鴎外の書簡

森鴎外29歳時の書簡、2月初公開 初期の創作活動知る資料

文豪の森鴎外(1862~1922年)が29歳の時、作家で劇評家の饗庭篁村(あえば・こうそん、1855~1922年)に宛てて書いた全集未収録の書簡1通が4日までに見つかった。東京都の文京区立森鴎外記念館が昨年夏に都内の古書店から購入、2月2日から初公開する。

この頃の鴎外の書簡は全集でも収録数が少ないといい、記念館は「鴎外の初期の創作活動を知ることができる貴重な資料だ」としている。

書簡は1891年2月27日付で、巻紙に毛筆で書かれている。鴎外の留守時に家を訪ねて来た篁村に対し、「今日おん目にかくべかりしにと遺憾」と記し、書き上げたばかりの原稿を見せたかったと残念がっている。

書簡に出てくる原稿は「朗読法につきての争」と題され、鴎外が主宰する文学評論雑誌「しがらみ草紙」18号(同年3月25日発行)に掲載された。篁村らが東京専門学校(現早稲田大)に設けようとしていた「和文朗読法の科」に鴎外が賛同するとの内容だ。

鴎外は88年、4年にわたるドイツ留学から帰国。90年には小説「舞姫」を発表するなど、軍医として勤務する傍ら、文学活動に本腰を入れ始めた時期に当たる。(日本経済新聞)


未知の書簡が発見されて、鴎外の文学の読みが変わると考える立場には立たないけれども、とはいえ興味深い発見である、とは思う。

『青蛙堂鬼談』

特に何かを買うわけではないのに、一と月に文庫本1 冊買えるくらいのポイントが貯まるサイトがあり、しかもそれが期間限定のポイントなので、それでふつうなら買わないような文庫本を捜して買うことがある。
それで、最近買った本。

岡本綺堂『青蛙堂鬼談 岡本綺堂読物集二』(中公文庫)

青蛙堂鬼談


僕の性格からすると、「一」を読まずに「二」を読むのはどうにも気持ちが悪い。仮に読まないにしても「一」を持っていないというのがどうにも落ち着かない。短篇連作で「一」と「二」との間に特段の連関がないとはいえ、である。
それが何故に「二」を買ったのかというと、そのサイトの商品ページで書名にサブタイトルが併記されておらず、「二」だということに気づかなかったからである。実に出来の悪いサイトである(だからそのサイトにはリンクを貼っていない)…が、実質的にはロハで貰ったようなものだから、これ以上文句は言わない。

さて、この本を読んで何が驚いたかと言うに、2012年初版のものであるにもかかわらず、旧かなづかいで書かれていることである。内田百閒ですら新かなづかいに改められて久しく、今や国文科の学生でも旧かなづかいの作品を読みこなすことが覚束ない状況である。「当時の読本の雰囲気を伝えるべく」(編集部)したことだと言うけれども、ずいぶん思い切ったことをしたものだと思う。それが2014年に再版されていることは、もっと驚きだが。

「鬼談」というタイトルから想像が付くように怪談(と断定して良いかどうかは判らないけれども)だけれども、ただ恐怖を煽り立てるような派手なものではなく、 さほど怖いわけではない。が、面白い。文章が実にしっかりとしていて良い。
岡本綺堂の小説は「半七」しか読んだことがなかったのだけれども、それとはひと味違ったじっくりと読ませる話である。

続き…というか、「一」から、改めて読んでみたいと思う。

訃報201605_2

大阪大名誉教授の島津忠夫さん死去

島津忠夫さん(しまづ・ただお=大阪大名誉教授・中世文学)が4月16日、転移性肝腫瘍(しゅよう)で死去、89歳。葬儀は近親者で営んだ。

「島津忠夫著作集」(全15巻)などの業績で08年に現代短歌大賞。連歌の研究でも知られた。冷泉家時雨亭文庫顧問。
(朝日新聞DIGITAL)


僕の学生時代にはすでに高名で、専門分野の関係もあって実際にその姿を目にする機会もなかったので、もっと年輩の方かと思い込んでいた。実際の年齢を知った時にその意外な若さに驚いた覚えがある。

『道草』

漱石の「道草」、自筆原稿発見 26日から初公開

文豪夏目漱石(1867~1916年)の小説「道草」の自筆原稿の一部を、神奈川県内に住む個人が所蔵していることが22日、分かった。原稿は全102章のうち2章の全文18枚で、神奈川近代文学館(横浜市)で26日から開かれる特別展「100年目に出会う 夏目漱石」で初公開される。

