一口坂ふたたび

以前、「一口坂」のことを取り上げたことがある。
一口坂の交差点に「Hitokuchizaka」とあった、という話なのだが、その後、見つけたものがあったのであげておく。

都営地下鉄市ヶ谷駅A3出口付近の「千代田区エリアマップ」。

A3_千代田区エリアマップ
A3_千代田区エリアマップ

交差点にも坂にもバス停にも、「Hitokuchi Zaka(Hitokuchi-zaka)」と書いてある。

その、一口坂のバス停。

バス停
バス停

当然、「Hitokuchi-Zaka」である。

続いて、同A2出口付近の「千代田区総合防災案内板」。名前こそ違え、「千代田区エリアマップ」と同じようなものである。

A2_千代田区総合防災案内板
A2_千代田区総合防災案内板

こちらはなんと、「Imoaraizaka(Imoarai zaka)」である。

一口坂交差点付近にある「千代田区総合防災案内板」。

一口坂_千代田区総合防災案内板
一口坂_千代田区総合防災案内板

こちらも「Imoaraizaka(Imoarai zaka)」。「Hitokuchizaka」の交差点の目の前にあり、「Hitokuchi-Zaka」のバス停の間近にある案内板なのだが…。

たぶん、「千代田区総合防災案内板」が古く、「千代田区エリアマップ」が新しいものと思われる。「Imoaraizaka」だったのが、段々と読める人がいなくなって、「Hitokuchizaka」に変わった、という経緯なのかもしれない。
ツチイ晩翠がドイ晩翠に改名したようなもの、と、言えなくもない気がする。そのうち、「Imoaraizaka」は姿を消すことになるんだろう。
(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)

神保町

神保町交差点にある喫茶チェーン店の2階から外を見ていてふと気になった。

jinbocho

交差点名の英語表記が「Jinbocho」になっている。「Jimbocho」じゃないのか?
しかも、シールを貼っているところを見ると、元々「Jimbocho」だったものをわざわざ「Jinbocho」に修正した可能性が高いのではないかと思われる。

赤信号のちょうど下あたりに見えている案内板。

jinbocho

こちらも、「Jinbocho」である。ちなみに、この近くに合った神保町交番への案内板も「Jinbocho」だった。

それで、当の神保町駅の表記を見てみる。

jimbocho

こちらは「Jimbocho」である。
つまり、「Jinbocho Sta.」を目指して行くと、「Jimbocho Sta.」に辿り着くわけである。何だか、微妙に判りづらい。

駅の中にあった案内板。

jimbocho

神保町交差点を「Jimbocho Crossing」と表記している。「Jimbocho Crossing」を目指して行くと、「Jinbocho(Crossing)」に……。

駅名表示。

jimbocho

当然、「Jimbocho」である。

何の結論もないけれども、不統一だな、と思った次第。
東京都建設局が(たぶん)「Jinbocho」に統一しようとした理由はわからないけれども、東京都交通局とまったく連携せずにやったんだろうな、とは思う。
(SONY Cyber-shot DSC-RX100M3)

仕事熱心

朝、電車に乗っていたら、近くに立っていた若い女性が何やら一所懸命ノートしている。どうやら仕事のシミュレーションをしているらしい。なかなか熱心だ。
見るとはなしに、ふと眼に入った一節。

TELLフォロー
○○さんの補聴器でお電話になります。××(店名らしい)と申します。


激しく指導してあげたい衝動に駆られたのだけれども、我慢した。

以上。

「行こうじゃないでしょうか」

しばらく前にテレビでニュースを見ていたら、某野党の党大会の映像が流れていた。
そこでは党代表が、実現して行くべき党の政策について、聴衆に呼びかけていた。
その内容はどうでも良いのだけれども、呼びかけの語尾が妙に気になった。
「…して行こうじゃないでしょうか」
この言葉には、聞いた瞬間に大きな違和感があった。

