学参の記述

学習参考書たるもの、点数を取るための要領、割り切りは必要で、あまり物事の本質に踏み込むようなことを書いたら、売れないのに決まっている。
…にしても、最近目にしたある本の記述はあまりにもひどかった。
最近目にしたと言っても、出版されたのは1996年で、何でもこれまでに160万部も売れているものらしい。敢えて書名は書かないけれども、マドンナだか赤シャツだか、ずいぶん人気のある人の物したものである。

たとえばこんなことが書いてある。
「あまた」は「たくさん」と訳すけれども、それは「数が「余った」というのが語源」だからなのだと言う。
国語史の常識云々などという野暮なことを持ち出さないまでも、日本語話者なら違和感を覚えるような珍説…とはいえこれがロングセラーになっているのだから、違和感を感じない人も多いのだろうが…。
「あまた」の初出例を調べるほどの気力はないけれども、竹取物語の用例が容易に思い浮かぶから、その「語源」になった「余った」という語はそれ以前、もしかしたら奈良時代から存在していたのかもしれない。残念ながら万葉集にその語は見出せないようだが。

そのほかにも「やむごとなし」は「止む事無し」がなまってできたもので、やめるわけにはいかない重要ポストというのが語源だ、とか、「おこたる」は病原菌が怠けるという発想から生まれた意味だとか、どうにも腑に落ちない記述が目白押しである。
「ありく」に付けられている「主語が歩かないものの場合は「うろつく」と意訳します。「船のありく=船がうろつく」などです。」という説明も、正常な国語感覚を持っていたら到底出て来るはずがない。

全国の国語の先生よ、教師としての良心と矜持があるのであれば、こんなものを高校生に勧めることはやめたが良い。
[ 2015/04/21 00:12 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「覚え違いタイトル集」

ひょんなことから福井県立図書館のホームページの「覚え違いタイトル集」というのを見つけた。
読みたいと思った本の書名や著者名を、覚え違い、うろ覚えで図書館にやって来て、司書の力を借りて正解に辿り着いた実例集のようなものなのだが、こうやって纏められているのを見るのは非常に面白い。

 誤)妊婦にあらず
 正)奸婦にあらず(諸田玲子)

こういう勘違いはありがちだが、一体どんな内容の小説を想像して借りようとしていたのだろうか?

 誤)ハーメルンの音楽隊
 正)ハーメルンの笛ふき男/ブレーメンのおんがくたい

たしかに、こういう間違いも、良くある。

 誤)背中をけとばしたい
 正)蹴りたい背中(綿矢りさ)

判らなくはないが、この書名はふつう、間違えないだろう。

 誤)トコトコ公太郎
 正)とっとこハム太郎

これは純粋におかしい。孫のリクエストで図書館に借りに行って、メモを見ながら問い合わせた、というところだろうか。当然、メモは縦書き。

 誤)菊地カラー
 正)聞く力(阿川佐和子)

蔵書検索で出て来ないから質問したら、実は変換ミスだった、ということだろう。

 誤)まんじょうき
 正)方丈記

国文専門としては、これはいかがなものかと思うが、一方で、そんなものかとも思う。

以下のものは、良くこれで正解を導き出せると驚き入る。この情報では、絶対に利用者の力では探し出すことができそうもない。それだけ、図書館にはポテンシャルがあるということだろう。

 誤)ウサギのできそこないが2匹でてくる絵本
 正)ぐりとぐら/リサとガスパールのクリスマス

 誤)職業別のタウンページみたいな本。職業がいろいろ紹介されている。
   作者はヨウロウタケシ?カドカワハルキ?とにかく有名な人  
 正)13歳のハローワーク(村上龍)

 誤)「主婦の友」とかでよく見るんだけど、名前が読めない人の本。
 正)奥薗壽子(おくぞの としこ)
[ 2014/04/05 13:29 ] 本と言葉 閑話 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

4月30日は図書館記念日

今日4月30日は図書館記念日なんだそうである。

昭和25年4月30日、画期的な文化立法である図書館法が制定され、それを契機として日本の図書館活動は新しく生まれ変わりました。サービスとしての公共図書館の機能が明らかにされ、無料原則がうちたてられ、わが国は、真の意味での近代的な公共図書館の時代をむかえたのです。日本図書館協会は、今日の図書館発展の基盤となった図書館法施行の日を記念して、4月30日を「図書館記念日」とすることにいたしました。
戦前の記念日(4月2日―帝国図書館長が天皇に図書館についての御進講をした日)との決別も意図しています。


ただそれだけ。
[ 2013/04/30 23:59 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

ノーベル文学賞

少々前のことになるが、こんなニュースがあった。

村上春樹氏、ノーベル文学賞予想トップ 英賭け屋
【ロンドン=共同】世界最大規模のブックメーカー(賭け屋)、英ラドブロークスは10日までに、10月中旬に発表されるノーベル文学賞受賞者を予想するオッズ(賭け率)を発表し、日本の作家村上春樹氏に8倍(10日現在)とトップの評価を付けた。(日本経済新聞。9/11)


村上春樹とノーベル賞の話は今に始まったことではないし、村上春樹にさほど興味があるわけではないのだが、取れば取ったで悪い話ではない。
が、僕が気になったのは、同記事中の次の話題。