同文学館によると、原稿は「十六」と「十七」の2章分で各9枚。昨年11月、所蔵していた個人から連絡があり、筆跡鑑定や、漱石が使っていた他の原稿用紙との照合を行った結果、自筆原稿と確認した。原稿には漱石が推敲(すいこう)した跡があり、創作過程の一端がうかがえる。(日本経済新聞)


正直なところ、自筆原稿というものにあまり重きを置いておらず、さほどの興味はないのだけれども、備忘のために上げておく。

最近の訃報・補遺

最近目にした訃報で、気になっていたものをひとつ漏していたので追加。

作家の高田宏さん死去 「言葉の海へ」で大佛次郎賞

言語学者として国語の統一に尽力した大槻文彦の伝記「言葉の海へ」で、78年に大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を受賞した作家の高田宏(たかだ・ひろし)さんが、11月24日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。83歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻喜江子(きえこ)さん。

エッセー「木に会う」で90年、読売文学賞を受賞。石川県九谷焼美術館の館長や平安女学院大学の学長、将棋ペンクラブの会長なども務めた。(朝日新聞デジタル)


大学1年生の時に、人に勧められて『言葉の海へ』を読んだ。
内容はすっかり忘れてしまったけれども、その本は未だ実家にあるから、今度行った時に、持って来ようか。

「傘も化て目のある月夜哉」

<与謝蕪村>新たに212句 天理大付属図書館入手の句集に

天理大付属天理図書館(奈良県天理市)は14日、入手した句集に、江戸時代を代表する俳人、与謝蕪村(よさ・ぶそん)(1716~83)の作で、知られていなかった212句が収録されていたと発表した。蕪村の句でこれまでに確認されていたのは約2900句で、専門家は「これだけまとまった新出句が判明したのは意義深い」としている。

同図書館によると、「夜半亭(やはんてい)蕪村句集」。蕪村門下の京都・寺村百池(ひゃくち)の家に伝わっていたとされる。1934(昭和9)年に雑誌「俳句研究」でその存在が紹介された後、行方が分からなかったが、同図書館が約4年前に書店から入手した。(毎日新聞)


国文学史を変えるような発見は、昭和14年の「廿巻本類聚歌合」が最後で、それ以上の発見は爾後ありえないだろうと考えているし、今回もその考えに変わりはないのだけれども、200句以上も見つかったのだから、蕪村研究においてはそれなりのインパクトはあるものと思う。

その道に造詣はまったく深くないけれども、タイトルに引用した句は、なかなか飄逸だな、と思う。

阿川弘之

作家の阿川弘之さんが死去 文化勲章受章者

「山本五十六」など文学性に満ちた戦争小説で知られる作家で、文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)さんが3日午後10時33分、老衰のため都内の病院で死去した。94歳だった。偲ぶ会を行うが日取りなどは未定。

 広島市生まれ。1942年に東京帝大(現東大)国文科を繰り上げ卒業後、予備学生として海軍に入隊。士官として通信諜報(ちょうほう)の任務につく。中国・漢口で終戦を迎え、帰国後は志賀直哉に師事して小説を執筆。自らの体験をもとに、海軍予備学生たちの青春を端正な筆致でつづった「春の城」(52年、読売文学賞)で作家としての地位を確立した。(日本経済新聞)


「第三の新人」の一人…と言っても、個人的には遠藤周作は読んだけれども、阿川弘之はほとんど読んだことがない。
けれども、当ブログにご来訪されている諸兄が阿川作品の読者かどうかは判らないけれども、そうでなかったとしても、『きかんしゃやえもん』の作者だと言えば、知らない人はいないだろうと思う。
まったく知らなかったのだが、無類の鉄道マニアだったんだとか。

ところで、昔々、遠藤周作とごく親しかった方から伺った話。
園遊会か何か、阿川が遠藤と一緒に出席した時のこと、当時の皇太子殿下(現天皇陛下)に声を掛けられて、遠藤が「はあ、はあ」と適当に答えていると、阿川に、「『はあ』とは何事だ、『はい』と言え」と怒られて、仕方なく「はい、はい」に答えを切り替えた。
その後阿川が酔っ払ってしまって、次に皇太子殿下が回って来た時には、「皇太子さんよう!」と言って肩を叩いたのを見て遠藤が唖然とした、という。
もっとも、遠藤の話の又聞きのうろ覚えだから、脚色や記憶違いがあるだろうとは思う。だからこれを、根拠ある出典として何事かに使用すること勿れ。

