「行こうじゃないでしょうか」

しばらく前にテレビでニュースを見ていたら、某野党の党大会の映像が流れていた。
そこでは党代表が、実現して行くべき党の政策について、聴衆に呼びかけていた。
その内容はどうでも良いのだけれども、呼びかけの語尾が妙に気になった。
「…して行こうじゃないでしょうか」
この言葉には、聞いた瞬間に大きな違和感があった。

「…じゃ(では)ないか」という言い方はある。その前にある内容を強く勧誘する言い方である。
「…して行こう」ということを強く勧誘しようとするのなら、「行こうじゃないか」と言えばいいわけだけれども、それでは乱暴だと考えて、丁寧な言い方をしようと思ったのかもしれない。
が、「行こうじゃないでしょうか」はメチャクチャである。
「ない」を丁寧に言えば「ありません」である。だから、言うまでもなく、「行こうじゃありませんか」と言えば良かったのである。
「ないでしょう」も丁寧にはちがいないが、これは「ない」に対するものではなくて、「ないだろう」という推量形に対してのもので、これでは「ない」そのものが丁寧になっていない、ばかりではなく、そもそも表している意味が違う。

党内の意見対立で自分の主張を強く打ち出しにくい事情があって、ソフトにソフトに、と過剰に心掛けた結果だったのかもしれないけれども…。

「リベンジ」

「リベンジ」使う人、「雪辱」の3倍 メールなど独特“打ち言葉”浸透

「リベンジ」を使う人の割合は「雪辱」の3倍-。文化庁が21日に発表した平成27年度の「国語に関する世論調査」で、カタカナ言葉の使用頻度の高まりが明らかになった。メールなどで文字を打ち込む際に絵文字を使う割合も6割近くに上り、話し言葉でも書き言葉でもない独特の“打ち言葉”の浸透ぶりが浮かび上がった。

同じような意味の漢字とカタカナ言葉で、どちらを主に使うか尋ねたところ、「リベンジ」は61.4%、「雪辱」は21.4%だった。30代以下では「リベンジ」派が8割を超えた。その他では「アスリート」の使用割合が46.0%に上り、「運動選手」の33.3%を上回った。(産経ニュース)


カタカナことばを使う度合いが増えているのは間違いなく、こういう調査を否定するつもりはないけれども、とはいえその分析を鵜呑みにすべきでないことは言うまでもない。

「リベンジ」と「雪辱」のどちらを使うか、と聞かれた時にどう答えるか。
生まれてこの方「リベンジ」なんて使ったことがない、という方なら躊躇なく「雪辱」と答えるだろうけれども、僕ならちょっと迷ってしまう。
そういえば最近、「雪辱」なんて使った記憶がない、「リベンジ」なら使わないこともない、と思って「リベンジ」と答えるかもしれないけれども、ちょっと待て、とも思うのである。

英語の原義はともかく、現代日本語としての「リベンジ」は、商店街の福引きでハズレを出して、続けてもう1回引く前のようなシーンでも使える程度のごく軽いニュアンスを持ったことばである。同じシチュエーションで「雪辱」を使うことはまずありえない。「雪辱」に近いニュアンスで使われることもあるとしても、そうでないニュアンスを多く持っているのである。
つまり、
 雪辱 = リベンジ
ではなくては、
 雪辱 ⊂ リベンジ
ということである。
「雪辱」も「リベンジ」もどちらも使う、という人にしても、実際問題、「雪辱」を使うシーンは、そうそうあるものではないだろう。だから、どちらを使いますか、と聞かれたら、「リベンジ」と答える人が多くなるのは当り前である。
つまり、「雪辱」と「リベンジ」を「同じような意味」のことばとして二者択一させることに、妥当性があるか、ということである。

「再挑戦」「もういっちょ」「今度は勝つぞ」などと言っていたことばが昨今では「リベンジ」に置き換えられているわけだから、カタカナことばが増加しているのは間違いなく、この調査の結論が間違っているわけではないだろう。
が、こういう調査結果を見た時に、何も考えることなくしたり顔で受け売りしたりすることは、やめた方が良い。

いわゆる「ら抜き」

「見れた」「出れる?」…「ら抜き言葉」初めて逆転 「確信犯」の誤用は7割

21日に発表された文化庁の平成27年度「国語に関する世論調査」では、文法上誤りとされる「ら抜き言葉」も調査対象となり、「見れた」や「出れる?」などの使用割合が初めて本来の表現を上回った。

「ら抜き言葉」の調査は今回が5回目。「見られた」と答えた人は44.6%で「見れた」は48.4%、「(早く)出られる?」は44.3%で「(早く)出れる?」は45.1%と、それぞれ逆転した。

いずれも年代が若くなるほど「ら抜き」を多用する傾向がみられ、40代以下はどの年代も5割を超えた。ほかにも「来れますか」が44.1%で「来られますか」の45.4%に肉薄した。

