中村雄二郎

中村雄二郎氏が死去 哲学者「臨床の知」提唱

 現代日本を代表する哲学者で明治大名誉教授の中村雄二郎(なかむら・ゆうじろう)氏が26日、老衰のため東京都内の病院で死去した。91歳だった。偲ぶ会を行うが日取りなどは未定。
 東京都出身。東京大大学院修了後、1964年に明治大教授。専門の哲学をドラマとして捉えた演劇論を展開するなど独自の視点で研究を進め、生命倫理などの分野で「臨床の知」「共通感覚」などの新しいテーマに取り組んだ。96年同大学名誉教授。著書に「共通感覚論」「臨床の知とは何か」「術語集」など。(日本経済新聞)


記事にもある『術語集』は、必読の書と…ぼくの周りではあまり言われていなかったけれども、世間では…言われていて、僕も読んだ。
手許にある本の奥付を見ると、僕が読んだのは大学4年生の頃だったようだ。
もう一度読み返してみるか。…いや、気力が続きそうもないな。

一口坂ふたたび

以前、「一口坂」のことを取り上げたことがある。
一口坂の交差点に「Hitokuchizaka」とあった、という話なのだが、その後、見つけたものがあったのであげておく。

都営地下鉄市ヶ谷駅A3出口付近の「千代田区エリアマップ」。

A3_千代田区エリアマップ
A3_千代田区エリアマップ

交差点にも坂にもバス停にも、「Hitokuchi Zaka(Hitokuchi-zaka)」と書いてある。

その、一口坂のバス停。

バス停
バス停

当然、「Hitokuchi-Zaka」である。

続いて、同A2出口付近の「千代田区総合防災案内板」。名前こそ違え、「千代田区エリアマップ」と同じようなものである。

A2_千代田区総合防災案内板
A2_千代田区総合防災案内板

こちらはなんと、「Imoaraizaka(Imoarai zaka)」である。

一口坂交差点付近にある「千代田区総合防災案内板」。

一口坂_千代田区総合防災案内板
一口坂_千代田区総合防災案内板

こちらも「Imoaraizaka(Imoarai zaka)」。「Hitokuchizaka」の交差点の目の前にあり、「Hitokuchi-Zaka」のバス停の間近にある案内板なのだが…。

たぶん、「千代田区総合防災案内板」が古く、「千代田区エリアマップ」が新しいものと思われる。「Imoaraizaka」だったのが、段々と読める人がいなくなって、「Hitokuchizaka」に変わった、という経緯なのかもしれない。
ツチイ晩翠がドイ晩翠に改名したようなもの、と、言えなくもない気がする。そのうち、「Imoaraizaka」は姿を消すことになるんだろう。
(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)

神保町

神保町交差点にある喫茶チェーン店の2階から外を見ていてふと気になった。

jinbocho

交差点名の英語表記が「Jinbocho」になっている。「Jimbocho」じゃないのか?
しかも、シールを貼っているところを見ると、元々「Jimbocho」だったものをわざわざ「Jinbocho」に修正した可能性が高いのではないかと思われる。

赤信号のちょうど下あたりに見えている案内板。

jinbocho

こちらも、「Jinbocho」である。ちなみに、この近くに合った神保町交番への案内板も「Jinbocho」だった。

それで、当の神保町駅の表記を見てみる。

jimbocho

こちらは「Jimbocho」である。
つまり、「Jinbocho Sta.」を目指して行くと、「Jimbocho Sta.」に辿り着くわけである。何だか、微妙に判りづらい。

駅の中にあった案内板。

jimbocho

神保町交差点を「Jimbocho Crossing」と表記している。「Jimbocho Crossing」を目指して行くと、「Jinbocho(Crossing)」に……。

駅名表示。

jimbocho

当然、「Jimbocho」である。

何の結論もないけれども、不統一だな、と思った次第。
東京都建設局が(たぶん)「Jinbocho」に統一しようとした理由はわからないけれども、東京都交通局とまったく連携せずにやったんだろうな、とは思う。
(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)

ひらがな

平安和歌刻む土器出土 全国初、山梨・甲州

 山梨県甲州市塩山にある奈良-平安時代の「ケカチ遺跡」から出土した土器に、仮名文字で和歌1首が刻まれていたことが分かり、同市や山梨県立博物館(同県笛吹市)が25日、発表した。同館によると、和歌1首が丸ごと刻まれた土器の出土は全国初で「平仮名の確立時期を裏付ける貴重な資料」としている。

 土器は皿の形をした「甲斐型土器」。2016年5月に出土した。直径12.4センチ、高さ2.6センチで、ほぼ完全な形で見つかった。特徴や土の種類から、平安時代中期(10世紀中ごろ)に、国府が直営する山梨県内の釜で生産されたとみられる。

