~48年)の代表作の一つ「斜陽」の連載最終回の冒頭の直筆原稿をはじめ、二葉亭四迷や島崎藤村の小説の原稿、石川啄木や菊池寛の手紙など約30点が新潮社の関係者宅から見つかった。

 調査した早稲田大の中島国彦名誉教授は「文芸誌『新潮』などにゆかりがある原稿類を中心とし、点数も多い。近代文学の貴重な資料だ」としている。

 今回の資料は、新潮社の佐藤俊夫元会長が長く保管していた。

 「斜陽」は、「新潮」で1947年7月号から10月号に掲載された。今回の原稿は9月号と10月号の冒頭の2枚ずつ。「斜陽」は、200字詰め直筆原稿計521枚を日本近代文学館(東京都目黒区)が所蔵しており、6枚が所在不明になっていた。見つかったのは、そのうちの4枚という。(読売新聞)


個人的には、自筆原稿を重視しない立場に立つので、さしてワクワクすることもないのだけれども、貴重な発見ではあると思う。
四迷のものは、ちょっと面白そうではある。(他記事によれば、「其面影」の草稿で、完成稿とは書き出しが異なるのだとか。)

中村雄二郎

中村雄二郎氏が死去 哲学者「臨床の知」提唱

 現代日本を代表する哲学者で明治大名誉教授の中村雄二郎(なかむら・ゆうじろう)氏が26日、老衰のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。偲ぶ会を行うが日取りなどは未定。
 東京都出身。東京大大学院修了後、1964年に明治大教授。専門の哲学をドラマとして捉えた演劇論を展開するなど独自の視点で研究を進め、生命倫理などの分野で「臨床の知」「共通感覚」などの新しいテーマに取り組んだ。96年同大学名誉教授。著書に「共通感覚論」「臨床の知とは何か」「術語集」など。(日本経済新聞)


記事にもある『術語集』は、必読の書と…ぼくの周りではあまり言われていなかったけれども、世間では…言われていて、僕も読んだ。
手許にある本の奥付を見ると、僕が読んだのは大学4年生の頃だったようだ。
もう一度読み返してみるか。…いや、気力が続きそうもないな。

一口坂ふたたび

以前、「一口坂」のことを取り上げたことがある。
一口坂の交差点に「Hitokuchizaka」とあった、という話なのだが、その後、見つけたものがあったのであげておく。

都営地下鉄市ヶ谷駅A3出口付近の「千代田区エリアマップ」。

A3_千代田区エリアマップ
A3_千代田区エリアマップ

交差点にも坂にもバス停にも、「Hitokuchi Zaka(Hitokuchi-zaka)」と書いてある。

その、一口坂のバス停。

バス停
バス停

当然、「Hitokuchi-Zaka」である。

続いて、同A2出口付近の「千代田区総合防災案内板」。名前こそ違え、「千代田区エリアマップ」と同じようなものである。

A2_千代田区総合防災案内板
A2_千代田区総合防災案内板

こちらはなんと、「Imoaraizaka(Imoarai zaka)」である。

一口坂交差点付近にある「千代田区総合防災案内板」。

一口坂_千代田区総合防災案内板
一口坂_千代田区総合防災案内板

こちらも「Imoaraizaka(Imoarai zaka)」。「Hitokuchizaka」の交差点の目の前にあり、「Hitokuchi-Zaka」のバス停の間近にある案内板なのだが…。

たぶん、「千代田区総合防災案内板」が古く、「千代田区エリアマップ」が新しいものと思われる。「Imoaraizaka」だったのが、段々と読める人がいなくなって、「Hitokuchizaka」に変わった、という経緯なのかもしれない。
ツチイ晩翠がドイ晩翠に改名したようなもの、と、言えなくもない気がする。そのうち、「Imoaraizaka」は姿を消すことになるんだろう。
(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)

神保町

神保町交差点にある喫茶チェーン店の2階から外を見ていてふと気になった。

jinbocho

交差点名の英語表記が「Jinbocho」になっている。「Jimbocho」じゃないのか?
しかも、シールを貼っているところを見ると、元々「Jimbocho」だったものをわざわざ「Jinbocho」に修正した可能性が高いのではないかと思われる。

赤信号のちょうど下あたりに見えている案内板。

jinbocho

こちらも、「Jinbocho」である。ちなみに、この近くに合った神保町交番への案内板も「Jinbocho」だった。

それで、当の神保町駅の表記を見てみる。

jimbocho

こちらは「Jimbocho」である。
つまり、「Jinbocho Sta.」を目指して行くと、「Jimbocho Sta.」に辿り着くわけである。何だか、微妙に判りづらい。

駅の中にあった案内板。

jimbocho

神保町交差点を「Jimbocho Crossing」と表記している。「Jimbocho Crossing」を目指して行くと、「Jinbocho(Crossing)」に……。