こうした傾向について、文化庁の担当者は「逆転したのは『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉ばかり。例えば『見られた』だと受け身の表現にも聞こえる。らを抜くと意図が伝わりやすいので多くなっているのかもしれない」としている。(産経ニュース)


やはり定番のいわゆる「ら抜き」(厳密には「a-r抜き」。以外単に「ら抜き」と言う)の問題が興味深い。
とりわけ、文化庁の担当者が調査の内容を理解して発言しているかどうかに興味が沸く。

文化庁の「平成27年度「国語に関する世論調査」の結果について」によれば、調査に使われたのは、こんなものである。

(1)
(ア)こんなにたくさんは食べられない 60.8%
(イ)こんなにたくさんは食べれない 32.0%
(2)
(ア)朝5時に来られますか 45.4%
(イ)朝5時に来れますか 44.1%
(3)
(ア)彼が来るなんて考えられない 88.6%
(イ)彼が来るなんて考えれない 7.8%
(4)
(ア)今年は初日の出が見られた 44.6%
(イ)今年は初日の出が見れた 48.4%
(5)
(ア)早く出られる? 44.3%
(イ)早く出れる? 45.1%

(4)(5)が逆転している例で、(1)(2)(3)がそうではない例である。
文化庁の担当者が「逆転したのは『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉ばかり」と言っている意味が判らない。
むろん、「『見られた』だと受け身の表現にも聞こえる。らを抜くと意図が伝わりやすい」ということ自体は容易に理解できるのだけれども、実はこれは何も言っていないのと同じである。逆転していないものが「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高」くなく、「らを抜くと意味が伝わりやす」くないことが説明されていない。

逆転していない(1)の「食べられる」「食べれる」についても、前者が可能・尊敬のいずれにも取れるのに対して、「食べれる」なら可能にしか取れない
例文の「こんなにたくさんは食べられない」は可能としか考えられないけれども、「少しですけど食べられますか」なら尊敬の可能性が高そうである。「たくさん食べられますか」だったらどちらとは断定できない。「食べれる」にすれば、可能に限定されるから、「意味が正確に伝わる可能性が高」くなるはずである。
これは(2)でも(3)でも同じである。そもそも「ら抜き」というのは、それによって可能動詞を作っているのだから、「意味が正確に伝わる可能性が高」くなるのは当り前のことである。
(2)はかなり拮抗しているけれども、(1)(3)にはかなりの開きがあって、「ら抜き」を使っているのはまだ少数派のようである。
「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉」であるのに「ら抜き」が一般化していないことばがあるにもかかわらず、それを考慮しないで、「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉」だから「ら抜き」が使われているのだ、というのは、いわば、りんご畑で「赤くなっている実はりんごばかり。りんごは赤くなりやすいのかもしれない」と言っているに等しい。

「おけ」

僕はテレビを見ていてその場で何かコメントするようなことは滅多にしないのだけれどもこれはつい反応してしまった。

「OK」を「おけ」 10代の半数が表現

メールやSNSなどで「OK」という単語をひらがなで「おけ」などと表現することがある10代の若者が半数に上ることが文化庁の調査で分かりました。こうした表現は、いずれも入力ミスがきっかけで使われるようになったとみられ、専門家は「若者の間で入力ミスであろうと、とにかく早く返信したほうが仲間に信頼されるといった思いが強い。若者が常にせかされた社会で生きていることの表れだ」と分析しています。(NHK NEWS WEB)


いや、それは違うだろうと思う。

まずは揚げ足取りで言うと、「up」を「うp」とするようなのは変換ミス由来だろうけれども、「ok」を変換ミスしたら「おk」にはなっても「おけ」にはならない。
それはそれとして、速く打つために「ok」ではなく「おけ」を選択している、それは現代の若者が常に社会から急かされているからだ、という、何でも現代社会の所為にするステレオチイプな論調には、違和感を覚える。

少なくとも十数年前には、ごく一部でしかなかったかもしれないけれども、承知を意味する「おけおけ」ということばが、口頭語として既に使われていた。
ただし、それが書記言語に取り入れられるには至っていなかった。当時の書記言語の主流は書簡であり、過度な口頭語の流入は、忌避されていたからである。
現代の書記言語は、メール然りライン然りtwitter然りSNS然り、口頭語との垣根は限りなく低くなっている。それで、口頭語「おけ」とか「おけおけ」が、書記言語に流入したに過ぎないように見える。

落語「大工調べ」の中で、与太郎から「あたぼう」とは何かと聞かれた棟梁が、「当たり前だ篦棒めを詰めたんだ、そんな長いことばを全部言ってたら温気(うんき)の時分には腐っちまう、日の短い時分には日が暮れちまう」と言う場面がある。
これを聞いて、「江戸っ子は社会から急かされていたのだ」などと言っても誰からも相手にされないだろうけれども、「現代の若者は…」と言われると、ついそうなのかと思ってしまう。

