ひらがな

平安和歌刻む土器出土 全国初、山梨・甲州

 山梨県甲州市塩山にある奈良-平安時代の「ケカチ遺跡」から出土した土器に、仮名文字で和歌1首が刻まれていたことが分かり、同市や山梨県立博物館(同県笛吹市)が25日、発表した。同館によると、和歌1首が丸ごと刻まれた土器の出土は全国初で「平仮名の確立時期を裏付ける貴重な資料」としている。

 土器は皿の形をした「甲斐型土器」。2016年5月に出土した。直径12.4センチ、高さ2.6センチで、ほぼ完全な形で見つかった。特徴や土の種類から、平安時代中期(10世紀中ごろ)に、国府が直営する山梨県内の釜で生産されたとみられる。

 和歌は土器を焼く前に、表面に刻まれていた。ヘラのようなものを使ったらしい。皿の中央から左縁にかけて5行にわたり「しけいとのあはすや■なはふくるはかりそ(■は欠損)」などと記されていた。作者は不明。(産経ニュース)

和歌刻んだ土器が出土 ひらがなの伝播知る手がかりに

 山梨県甲州市塩山下於曽(えんざんしもおぞ)の平安時代の「ケカチ遺跡」の居館跡から、和歌を刻んだ10世紀半ばの土器が見つかった。甲州市と市教委が25日、発表した。土器を調べた県立博物館の平川南館長(日本古代史)は「この時期のひらがなのみで書かれた和歌1首が出土資料として発見された例はなく、中央から地方へのひらがなの伝播(でんぱ)を知る上で極めて重要だ」と話している。

 発表によると、甲斐型土器と呼ばれる素焼きの土師器(はじき)の皿(直径約12センチ)の内面に、1文字の欠損部分を含め31文字が5行にわたって刻まれている。生乾きの状態で竹べらの先端を用いて彫り、その後焼成されたとみられる。すずりや鉄製のおもりなどとともに出土した。

 和歌は、一例として「我(われ)により 思ひ繰(くく)らむ 絓糸(しけいと)の 逢(あ)はずやみなば 更(ふ)くるばかりぞ」と読めるという。万葉集や古今和歌集などに見られないオリジナルで、恋や別離の和歌に使われる「絓糸(しけいと)」の言葉があり、惜別の気持ちを伝える内容。筆運びの巧みさから、都から派遣された国司のような人物が送別の宴席で地元の有力者に贈ったものとみられ、受け取る教養人が地方にいたことも示している。

 ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる。平川さんは「墨書ではなく刻書にしたのは、2人の関係を長く保ちたいという気持ちの表れではないか。ひらがなが成立したとされる『土佐日記』(935年ごろ)に近い時期の一等資料で、仮名の変遷とともに国文学や書道史の上でも価値がある」と話している。(朝日新聞DIGITAL)


10世紀中盤にひらがなが使われていたこと自体は新しい知見ではないものの、裏づける資料が多くて悪いわけがない。従来の説が誤りではなかったということを確かめるのも、重要なことである。

さて、…。
産経。「5行にわたり」と書いてあるのに3行分しか書かないのはいかがなものか。詳しくない人が見たら、これのどこが「和歌1首まるごと」なのか? と思われかねない。
朝日。和歌の読みを「一例として…と読める」と書いてあるのは、一般の人には通じないだろうと思う。「くくらむ」は、他紙によれば、「くるらむ」の可能性もあるようだ。「ひらがな」であることに意味があるのに、漢字を宛ててしまって読みを括弧書きするのはどうなのだろう。ある程度の知識のない人なら、「我により 思ひ繰くらむ…」と書かれていると思ってしまうのではないか。「ひらがなは、8世紀の万葉仮名から草仮名を経て成立したとされる」というのは簡潔だが、こういうふうにきちんと説明されることは少ないように思う。「国文学…の上でも価値がある」とは、かならずしも思わない。

ところで、「ケカチ」って、何なんだろう?

正岡子規

メモ。

正岡子規の未発表5句見つかる 自画像2点も

今年生誕150年を迎えた俳人・正岡子規(1867~1902)が、死の前年の正月に詠んだ俳句5句と自画像2点などが載った冊子が見つかった。全集などにもなく、晩年の子規の心情や様子がうかがえる資料だ。

表紙に「明治卅(さんじゅう)四年一月一日 歳旦帳」と記された和とじの32ページの冊子(縦24センチ、横16センチ)で、子規と、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)ら弟子や友人13人が俳句や短歌、画をしたためている。長い間所在不明で「子規庵(あん)」(東京都台東区)を運営する子規庵保存会に数年前に寄託された個人の資料から見つかった。

子規は掲載8句のうち5句が新出。無署名だが、筆跡や、それ以前にも似た句があることなどから子規の句と判断された。(朝日新聞DIGITAL)