駅名表示。

jimbocho

当然、「Jimbocho」である。

何の結論もないけれども、不統一だな、と思った次第。
東京都建設局が(たぶん)「Jinbocho」に統一しようとした理由はわからないけれども、東京都交通局とまったく連携せずにやったんだろうな、とは思う。
(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)

ひらがな

平安和歌刻む土器出土 全国初、山梨・甲州

 山梨県甲州市塩山にある奈良-平安時代の「ケカチ遺跡」から出土した土器に、仮名文字で和歌1首が刻まれていたことが分かり、同市や山梨県立博物館(同県笛吹市)が25日、発表した。同館によると、和歌1首が丸ごと刻まれた土器の出土は全国初で「平仮名の確立時期を裏付ける貴重な資料」としている。

 土器は皿の形をした「甲斐型土器」。2016年5月に出土した。直径12.4センチ、高さ2.6センチで、ほぼ完全な形で見つかった。特徴や土の種類から、平安時代中期(10世紀中ごろ)に、国府が直営する山梨県内の釜で生産されたとみられる。

 和歌は土器を焼く前に、表面に刻まれていた。ヘラのようなものを使ったらしい。皿の中央から左縁にかけて5行にわたり「しけいとのあはすや■なはふくるはかりそ(■は欠損)」などと記されていた。作者は不明。(産経ニュース)

和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに

 山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日本古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。

 発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。

 和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られないオリジナルで、恋や別離の和歌に使われる「絓糸(しけいと)」の言葉があり、惜別の気持ちを伝える内容。筆運びの巧みさから、都から派遣された国司のような人物が送別の宴席で地元の有力者に贈ったものとみられ、受け取る教養人が地方にいたことも示している。

 ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる。平川さんは「墨書ではなく刻書にしたのは、2人の関係を長く保ちたいという気持ちの表れではないか。ひらがなが成立したとされる『土佐日記』(935年ごろ)に近い時期の一等資料で、仮名の変遷とともに国文学や書道史の上でも価値がある」と話している。(朝日新聞DIGITAL)


10世紀中盤にひらがなが使われていたこと自体は新しい知見ではないものの、裏づける資料が多くて悪いわけがない。従来の説が誤りではなかったということを確かめるのも、重要なことである。

さて、…。
産経。「5行にわたり」と書いてあるのに3行分しか書かないのはいかがなものか。詳しくない人が見たら、これのどこが「和歌1首まるごと」なのか? と思われかねない。
朝日。和歌の読みを「一例として…と読める」と書いてあるのは、一般の人には通じないだろうと思う。「くくらむ」は、他紙によれば、「くるらむ」の可能性もあるようだ。「ひらがな」であることに意味があるのに、漢字を宛ててしまって読みを括弧書きするのはどうなのだろう。ある程度の知識のない人なら、「我により 思ひ繰くらむ…」と書かれていると思ってしまうのではないか。「ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる」というのは簡潔だが、こういうふうにきちんと説明されることは少ないように思う。「国文学…の上でも価値がある」とは、かならずしも思わない。

ところで、「ケカチ」って、何なんだろう?

附箋を剥がす(31)Including 「全然」(その20)

先日必要があって……というほどの必要でもないけれども、獅子文六の『ちんちん電車』(河出文庫)を読み返していた。その附箋を剥がすためのメモ。
この作品、以前、いわゆる「ら抜き」の問題で、取り上げたことがあるものである。

その家は、吉原の有名な義士ファンの幇間(たいこもち)と、吉原芸妓の夫婦がやっていたというが、二人とも、もう、ジイさんバアさんだった。私たちは学校の帰りだから、店の中の椽台で食べたが、普通の客は座敷に通った。昔の汁粉屋の客は、皆、座敷へ上がったものだが、ここの座敷からは、すぐ、海が見渡された。品川の海が、まだ、高輪の岸を洗っていた時代である。(泉岳寺――北の辻。P44)


「ら抜き」(正しくは「a-r抜き」)があるかと思えば、逆に、現在では「見渡せる」がふつうのことばに「a-r」が入っている例もある。

札の辻の次は三田であるが、以前は、その停留所を薩摩原(サツマッパラ)と呼んだ。そのくせ、ここを終点とする電車は、三田行の札を掲げていたが、恐らく、字画が多くて書きにくかったからだろう。幕府時代に薩摩藩の屋敷があったから、その名が出たのだろうが、原という荒涼の感じは、、電車が開通しても、まだ残っていた。(芝浦。P52)


「サツマッパラ」に目が留まってメモしておいた。何故目に留まったかは、たぶん僕以外の人には理解できないので理由は書かずにおく。

その頃、この店はカキアゲといってもイカを使い、サシミもマグロでなくブリだったが、それはそれで、結構食べれた。そして、まだ親がかりの身だった私にも、そう懐の痛まぬ値段だった。(東京港――新橋。P66)