「ok」を「おけ」と表記する、「up」を「うp」と表記する現象の理由はいくつも考えられるはずなのに、まず何となくそんな気になりやすい現代社会の病理に短絡して決着しようとするのは、安直に思える。

「断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?」の補足

断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?」の補足。
先のエントリが「断片語」というには長かったことの言い訳でもある。

ある人が、

「私は窓ガラスを割りました」

と言ったとする。この文の中の重要な事項は、述語たる「割りました」だと言えるだろうか。

実際の言語の運用の上で、上記の会話文だけが独立して存在するということは殆んどない。
大抵の場合、次のような質問の答えだと考えて良いだろう。

Q1:「あなたは何をしたんですか?」
Q2:「あなたは何を割ったんですか?」
Q3:「あなたは窓ガラスをどうしたんですか?」

Q3に対する「私は窓ガラスを割りました」という答えの中で、「割りました」が重要なのは間違いない。
が、Q2に対する答えなら、「窓ガラスを」が重要である。Q1の場合は難しいところだが、「割りました」が重要なのには違いないとしても、「窓ガラスを」も同程度に重要だといえるだろう。
つまり、答えがまったく同じ文だとしても、どの要素が重要なのかは一概には言えないのである。
なお、「誰が窓ガラスを割ったんですか?」に対する「私が窓ガラスを割りました」なら、当然、「私が」が重要である。
つまり、日本語は述語が最後に来る、というのは事実だとしても、だから日本語は重要なことは最後まで判らない、というのは違うのである。
文の途中まででも、後に来るべき述語は多くの場合予測できる、という研究があり、それはそれで意味なしとはしないけれども、そもそものところとしては、文の中で述語が最も重要だ、という固定観念が、間違っていると思うのである。
そしてその固定観念は、一文の中での諸要素間の関係だけを考えるところから来ているのであって、もっと広く文脈・場面の中で捉えないといけない…という大きな話の、ごく一部の断片である。

断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?

たとえば、こんな文がある。

  私は 東京に 行く。

英語なら

  I go to Tokyo.

となる。

日本語では、述語は最後に来る。だから、「行く」か「行かない」かは、文の最後になるまで判らない。
それに対して、英語の場合、「go」なのか「don't go」なのか、という重要な情報は、予め提示される。だから、文を最後まで読まなくても、行くかどうかが判る。
それで、日本語は最後まで読まない(聞かない)と判らない言語だ…ということが、良く言われる。

この考え方の、どこに間違いがあるか。

◆重要な情報
「東京に」に比べて「行く」がより重要な情報であるかどうかをどのように評価するのか。

  I go to Tokyo.

では、目的とする場所がどこなのかは最後まで読まなければ判らない。

  私は 東京に 行く。

なら、最後まで読まなくても「東京」だということが判る。
東京の話題なのか京都の話題なのかは重要な情報で、日本語ではそれを予め提示するけれども、英語は最後に持って来る。つまり、英語は最後まで読まないと判らない言語だ、とも言える。
先ほどと同じ理屈で、まったく逆の結論が出るのである。

それでも述語の方がより重要な情報だ、と固執する向きもあるかもしれないけれども、それにはさしたる根拠が見出せない。
二重橋駅の改札を出たところで、「すみません、皇居には…」と言われたとして、「述語まで喋ってください」と言うことは、まずないと思われる。
逆に、 「どうやって行きますか?」とだけ言われても、二重橋駅の改札で道を訊ねた人の行き先を一箇所に限定することは不可能だから、何を答えたら良いのかは判らない。この質問には、「どこにですか?」と返さざるをえない。
つまり、文の中でどの要素が重要なのかは、相対的なもので、一概に述語が重要だとは決められないのである。

◆最後まで判らない
判らないのは、どうする(行く、行かない)の情報だけで、「私が」や「東京に」という情報は、与えられた時点で理解できるはずである。
「行く」と言った時点で初めて「私」が誰なのかが判る、とか、「行かない」と言った時点で初めて「東京」とは何なのかが判る、ということは、それがことばである以上、ありえない。

日本語に、最後に述語が来るという特徴があるとしても、だから最後まで読まないと判らない、とは言えない。判らないのは、まだ表現されていない部分だけで、表現されたところまでは、判るはずである。
実際の言語生活では「言い差し」ということがしばしば起るけれども、日本語を言い差すと、たいていの場合、文末に来るべき述語が表現されないことになる。が、それによってコミュニケーションに著しい支障が起るということはない。