訃報・原子朗

原子朗氏が死去 詩人、早稲田大名誉教授

原 子朗氏(はら・しろう=詩人、早稲田大名誉教授)4日、老衰のため死去、92歳。自宅は東京都練馬区練馬2の31の2。お別れの会は8日午前9時45分から同区春日町4の17の1の愛染院会館。喪主は妻、昭子さん。

宮沢賢治研究の第一人者で、宮沢賢治イーハトーブ館館長を務めた。(日本經濟新聞)


僕にとっては、日本における修辞学研究の草分け的存在で、『修辞学の史的研究』の著者だ…という認識だったのだが、いくつか見た記事にはそういうことは書かれていなかった。
が、僕はこの本は発売当初に早速買った。

鴎外の書簡

森鴎外29歳時の書簡、2月初公開 初期の創作活動知る資料

文豪の森鴎外(1862~1922年)が29歳の時、作家で劇評家の饗庭篁村(あえば・こうそん、1855~1922年)に宛てて書いた全集未収録の書簡1通が4日までに見つかった。東京都の文京区立森鴎外記念館が昨年夏に都内の古書店から購入、2月2日から初公開する。

この頃の鴎外の書簡は全集でも収録数が少ないといい、記念館は「鴎外の初期の創作活動を知ることができる貴重な資料だ」としている。

書簡は1891年2月27日付で、巻紙に毛筆で書かれている。鴎外の留守時に家を訪ねて来た篁村に対し、「今日おん目にかくべかりしにと遺憾」と記し、書き上げたばかりの原稿を見せたかったと残念がっている。

書簡に出てくる原稿は「朗読法につきての争」と題され、鴎外が主宰する文学評論雑誌「しがらみ草紙」18号(同年3月25日発行)に掲載された。篁村らが東京専門学校(現早稲田大)に設けようとしていた「和文朗読法の科」に鴎外が賛同するとの内容だ。

鴎外は88年、4年にわたるドイツ留学から帰国。90年には小説「舞姫」を発表するなど、軍医として勤務する傍ら、文学活動に本腰を入れ始めた時期に当たる。(日本経済新聞)


未知の書簡が発見されて、鴎外の文学の読みが変わると考える立場には立たないけれども、とはいえ興味深い発見である、とは思う。

『青蛙堂鬼談』

特に何かを買うわけではないのに、一と月に文庫本1 冊買えるくらいのポイントが貯まるサイトがあり、しかもそれが期間限定のポイントなので、それでふつうなら買わないような文庫本を捜して買うことがある。
それで、最近買った本。

岡本綺堂『青蛙堂鬼談 岡本綺堂読物集二』(中公文庫)

青蛙堂鬼談


僕の性格からすると、「一」を読まずに「二」を読むのはどうにも気持ちが悪い。仮に読まないにしても「一」を持っていないというのがどうにも落ち着かない。短篇連作で「一」と「二」との間に特段の連関がないとはいえ、である。
それが何故に「二」を買ったのかというと、そのサイトの商品ページで書名にサブタイトルが併記されておらず、「二」だということに気づかなかったからである。実に出来の悪いサイトである(だからそのサイトにはリンクを貼っていない)…が、実質的にはロハで貰ったようなものだから、これ以上文句は言わない。

さて、この本を読んで何が驚いたかと言うに、2012年初版のものであるにもかかわらず、旧かなづかいで書かれていることである。内田百閒ですら新かなづかいに改められて久しく、今や国文科の学生でも旧かなづかいの作品を読みこなすことが覚束ない状況である。「当時の読本の雰囲気を伝えるべく」(編集部)したことだと言うけれども、ずいぶん思い切ったことをしたものだと思う。それが2014年に再版されていることは、もっと驚きだが。

「鬼談」というタイトルから想像が付くように怪談(と断定して良いかどうかは判らないけれども)だけれども、ただ恐怖を煽り立てるような派手なものではなく、 さほど怖いわけではない。が、面白い。文章が実にしっかりとしていて良い。
岡本綺堂の小説は「半七」しか読んだことがなかったのだけれども、それとはひと味違ったじっくりと読ませる話である。

続き…というか、「一」から、改めて読んでみたいと思う。

訃報201605_2

大阪大名誉教授の島津忠夫さん死去

島津忠夫さん(しまづ・ただお=大阪大名誉教授・中世文学)が4月16日、転移性肝腫瘍(しゅよう)で死去、89歳。葬儀は近親者で営んだ。

「島津忠夫著作集」(全15巻)などの業績で08年に現代短歌大賞。連歌の研究でも知られた。冷泉家時雨亭文庫顧問。
(朝日新聞DIGITAL)


僕の学生時代にはすでに高名で、専門分野の関係もあって実際にその姿を目にする機会もなかったので、もっと年輩の方かと思い込んでいた。実際の年齢を知った時にその意外な若さに驚いた覚えがある。