「…じゃ(では)ないか」という言い方はある。その前にある内容を強く勧誘する言い方である。
「…して行こう」ということを強く勧誘しようとするのなら、「行こうじゃないか」と言えばいいわけだけれども、それでは乱暴だと考えて、丁寧な言い方をしようと思ったのかもしれない。
が、「行こうじゃないでしょうか」はメチャクチャである。
「ない」を丁寧に言えば「ありません」である。だから、言うまでもなく、「行こうじゃありませんか」と言えば良かったのである。
「ないでしょう」も丁寧にはちがいないが、これは「ない」に対するものではなくて、「ないだろう」という推量形に対してのもので、これでは「ない」そのものが丁寧になっていない、ばかりではなく、そもそも表している意味が違う。

党内の意見対立で自分の主張を強く打ち出しにくい事情があって、ソフトにソフトに、と過剰に心掛けた結果だったのかもしれないけれども…。

「ひとくちざか」?

九段坂上から市ヶ谷方向に向って靖国通りを歩いていると、途中に「一口坂交差点」がある。そこから「一口坂」という坂が分岐しているからである。
ここ何年か週に1度はその前を通り、それ以前も、さほど頻繁にではないものの、20年以上前から何度となく歩いたことのあるところなのだが、つい最近になって気が付いたことがある。

「 一口坂」の存在そのものに気づいたわけではない。坂自体はむろんのことずっと前から知っていた。
気づいたのは、この交差点名の表示である。
そこには…、

一口坂交差点

ご覧の通り、「Hitokuchizaka」とある。
これで何に気づけるのか、さっぱり判らない方も多いだろうが、僕はずっと、「いもあらいざか」だとばかり思っていたので、これにはちょっと驚いたのである。

坂を少し下ったところに立てられている説明板を見つけて見てみると、それにはこうあった。

一口坂

一口坂

『麹町区史』には、“一口坂の一口は大阪のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車一口坂停留所から北の九段電話局の前を新見附へ下る坂である”とかかれています。


「読むべき…とかかれている」って、読むのか読まないのか、一体、どっちが正しいんだ?
なお、麹町区は現・千代田区の一部。

それで、千代田区観光協会のホームページを見てみたら、自信なさげに「いもあらいざか」が正しいようなことが書いてある。

「靖国通り」から、九段北三丁目と四丁目の間を新見附橋の方へ下る坂です。正しくは「いもあらいざか」というのだといわれています。


だから、やっぱり「いもあらいざか」なんだろう、きっと。

「リベンジ」

「リベンジ」使う人、「雪辱」の3倍 メールなど独特“打ち言葉”浸透

「リベンジ」を使う人の割合は「雪辱」の3倍-。文化庁が21日に発表した平成27年度の「国語に関する世論調査」で、カタカナ言葉の使用頻度の高まりが明らかになった。メールなどで文字を打ち込む際に絵文字を使う割合も6割近くに上り、話し言葉でも書き言葉でもない独特の“打ち言葉”の浸透ぶりが浮かび上がった。

同じような意味の漢字とカタカナ言葉で、どちらを主に使うか尋ねたところ、「リベンジ」は61.4%、「雪辱」は21.4%だった。30代以下では「リベンジ」派が8割を超えた。その他では「アスリート」の使用割合が46.0%に上り、「運動選手」の33.3%を上回った。(産経ニュース)


カタカナことばを使う度合いが増えているのは間違いなく、こういう調査を否定するつもりはないけれども、とはいえその分析を鵜呑みにすべきでないことは言うまでもない。

「リベンジ」と「雪辱」のどちらを使うか、と聞かれた時にどう答えるか。
生まれてこの方「リベンジ」なんて使ったことがない、という方なら躊躇なく「雪辱」と答えるだろうけれども、僕ならちょっと迷ってしまう。
そういえば最近、「雪辱」なんて使った記憶がない、「リベンジ」なら使わないこともない、と思って「リベンジ」と答えるかもしれないけれども、ちょっと待て、とも思うのである。