漱石山房

漱石邸?基礎石見つかる 新宿の「記念館」予定地 開館延期し本格調査へ

作家、夏目漱石(1867-1916年)の初の本格的記念館となる「漱石山房」記念館(仮称)の平成29年2月の開館予定が延期されることになった。新宿区の指定史跡「夏目漱石終焉(しゅうえん)の地」内の建設予定地(同区早稲田南町)で、「漱石山房」と呼ばれた漱石邸か、後に遺族が改修した建物のものとみられる基礎石が発見されたためだ。同区は週明けにも本格調査に着手する。

基礎石が見つかったのは、建設予定地の区営早稲田南町第3アパート敷地内の北西部分。記念館の工事に先立ち、同区は区埋蔵文化財取扱要綱の規定に基づいて4月下旬に試掘調査を実施し、基礎石の一部を発見。区営アパート住民の移転が済んだ6月中旬の調査で、地下約30センチのところに、長さ約90センチ、幅約20センチの基礎石5基をみつけた。(産経ニュース)


開館予定だった平成29年は漱石生誕150周年の年だったから、是非ともそこで…という気持もあるだろうけれども、「漱石山房記念館」を建てるために漱石旧居の遺構を軽視するするわけにも行かないから、致し方ないところだろう。
もしかしたら、記念館の目玉展示品のひとつになるかもしれないわけだし…。

ボックス・シートふたたび

先日、志賀直哉の作品に出て来る東海道線のボックス・シートについて書いたが、今度は漱石の『三四郎』。引用は例によって新書版全集による。

車が動き出して二分も立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行つた。此時女の帯の帯の色が始めて三四郎の眼に這入つた。(中略)
女はやがて帰つて来た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞掛である。下を向いて一生懸命に箸を突ツ込んで二口三口頬張つたが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢張正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体を横へ向けて、窓からクビを出して、静に外を眺め出した。(一、P7)


女は「三四郎の横を通」ることができたのだから、三四郎は進行方向に対して水平に坐っていたのである。
帰って来た女の「正面が見えた」というのも、座席が客室の出口方向を向いていることを前提としている。
この後、先日取り上げた、有名な弁当の折を窓から投げる場面がある。そこから考えると、三四郎は逆進行方向を向いて坐っていたことになる。

ほかの箇所にも、ボックス・シートであることの判る箇所がある。

やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そつと自分の席に帰つた。乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない。只筋向ふに坐つた男が、自分の席に帰る三四郎を一寸見た。(一、P12)


「筋向ふに坐」っている人がいるということは、すなわちボックス・シートである。

なお、三四郎の乗ったのも、志賀の作品のそれと同じく東海道線の三等客車である。

大したことはないのだけれども、気になったついでに書き留めておいた。

ボックス・シート

以前、芥川龍之介の「蜜柑」に出て来る横須賀線の客車がロング・シートだったことを書いたことがあるが、これは逆にボックス・シートの事例。
なお、「蜜柑」は横須賀線の二等客車、こちらは東海道線の三等客車である。

志賀直哉の「ある一頁」より。明治44年(1934)に発表された作品。

汽車が新橋を離れると、客車の隅に居た高等学校生徒と、彼と、其他僅の人を除いて大概の客は皆寝支度にかかつた。彼はこれを夜汽車に乗つたと云ふ観念に捕はれてする所作だと解して居た。然し、暫くして、それは新しく乗つて来る客に対する用意であると心づいた。国府津へ来て、起きてゐた彼は果して半席人に譲らねばならなかつた。(新書版『志賀直哉全集/第一巻』P109〜110)


「半席」というだけでも、おおよそ座席の形状は想像できようけれども、この直後の描写から、ただのクロス・シートではなく、ボックス・シートであったことが判る。

車中の人々は段々と眠つて了つた。彼と背中合せにゐた、商用で大阪へ行くと云ふ六十近い油切つた洋服の男と、十四年前に東京へ出て、浅草の常磐の料理人をして居たと云ふ三十四五の男だけが寝ながらカナリ晩くまで大きい声で話して居た。


「背中合せ」になったのは集団離反式のクロス・シートの中央部の座席だった可能性もある、などというのはヘリクツで、常識的に言えばボックス・シートだったと考えるのが妥当だろう。

それにしても、自分の隣に誰かに坐られないために2人掛けの席に横になってしまうのは、現代の感覚ではいかがなものかという気がするけれども、従前にはそれがふつうだったのだろう。「半席」という言い方も、本来は一人で専有すべきもののようなニュアンスがある。
時代によって、物の考え方、感じ方は変わるものである。「蜜柑」の主人公は煙草を吸っているけれども、ロング・シートの客車に灰皿が設置されていたとも思われない。三四郎だって当り前のように窓から弁当の折を投げ捨てているわけだし…。