以前引いたもののほかにも、いわゆる「ら抜き」があった。

実は、最初の調査の時に、私は貸切り電車に乗って、ここを通ったのだが、とても街がよく見える。タキシやバスに乗っては、望まれないことである。それは前にも書いた。(新橋――銀座。P73)


「a-r」が入っている例。

銀座の柳というものに、私は一向に魅力を感じず、水もない街路に、あんな木を植えたって仕方がないと思うのだが、昔は松と桜の並木だったのを、なぜ柳にしたかというイワレは、あの出雲町の交番に、巡査が立っていて、夏の日のカンカン照りには可哀そうだというので、日影の多い柳の木を、鋼板の側に植えたのが、ハジマリだという。(新橋――銀座。P75)


助詞「を」が気になったのでメモしておく。

昔の銀座も、前に述べたように、飲食は栄えていたが、名も知れぬ店というのは一軒もなかった。誰もチャンと名を覚えていられるほど、有名店ばかりだった。(銀座――京橋。P83)


現在ではまったく違和感はないけれども「ら抜き」と言えば言えないことのない例。

昔の銀座に、スシ屋の目ぼしい店はなかったように思うが、今は東京一、日本一みたいなのがあるらしい。だが、私は行く気になれない。ベラボーに高いというからである。そして、高いのを喜んで集る客なぞと、同席する気になれない。そんな連中は、スシの代りに紙幣でも食ってればいい。スシなんてものは、普通に食べて、千円も払ってくればいいのである。その程度の食べ物である。食べ物にも、身分というものがある。身分をわきまえて、相当に食わせる店が、銀座に二、三軒ある。私が水準が高いというのは、そういう店があるからである。(銀座――京橋。P84)


単に、面白いな、と思っただけのもの。

ところで、突然に、あの近代的恐竜の出現である。よく思い切って、あんな工事ができたものと、感心するくらいだが、橋の存在は、全然無視されたから、今の状態になるのは、当然である。(日本橋。P96)


否定を伴わない「全然」の事例。

金港堂の方は、教科書出版だったから、あまり縁がなかったが、とにかく、有名な出版社が日本橋に多かったという過去に、興味を感じるのである。それは、昔日の日本橋が、東京のあらゆる一流的な企業を、吸い寄せ、その中心になってたことの証跡となるかも知れない。(続・日本橋。P105)


いろいろな言葉に「的」を付けてしまうのは日本語の造語力の強さを示しているけれども、「一流的」はあまり見慣れない例なのでメモしておく。

室町三丁目の電停附近を十軒店(じっけんだな)といい、人形やが沢山列んでたが、いつの昔か。三月と五月の節句人形の売出しの時には、電車の窓から、賑やかな彩りが見えた。年末になると、羽子板の市が立った。戦後、人形屋の一軒がゴルフ道具屋になったとか聞いたが、そのような転業のために、街の季節感は、もう味わわれなくなった。(神田から黒門町。P108)

ヤッチャ場は秋葉原へ移ったが、その殷賑の余曳が、まだ窺われないこともない。須田町附近が一つの盛り場として、面影を止めてることも、また、電車通りに、ベッタラ漬で有名な、中川屋という漬物や、ノレンの古い万惣という果物屋のあることも、ヤッチャ場との関係の名残だろう。(神田から黒門町。P109)


現在なら「a-r」抜きで「味わえなく」「窺えない」というところだろう。

私はこの稿を書くために、更めて浅草見物に出かけ、伝法院の中の幇間塚というものに感心したが、さらに、奥山の弁士塚の前に立って、実に、感慨無量だった。タヌキ塚とちがって、この方は碑も立派なものだが、刻まれた弁士の名を読むと、いちいち記憶が甦ってきて、その声まで、耳に聞えてくる。花井秀雄なんて名は全然忘れていたが、八字ヒゲの顔や、"不夜城の光景と相成りまァす"という、キネオラマの説明の文句まで、思い出して、わが年少の時代に、再会した想いがした。(六区今昔。P154)


否定を伴わない「全然」の事例、その2。

さて、そのキレイで巌丈な、耐火建築になった本堂だが、いつも、サイセン箱の前で、拝んで帰るだけなのを、今度は、浅草の顔役が案内してくれたお蔭で、内部に入ることができた。(観音堂と周辺。P160)


助詞「を」が気になったのでメモしておく、その2。

正岡子規

メモ。

正岡子規の未発表5句見つかる 自画像2点も

今年生誕150年を迎えた俳人・正岡子規(1867~1902)が、死の前年の正月に詠んだ俳句5句と自画像2点などが載った冊子が見つかった。全集などにもなく、晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。

表紙に「明治卅(さんじゅう)四年一月一日 歳旦帳」と記された和とじの32ページの冊子(縦24センチ、横16センチ)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。長い間所在不明で「子規庵(あん)」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった。

子規は掲載8句のうち5句が新出。無署名だが、筆跡や、それ以前にも似た句があることなどから子規の句と判断された。(朝日新聞DIGITAL)