英語の原義はともかく、現代日本語としての「リベンジ」は、商店街の福引きでハズレを出して、続けてもう1回引く前のようなシーンでも使える程度のごく軽いニュアンスを持ったことばである。同じシチュエーションで「雪辱」を使うことはまずありえない。「雪辱」に近いニュアンスで使われることもあるとしても、そうでないニュアンスを多く持っているのである。
つまり、
 雪辱 = リベンジ
ではなくては、
 雪辱 ⊂ リベンジ
ということである。
「雪辱」も「リベンジ」もどちらも使う、という人にしても、実際問題、「雪辱」を使うシーンは、そうそうあるものではないだろう。だから、どちらを使いますか、と聞かれたら、「リベンジ」と答える人が多くなるのは当り前である。
つまり、「雪辱」と「リベンジ」を「同じような意味」のことばとして二者択一させることに、妥当性があるか、ということである。

「再挑戦」「もういっちょ」「今度は勝つぞ」などと言っていたことばが昨今では「リベンジ」に置き換えられているわけだから、カタカナことばが増加しているのは間違いなく、この調査の結論が間違っているわけではないだろう。
が、こういう調査結果を見た時に、何も考えることなくしたり顔で受け売りしたりすることは、やめた方が良い。

いわゆる「ら抜き」

「見れた」「出れる?」…「ら抜き言葉」初めて逆転 「確信犯」の誤用は7割

21日に発表された文化庁の平成27年度「国語に関する世論調査」では、文法上誤りとされる「ら抜き言葉」も調査対象となり、「見れた」や「出れる?」などの使用割合が初めて本来の表現を上回った。

「ら抜き言葉」の調査は今回が5回目。「見られた」と答えた人は44.6%で「見れた」は48.4%、「(早く)出られる?」は44.3%で「(早く)出れる?」は45.1%と、それぞれ逆転した。

いずれも年代が若くなるほど「ら抜き」を多用する傾向がみられ、40代以下はどの年代も5割を超えた。ほかにも「来れますか」が44.1%で「来られますか」の45.4%に肉薄した。

こうした傾向について、文化庁の担当者は「逆転したのは『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉ばかり。例えば『見られた』だと受け身の表現にも聞こえる。らを抜くと意図が伝わりやすいので多くなっているのかもしれない」としている。(産経ニュース)


やはり定番のいわゆる「ら抜き」(厳密には「a-r抜き」。以外単に「ら抜き」と言う)の問題が興味深い。
とりわけ、文化庁の担当者が調査の内容を理解して発言しているかどうかに興味が沸く。

文化庁の「平成27年度「国語に関する世論調査」の結果について」によれば、調査に使われたのは、こんなものである。

(1)
(ア)こんなにたくさんは食べられない 60.8%
(イ)こんなにたくさんは食べれない 32.0%
(2)
(ア)朝5時に来られますか 45.4%
(イ)朝5時に来れますか 44.1%
(3)
(ア)彼が来るなんて考えられない 88.6%
(イ)彼が来るなんて考えれない 7.8%
(4)
(ア)今年は初日の出が見られた 44.6%
(イ)今年は初日の出が見れた 48.4%
(5)
(ア)早く出られる? 44.3%
(イ)早く出れる? 45.1%

(4)(5)が逆転している例で、(1)(2)(3)がそうではない例である。
文化庁の担当者が「逆転したのは『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉ばかり」と言っている意味が判らない。
むろん、「『見られた』だと受け身の表現にも聞こえる。らを抜くと意図が伝わりやすい」ということ自体は容易に理解できるのだけれども、実はこれは何も言っていないのと同じである。逆転していないものが「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高」くなく、「らを抜くと意味が伝わりやす」くないことが説明されていない。