『道草』

漱石の「道草」、自筆原稿発見 26日から初公開

文豪夏目漱石(1867~1916年)の小説「道草」の自筆原稿の一部を、神奈川県内に住む個人が所蔵していることが22日、分かった。原稿は全102章のうち2章の全文18枚で、神奈川近代文学館(横浜市)で26日から開かれる特別展「100年目に出会う 夏目漱石」で初公開される。

同文学館によると、原稿は「十六」と「十七」の2章分で各9枚。昨年11月、所蔵していた個人から連絡があり、筆跡鑑定や、漱石が使っていた他の原稿用紙との照合を行った結果、自筆原稿と確認した。原稿には漱石が推敲(すいこう)した跡があり、創作過程の一端がうかがえる。(日本経済新聞)


正直なところ、自筆原稿というものにあまり重きを置いておらず、さほどの興味はないのだけれども、備忘のために上げておく。

最近の訃報・補遺

最近目にした訃報で、気になっていたものをひとつ漏していたので追加。

作家の高田宏さん死去 「言葉の海へ」で大佛次郎賞

言語学者として国語の統一に尽力した大槻文彦の伝記「言葉の海へ」で、78年に大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を受賞した作家の高田宏(たかだ・ひろし)さんが、11月24日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。83歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻喜江子(きえこ)さん。

エッセー「木に会う」で90年、読売文学賞を受賞。石川県九谷焼美術館の館長や平安女学院大学の学長、将棋ペンクラブの会長なども務めた。(朝日新聞デジタル)


大学1年生の時に、人に勧められて『言葉の海へ』を読んだ。
内容はすっかり忘れてしまったけれども、その本は未だ実家にあるから、今度行った時に、持って来ようか。

「傘も化て目のある月夜哉」

<与謝蕪村>新たに212句 天理大付属図書館入手の句集に

天理大付属天理図書館(奈良県天理市)は14日、入手した句集に、江戸時代を代表する俳人、与謝蕪村(よさ・ぶそん)(1716~83)の作で、知られていなかった212句が収録されていたと発表した。蕪村の句でこれまでに確認されていたのは約2900句で、専門家は「これだけまとまった新出句が判明したのは意義深い」としている。

同図書館によると、「夜半亭(やはんてい)蕪村句集」。蕪村門下の京都・寺村百池(ひゃくち)の家に伝わっていたとされる。1934(昭和9)年に雑誌「俳句研究」でその存在が紹介された後、行方が分からなかったが、同図書館が約4年前に書店から入手した。(毎日新聞)


国文学史を変えるような発見は、昭和14年の「廿巻本類聚歌合」が最後で、それ以上の発見は爾後ありえないだろうと考えているし、今回もその考えに変わりはないのだけれども、200句以上も見つかったのだから、蕪村研究においてはそれなりのインパクトはあるものと思う。

その道に造詣はまったく深くないけれども、タイトルに引用した句は、なかなか飄逸だな、と思う。

阿川弘之

作家の阿川弘之さんが死去 文化勲章受章者

「山本五十六」など文学性に満ちた戦争小説で知られる作家で、文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)さんが3日午後10時33分、老衰のため都内の病院で死去した。94歳だった。偲ぶ会を行うが日取りなどは未定。

 広島市生まれ。1942年に東京帝大(現東大)国文科を繰り上げ卒業後、予備学生として海軍に入隊。士官として通信諜報(ちょうほう)の任務につく。中国・漢口で終戦を迎え、帰国後は志賀直哉に師事して小説を執筆。自らの体験をもとに、海軍予備学生たちの青春を端正な筆致でつづった「春の城」(52年、読売文学賞)で作家としての地位を確立した。(日本経済新聞)


「第三の新人」の一人…と言っても、個人的には遠藤周作は読んだけれども、阿川弘之はほとんど読んだことがない。
けれども、当ブログにご来訪されている諸兄が阿川作品の読者かどうかは判らないけれども、そうでなかったとしても、『きかんしゃやえもん』の作者だと言えば、知らない人はいないだろうと思う。
まったく知らなかったのだが、無類の鉄道マニアだったんだとか。

ところで、昔々、遠藤周作とごく親しかった方から伺った話。
園遊会か何か、阿川が遠藤と一緒に出席した時のこと、当時の皇太子殿下(現天皇陛下)に声を掛けられて、遠藤が「はあ、はあ」と適当に答えていると、阿川に、「『はあ』とは何事だ、『はい』と言え」と怒られて、仕方なく「はい、はい」に答えを切り替えた。
その後阿川が酔っ払ってしまって、次に皇太子殿下が回って来た時には、「皇太子さんよう!」と言って肩を叩いたのを見て遠藤が唖然とした、という。
もっとも、遠藤の話の又聞きのうろ覚えだから、脚色や記憶違いがあるだろうとは思う。だからこれを、根拠ある出典として何事かに使用すること勿れ。