 和歌は土器を焼く前に、表面に刻まれていた。ヘラのようなものを使ったらしい。皿の中央から左縁にかけて5行にわたり「しけいとのあはすや■なはふくるはかりそ(■は欠損)」などと記されていた。作者は不明。(産経ニュース)

和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに

 山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日本古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。

 発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。

 和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られないオリジナルで、恋や別離の和歌に使われる「絓糸(しけいと)」の言葉があり、惜別の気持ちを伝える内容。筆運びの巧みさから、都から派遣された国司のような人物が送別の宴席で地元の有力者に贈ったものとみられ、受け取る教養人が地方にいたことも示している。

 ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる。平川さんは「墨書ではなく刻書にしたのは、2人の関係を長く保ちたいという気持ちの表れではないか。ひらがなが成立したとされる『土佐日記』(935年ごろ)に近い時期の一等資料で、仮名の変遷とともに国文学や書道史の上でも価値がある」と話している。(朝日新聞DIGITAL)


10世紀中盤にひらがなが使われていたこと自体は新しい知見ではないものの、裏づける資料が多くて悪いわけがない。従来の説が誤りではなかったということを確かめるのも、重要なことである。

さて、…。
産経。「5行にわたり」と書いてあるのに3行分しか書かないのはいかがなものか。詳しくない人が見たら、これのどこが「和歌1首まるごと」なのか? と思われかねない。
朝日。和歌の読みを「一例として…と読める」と書いてあるのは、一般の人には通じないだろうと思う。「くくらむ」は、他紙によれば、「くるらむ」の可能性もあるようだ。「ひらがな」であることに意味があるのに、漢字を宛ててしまって読みを括弧書きするのはどうなのだろう。ある程度の知識のない人なら、「我により 思ひ繰くらむ…」と書かれていると思ってしまうのではないか。「ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる」というのは簡潔だが、こういうふうにきちんと説明されることは少ないように思う。「国文学…の上でも価値がある」とは、かならずしも思わない。

ところで、「ケカチ」って、何なんだろう?

附箋を剥がす(31)Including 「全然」(その20)

先日必要があって……というほどの必要でもないけれども、獅子文六の『ちんちん電車』(河出文庫)を読み返していた。その附箋を剥がすためのメモ。
この作品、以前、いわゆる「ら抜き」の問題で、取り上げたことがあるものである。

その家は、吉原の有名な義士ファンの幇間(たいこもち)と、吉原芸妓の夫婦がやっていたというが、二人とも、もう、ジイさんバアさんだった。私たちは学校の帰りだから、店の中の椽台で食べたが、普通の客は座敷に通った。昔の汁粉屋の客は、皆、座敷へ上がったものだが、ここの座敷からは、すぐ、海が見渡された。品川の海が、まだ、高輪の岸を洗っていた時代である。(泉岳寺――北の辻。P44)


「ら抜き」(正しくは「a-r抜き」)があるかと思えば、逆に、現在では「見渡せる」がふつうのことばに「a-r」が入っている例もある。

札の辻の次は三田であるが、以前は、その停留所を薩摩原(サツマッパラ)と呼んだ。そのくせ、ここを終点とする電車は、三田行の札を掲げていたが、恐らく、字画が多くて書きにくかったからだろう。幕府時代に薩摩藩の屋敷があったから、その名が出たのだろうが、原という荒涼の感じは、、電車が開通しても、まだ残っていた。(芝浦。P52)


「サツマッパラ」に目が留まってメモしておいた。何故目に留まったかは、たぶん僕以外の人には理解できないので理由は書かずにおく。

その頃、この店はカキアゲといってもイカを使い、サシミもマグロでなくブリだったが、それはそれで、結構食べれた。そして、まだ親がかりの身だった私にも、そう懐の痛まぬ値段だった。(東京港――新橋。P66)


以前引いたもののほかにも、いわゆる「ら抜き」があった。

実は、最初の調査の時に、私は貸切り電車に乗って、ここを通ったのだが、とても街がよく見える。タキシやバスに乗っては、望まれないことである。それは前にも書いた。(新橋――銀座。P73)


「a-r」が入っている例。

銀座の柳というものに、私は一向に魅力を感じず、水もない街路に、あんな木を植えたって仕方がないと思うのだが、昔は松と桜の並木だったのを、なぜ柳にしたかというイワレは、あの出雲町の交番に、巡査が立っていて、夏の日のカンカン照りには可哀そうだというので、日影の多い柳の木を、鋼板の側に植えたのが、ハジマリだという。(新橋――銀座。P75)