逆転していない(1)の「食べられる」「食べれる」についても、前者が可能・尊敬のいずれにも取れるのに対して、「食べれる」なら可能にしか取れない
例文の「こんなにたくさんは食べられない」は可能としか考えられないけれども、「少しですけど食べられますか」なら尊敬の可能性が高そうである。「たくさん食べられますか」だったらどちらとは断定できない。「食べれる」にすれば、可能に限定されるから、「意味が正確に伝わる可能性が高」くなるはずである。
これは(2)でも(3)でも同じである。そもそも「ら抜き」というのは、それによって可能動詞を作っているのだから、「意味が正確に伝わる可能性が高」くなるのは当り前のことである。
(2)はかなり拮抗しているけれども、(1)(3)にはかなりの開きがあって、「ら抜き」を使っているのはまだ少数派のようである。
「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉」であるのに「ら抜き」が一般化していないことばがあるにもかかわらず、それを考慮しないで、「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉」だから「ら抜き」が使われているのだ、というのは、いわば、りんご畑で「赤くなっている実はりんごばかり。りんごは赤くなりやすいのかもしれない」と言っているに等しい。

「おけ」

僕はテレビを見ていてその場で何かコメントするようなことは滅多にしないのだけれどもこれはつい反応してしまった。

「OK」を「おけ」 10代の半数が表現

メールやSNSなどで「OK」という単語をひらがなで「おけ」などと表現することがある10代の若者が半数に上ることが文化庁の調査で分かりました。こうした表現は、いずれも入力ミスがきっかけで使われるようになったとみられ、専門家は「若者の間で入力ミスであろうと、とにかく早く返信したほうが仲間に信頼されるといった思いが強い。若者が常にせかされた社会で生きていることの表れだ」と分析しています。(NHK NEWS WEB)


いや、それは違うだろうと思う。

まずは揚げ足取りで言うと、「up」を「うp」とするようなのは変換ミス由来だろうけれども、「ok」を変換ミスしたら「おk」にはなっても「おけ」にはならない。
それはそれとして、速く打つために「ok」ではなく「おけ」を選択している、それは現代の若者が常に社会から急かされているからだ、という、何でも現代社会の所為にするステレオチイプな論調には、違和感を覚える。

少なくとも十数年前には、ごく一部でしかなかったかもしれないけれども、承知を意味する「おけおけ」ということばが、口頭語として既に使われていた。
ただし、それが書記言語に取り入れられるには至っていなかった。当時の書記言語の主流は書簡であり、過度な口頭語の流入は、忌避されていたからである。
現代の書記言語は、メール然りライン然りtwitter然りSNS然り、口頭語との垣根は限りなく低くなっている。それで、口頭語「おけ」とか「おけおけ」が、書記言語に流入したに過ぎないように見える。

落語「大工調べ」の中で、与太郎から「あたぼう」とは何かと聞かれた棟梁が、「当たり前だ篦棒めを詰めたんだ、そんな長いことばを全部言ってたら温気(うんき)の時分には腐っちまう、日の短い時分には日が暮れちまう」と言う場面がある。
これを聞いて、「江戸っ子は社会から急かされていたのだ」などと言っても誰からも相手にされないだろうけれども、「現代の若者は…」と言われると、ついそうなのかと思ってしまう。

「ok」を「おけ」と表記する、「up」を「うp」と表記する現象の理由はいくつも考えられるはずなのに、まず何となくそんな気になりやすい現代社会の病理に短絡して決着しようとするのは、安直に思える。

「断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?」の補足

断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?」の補足。
先のエントリが「断片語」というには長かったことの言い訳でもある。