◆文脈もしくは場面
ある文が、単独で表現されることは殆んどない。多くの場合、前から続いている文脈の中で、表現される。
だから、仮に「私は東京に」だけだとしても、それが週末の行き先を皆で話し合っている文脈の中で発せられたのなら、それだけで十分に要を為すのである。逆に、述語を付けて「私は行きます」と言ったところで、目的が示されなければ要を為さない。

要するに、日本語が最後まで読まないと判らない言語だ、というのは客観性を持っていない迷信だということである。まだ表現されていないことが判らないのは、こと日本語に限ったことではない。

むろん、日本語は最後まで読まなくても判る、ということではかならずしもない。どんな言語であれ、読んだところまでは判るし、読んでいないところは判る場合もあるし判らない場合もある。それだけのことである。

「重うございます」

以前にも書いたことがあるけれども、「とんでもない」の丁寧な言い方について、「とんでもございません」は誤りで、「とんでもないことでございます」が正しいと、良く耳にする。けれども、本来、形容詞の丁寧な言い方を作る場合には、連用形のウ音便に「ございます」を付けたはずである。だから、「とんでものうございます」と言うのが、より古い形だろうと思う。
とはいえ、そんな言い方は、畏まり過ぎていて、庶民の口からは、なかなか出てくるものではない。無理してそんな言い方をしたとしても、嫌味だと思われるのでなければ、ギャグか何かと誤解されるのがオチである。
ごく自然にそういう言い方をするのは、ふつうの人には、なかなか難しい。

メダル「重うございますね」 春の園遊会

天皇、皇后両陛下ご主催の「春の園遊会」が17日、東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれ、ソチ五輪のメダリストをはじめ各界の功労者ら計約2千人が出席した。

スキージャンプ個人銀の葛西紀明選手(41)は団体での銅とメダル2つを首に下げ出席。両陛下は手に取られ、皇后さまは「大きく飛ばれたのね。重うございますね」と話された。大震災で被害を受けた宮城県南三陸町の佐藤仁(じん)町長(62)らも招かれた。(産経新聞)

還暦

何故唐突にこんな当り前のことを書くのか訝しく思う方がいるかもしれないが、それでもひとまず書いておく。

かんれき【還暦】 数え年六一歳の異称。陰暦で、六〇年で再び生まれたときの干支(えと)に還(かえ)るところからいう。華甲。本卦(ほんけ)還り。(『日本国語大辞典』)


以前にも書いたことのくり返しになるけれども、暦が元に還るから「還暦」なのである。
だから何だ、ということは、そのうち判る…かもしれない。

「とどのつまり」

小学校で毎月配られる新聞のようなものに、「すみだ水族館だより」というコーナーがあって、今月はボラが取り上げられていた。
ボラはいわゆる出世魚で、50センチを超えたものを「トド」と呼ぶのだそうである。知っている人には常識以外の何物でもないのだろうが、「とどのつまり」ということばはこれから来ているのだという。
『新明解国語辞典』によれば、

〔魚のボラは成長の途中、いろいろ名を変え最後にはトドと言われるので〕途中にいろいろな経過はあったが、最期に(は)。〔多く、不結果や平凡な結果、もしくは否定的表現を伴う〕「―は免職になった」


ということである。
「いなせ」というのもボラに関係あるらしいが、こちらは『新明解国語辞典』の「いなせ」の項には記載されていなかった。

ら抜問答

先頃、ある所で所謂「ら抜き」について訊ねられた、その折の問答。

 「ら抜き」を否とする意見多し。然れども、「ら抜き」の歴史は古し。これを昨今の言葉の乱れと言うは、如何。

 確かに「ら抜き」は古きよりあなり。されば、何を「ら抜き」とするかは易しからず。
例えば、「切れる」は元々「切られる(切らるる)」なり。これは「ら」が抜けたるなり。されど「切れる」を「ら抜き」なりとして非難する者多からず。

 古きより「ら抜き」を常とする地方あり、それが全国に拡まれりとする説あり。されば、「ら抜き」は言葉の乱れたるにはあらず。

 方言にあらば誤りならずと言うは否なり。「ら抜き」を常とする地域あり。それ誤りならずと雖も、共時的にその言葉を用いる地域あると、通時的にある地域の言葉にあることとは同じからず。縦軸と横軸を混同すること勿れ。
東京語あるいは共通語の表現を考えるに当りては、方言にありとて正しきことにはならざるなり。東京語として誤れる言い方が方言より流入したるなり。
そもそも、「ら抜き」を考えるに、「ら抜き」のみを取り上げること勿れ。「行かれる」を「行ける」とするは、「ら」が抜けておらざれども「ら抜き」と同じ理屈なり。「見れる」を見て「行ける」を見ざるは木を見て森を見ざるに似たり。

かく云うほどに、「ちわー。どーもお久しぶりでーす」とて入り来りし者あり。かくてそのままに止みぬ。