助詞「を」が気になったのでメモしておく。

昔の銀座も、前に述べたように、飲食は栄えていたが、名も知れぬ店というのは一軒もなかった。誰もチャンと名を覚えていられるほど、有名店ばかりだった。(銀座――京橋。P83)


現在ではまったく違和感はないけれども「ら抜き」と言えば言えないことのない例。

昔の銀座に、スシ屋の目ぼしい店はなかったように思うが、今は東京一、日本一みたいなのがあるらしい。だが、私は行く気になれない。ベラボーに高いというからである。そして、高いのを喜んで集る客なぞと、同席する気になれない。そんな連中は、スシの代りに紙幣でも食ってればいい。スシなんてものは、普通に食べて、千円も払ってくればいいのである。その程度の食べ物である。食べ物にも、身分というものがある。身分をわきまえて、相当に食わせる店が、銀座に二、三軒ある。私が水準が高いというのは、そういう店があるからである。(銀座――京橋。P84)


単に、面白いな、と思っただけのもの。

ところで、突然に、あの近代的恐竜の出現である。よく思い切って、あんな工事ができたものと、感心するくらいだが、橋の存在は、全然無視されたから、今の状態になるのは、当然である。(日本橋。P96)


否定を伴わない「全然」の事例。

金港堂の方は、教科書出版だったから、あまり縁がなかったが、とにかく、有名な出版社が日本橋に多かったという過去に、興味を感じるのである。それは、昔日の日本橋が、東京のあらゆる一流的な企業を、吸い寄せ、その中心になってたことの証跡となるかも知れない。(続・日本橋。P105)


いろいろな言葉に「的」を付けてしまうのは日本語の造語力の強さを示しているけれども、「一流的」はあまり見慣れない例なのでメモしておく。

室町三丁目の電停附近を十軒店(じっけんだな)といい、人形やが沢山列んでたが、いつの昔か。三月と五月の節句人形の売出しの時には、電車の窓から、賑やかな彩りが見えた。年末になると、羽子板の市が立った。戦後、人形屋の一軒がゴルフ道具屋になったとか聞いたが、そのような転業のために、街の季節感は、もう味わわれなくなった。(神田から黒門町。P108)

ヤッチャ場は秋葉原へ移ったが、その殷賑の余曳が、まだ窺われないこともない。須田町附近が一つの盛り場として、面影を止めてることも、また、電車通りに、ベッタラ漬で有名な、中川屋という漬物や、ノレンの古い万惣という果物屋のあることも、ヤッチャ場との関係の名残だろう。(神田から黒門町。P109)


「a-r」抜き。現在なら「味わえなく」「窺えない」というところだろう。

私はこの稿を書くために、更めて浅草見物に出かけ、伝法院の中の幇間塚というものに感心したが、さらに、奥山の弁士塚の前に立って、実に、感慨無量だった。タヌキ塚とちがって、この方は碑も立派なものだが、刻まれた弁士の名を読むと、いちいち記憶が甦ってきて、その声まで、耳に聞えてくる。花井秀雄なんて名は全然忘れていたが、八字ヒゲの顔や、"不夜城の光景と相成りまァす"という、キネオラマの説明の文句まで、思い出して、わが年少の時代に、再会した想いがした。(六区今昔。P154)


否定を伴わない「全然」の事例、その2。

さて、そのキレイで巌丈な、耐火建築になった本堂だが、いつも、サイセン箱の前で、拝んで帰るだけなのを、今度は、浅草の顔役が案内してくれたお蔭で、内部に入ることができた。(観音堂と周辺。P160)


助詞「を」が気になったのでメモしておく、その2。

正岡子規

メモ。

正岡子規の未発表5句見つかる 自画像2点も

今年生誕150年を迎えた俳人・正岡子規(1867~1902)が、死の前年の正月に詠んだ俳句5句と自画像2点などが載った冊子が見つかった。全集などにもなく、晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。

表紙に「明治卅(さんじゅう)四年一月一日 歳旦帳」と記された和とじの32ページの冊子(縦24センチ、横16センチ)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。長い間所在不明で「子規庵(あん)」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった。

子規は掲載8句のうち5句が新出。無署名だが、筆跡や、それ以前にも似た句があることなどから子規の句と判断された。(朝日新聞DIGITAL)

訃報・原子朗

原子朗氏が死去 詩人、早稲田大名誉教授

原 子朗氏(はら・しろう=詩人、早稲田大名誉教授)4日、老衰のため死去、92歳。自宅は東京都練馬区練馬2の31の2。お別れの会は8日午前9時45分から同区春日町4の17の1の愛染院会館。喪主は妻、昭子さん。