ある人が、

「私は窓ガラスを割りました」

と言ったとする。この文の中の重要な事項は、述語たる「割りました」だと言えるだろうか。

実際の言語の運用の上で、上記の会話文だけが独立して存在するということは殆んどない。
大抵の場合、次のような質問の答えだと考えて良いだろう。

Q1:「あなたは何をしたんですか?」
Q2:「あなたは何を割ったんですか?」
Q3:「あなたは窓ガラスをどうしたんですか?」

Q3に対する「私は窓ガラスを割りました」という答えの中で、「割りました」が重要なのは間違いない。
が、Q2に対する答えなら、「窓ガラスを」が重要である。Q1の場合は難しいところだが、「割りました」が重要なのには違いないとしても、「窓ガラスを」も同程度に重要だといえるだろう。
つまり、答えがまったく同じ文だとしても、どの要素が重要なのかは一概には言えないのである。
なお、「誰が窓ガラスを割ったんですか?」に対する「私が窓ガラスを割りました」なら、当然、「私が」が重要である。
つまり、日本語は述語が最後に来る、というのは事実だとしても、だから日本語は重要なことは最後まで判らない、というのは違うのである。
文の途中まででも、後に来るべき述語は多くの場合予測できる、という研究があり、それはそれで意味なしとはしないけれども、そもそものところとしては、文の中で述語が最も重要だ、という固定観念が、間違っていると思うのである。
そしてその固定観念は、一文の中での諸要素間の関係だけを考えるところから来ているのであって、もっと広く文脈・場面の中で捉えないといけない…という大きな話の、ごく一部の断片である。

断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?

たとえば、こんな文がある。

  私は 東京に 行く。

英語なら

  I go to Tokyo.

となる。

日本語では、述語は最後に来る。だから、「行く」か「行かない」かは、文の最後になるまで判らない。
それに対して、英語の場合、「go」なのか「don't go」なのか、という重要な情報は、予め提示される。だから、文を最後まで読まなくても、行くかどうかが判る。
それで、日本語は最後まで読まない(聞かない)と判らない言語だ…ということが、良く言われる。

この考え方の、どこに間違いがあるか。

◆重要な情報
「東京に」に比べて「行く」がより重要な情報であるかどうかをどのように評価するのか。

  I go to Tokyo.

では、目的とする場所がどこなのかは最後まで読まなければ判らない。

  私は 東京に 行く。

なら、最後まで読まなくても「東京」だということが判る。
東京の話題なのか京都の話題なのかは重要な情報で、日本語ではそれを予め提示するけれども、英語は最後に持って来る。つまり、英語は最後まで読まないと判らない言語だ、とも言える。
先ほどと同じ理屈で、まったく逆の結論が出るのである。

それでも述語の方がより重要な情報だ、と固執する向きもあるかもしれないけれども、それにはさしたる根拠が見出せない。
二重橋駅の改札を出たところで、「すみません、皇居には…」と言われたとして、「述語まで喋ってください」と言うことは、まずないと思われる。
逆に、 「どうやって行きますか?」とだけ言われても、二重橋駅の改札で道を訊ねた人の行き先を一箇所に限定することは不可能だから、何を答えたら良いのかは判らない。この質問には、「どこにですか?」と返さざるをえない。
つまり、文の中でどの要素が重要なのかは、相対的なもので、一概に述語が重要だとは決められないのである。

◆最後まで判らない
判らないのは、どうする(行く、行かない)の情報だけで、「私が」や「東京に」という情報は、与えられた時点で理解できるはずである。
「行く」と言った時点で初めて「私」が誰なのかが判る、とか、「行かない」と言った時点で初めて「東京」とは何なのかが判る、ということは、それがことばである以上、ありえない。

日本語に、最後に述語が来るという特徴があるとしても、だから最後まで読まないと判らない、とは言えない。判らないのは、まだ表現されていない部分だけで、表現されたところまでは、判るはずである。
実際の言語生活では「言い差し」ということがしばしば起るけれども、日本語を言い差すと、たいていの場合、文末に来るべき述語が表現されないことになる。が、それによってコミュニケーションに著しい支障が起るということはない。

◆文脈もしくは場面
ある文が、単独で表現されることは殆んどない。多くの場合、前から続いている文脈の中で、表現される。
だから、仮に「私は東京に」だけだとしても、それが週末の行き先を皆で話し合っている文脈の中で発せられたのなら、それだけで十分に要を為すのである。逆に、述語を付けて「私は行きます」と言ったところで、目的が示されなければ要を為さない。

要するに、日本語が最後まで読まないと判らない言語だ、というのは客観性を持っていない迷信だということである。まだ表現されていないことが判らないのは、こと日本語に限ったことではない。

むろん、日本語は最後まで読まなくても判る、ということではかならずしもない。どんな言語であれ、読んだところまでは判るし、読んでいないところは判る場合もあるし判らない場合もある。それだけのことである。