宮沢賢治研究の第一人者で、宮沢賢治イーハトーブ館館長を務めた。(日本經濟新聞)


僕にとっては、日本における修辞学研究の草分け的存在で、『修辞学の史的研究』の著者だ…という認識だったのだが、いくつか見た記事にはそういうことは書かれていなかった。
が、僕はこの本は発売当初に早速買った。

『芸人式新聞の読み方』

以前に何度か書いたことがあるが、我が家では産経新聞を購読している。
産経新聞といえば、政権寄りで右方向に偏っているのは自明のことだが、それを認識してさえいれば、別段何の問題もない。そもそも、どこにも偏っていない報道機関などあるわけがないし、もし仮にあったとしたら、そんな詰らなくて役に立たないものはないだろう。
ただ、昨今の傾向として、朝日なら朝日、読売なら読売の主張を一方的に盲信して、それ以外の主張を間違いだと決め付ける傾向が強まっているように感じる。世の中に絶対的な正義なんてあるものではないのに…。

そんな中、この本は実に面白かった。

プチ鹿島『芸人式新聞の読み方』(幻冬舎)

芸人式新聞の読み方

「新聞は、キャラが違うからこそおもしろい。書いていることがばらばらだからこそ、読み比べる楽しさがある」と言う。

「「オバマすし報道」に見る読み比べの醍醐味」でオバマ大統領来日時、すきやばし次郎の高級鮨を半分残した、という記事を切っ掛けにその時の裏事情まで推測したり、SMAP解散報道や安保デモの人数の記事を読み比べたり…と、テーマは様々。
2014年のソチ五輪の報道で、日刊ゲンダイが2月8日にガキの遊びのスノボが五輪競技か、とボロクソに書いていたのに、日本勢がメダルを取った途端の13日、かつてガキの遊びとボロクソに言われた時代があったが…、と言を翻したことなど、新聞をここまでしっかり読んでいると本当に楽しいだろうと思う。
リオ五輪の閉会式の「安倍マリオ」の真相? など、かなり東スポがかった見方ではあるけれど、もしかしたらそれが正解なのかも、と思わせるところもある。

「はじめに」で、地下鉄サリン事件の際、朝日と東スポの見出しが同じになったことにショックを受けた、という話を書いているが、これはなるほど思った。
「次にまた『朝日』と『東スポ』の見出しが同じになる日がきたら、それは日本が深刻な状況になっているときだろう」というのは、なかなかに重い。

著者は、現代において人々が「疑心暗鬼」を楽しめなくなって来ていると言う。白か黒かを性急に求めるのではなく、自分の中の「正義」を疑ってみること、そしてそれを楽しめることが必要だ、という主張は、聴くべきものがあると思う。

仕事熱心

朝、電車に乗っていたら、近くに立っていた若い女性が何やら一所懸命ノートしている。どうやら仕事のシミュレーションをしているらしい。なかなか熱心だ。
見るとはなしに、ふと眼に入った一節。

TELLフォロー
○○さんの補聴器でお電話になります。××(店名らしい)と申します。


激しく指導してあげたい衝動に駆られたのだけれども、我慢した。

以上。

『わかりやすい会津の歴史』

会津土産。

『わかりやすい会津の歴史 古代・中世・近世編』

わかりやすい会津の歴史古代中世近世編

会津武家屋敷の売店で見つけて購入した。
興味の沸いたところから拾い読みしているだけだけれども、書名の通りわかりやすい。
会津に興味のない人にはほとんど価値はないかも知れないけれども、「保科」の端くれとしては、会津の歴史には興味を持たざるを得ない。
僕の知っている中国人の孔さんは、孔子の子孫だと大真面目に言っているし、孫さんは孫悟空の子孫だと(こちらは冗談混じりにだが)言っている。その根拠は、名字が「孔」とか「孫」だという以上のものではないようである。
その伝で言えば、僕と会津保科(松平)家との間に、幾許かの関係があると強弁することも、根拠が皆無だとは一概には言い切れない。
そんなこんなで、土産に選んだのである。

なお、会津武家屋敷にはこの『古代・中世・近世編』しかなかったのだけれども、「編」というからにはその続きがあるに違いない、と思って、東京に戻ってから調べて以下のものも購入した。

『わかりやすい会津の歴史 幕末・現代編』

わかりやすい会津の歴史幕末近世編

絶版のため、入手するには流通在庫を探すしかないようである。

…と、いうわけで、5年ぶりに会津に行って来たわけである。
[ 2017/04/05 23:59 ] 本と言葉 歴史の本 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△