2位は、歌詞の文学性が評価される米国のフォーク歌手ボブ・ディラン氏で11倍、3位は現代中国を代表する作家莫言氏と、オランダの作家セース・ノーテボーム氏で13倍だった。


村上春樹は「別のブックメーカー「ユニベット」でも2位に予想されてい」て、こちらは「1位は莫言氏」だそうなのだけれども、ディランについては言及がない。それを考えれば、ディランはさして有力候補ではないのかもしれないが、これまた取れば取ったで悪い話ではない。
…まぁ、どうでも良いんだが…。
[ 2012/09/15 00:42 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

ブックカバー

紀伊国屋書店で、150Kinokuniya Pointと交換できる、非売品の《特製ブックカバー》。

紀伊国屋ブックカバー

150円で買える、と言われても、書店のロゴ入りのブックカバーなど買うものではないが、ポイントとの交換でしか手に入らないということになると、つい欲しくもなる。
それに、失効間際のポイントもあったので、交換してみた。まんまと術中に嵌ったわけだが、日常使うものだから、別段悔しくもない。

ところが、ついでに買ったハルキ文庫は、サイズがギリギリ過ぎて入らなかった。とはいえ、それはハルキ文庫が責を負うべきもので、ブックカバーに不備があるのではない。
もっとも、手持ちのブックカバーなら、問題なく入るんだが…。
[ 2011/11/03 23:23 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

説明不足の文を添削する(?)

また、「坊っちゃん」ではない「何か」について。

もうどうでも良くなっていると言いつつ、なお続けているのには理由がある。
ひとつには、前にも書いたように、折角買って、そのままにするのは勿体ないという貧乏性による。
だが、もうひとつ、もう少し積極的(?)な意味もある。

この「何か」について、ネットで検索すると、意外にも、評判が良い。「漱石の文章の雰囲気を壊さずに子供にも読み易くリライトされている素晴らしい本」というような感じである。
「実業家」を「ビジネスマン」に書き換えてあっても、そこに漱石の文章らしさを感じられる人とはそもそも感覚を共有できないのだが、様々な個人的意見を自由に表明できるのが、ネットの魅力のひとつだから、そういう意見をネット上に公開すること自体には、別に文句はない。
だが、だからこそ、なのだが、否定的な意見も書いておくべきだ、と思って書いているのである。

さて、漱石の文章の雰囲気を保つということは、漱石の文章そのものではないとしても、いかにも漱石が書きそうな文章でなければならない。そして、漱石が明治の文人である以上、それは、最低限、明治の時点において、ありうべき文章であることが、必須だろう。でなければ、漱石の文章の雰囲気を保つことができるはずがない。

文学作品は、時代の制約から自由ではない。だから、漱石の文章そのままでは、現代人には理解しにくいところが多々ある。どうしても、説明が必要である。そこまでは、これまでにも述べたように百歩譲って認める。
ただ、説明なら、注を付ければ良いと思うのだが、この「何か」はそういう方法を取らず、漱石の文章に書き加えることで、それを実現しようとする。
その結果、どのようなことになっているか?

まず、坊っちゃんが、清から貰った小遣い銭を蝦蟇口ごと便所に落としてしまった場面である。
「坊っちゃん」から。

其三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すっぽりと後架の中へ落して仕舞った。


「後架」は注記をすれば判るとしても、生まれた時からマンション暮らしの子供など、トイレに財布を落としても、すぐに拾えば大丈夫だろう、としか認識できない人にとっては、意味不明の文章なのかもしれない。
「何か」では、そういう人のために、漱石先生の文に大層親切な添削を施して判りやすくしている。

その三円をがまぐちへ入れて、着物のふところへ入れたまま便所へ行ったら、すぽりと便所の穴の中へ落としてしまった。くみとり式の便所で、深い穴の底には、なん週間もの大便や小便がたまっている。手をつっこんでひろうわけにはいかない。


それは確かに、「手をつっこんでひろうわけにはいかない」だろう。実に判りやすい。
ただ、水洗便所が普及したのは戦後のことだから、明治末期の読者にとってみれば、これは不要の説明である。こんな説明が施されている文章では、明治末期に書かれた「坊っちゃん」を読んだことにはならない。

次に、坊っちゃんが赤シャツに誘われて釣に出掛けた場面。
「何か」には、こうある。

「一番に釣れたのは、お手柄だがゴルキじゃ」
と、野だがまた生意気をいうと、
「ゴルキというと、ロシアの文学者みたいな名だね」
と赤シャツがしゃれた。
「そうですね。まるでロシアの作家のゴーリキーですね」
と野だはすぐ賛成しやがる。


赤シャツも野だも、坊っちゃんに「ゴルキ」の説明をしよう気はさらさらない。「ゴルキ」の面白さは、2人には判っているので、それをわざわざ「ロシアの作家のゴーリキー」などと言うのは、むしろヤボで、そんなことは口が裂けても言わないはずである。
こんな説明は、たとえば、鈴木一朗という名前の人の話題になった時、
  「鈴木一朗というと、メジャーリーガーみたいな名だね」
  「そうですね、まるでメジャーリーガーの外野手のイチロー選手ですね」
と言うようなものである。そんな説明たらしくわざとらしい会話は、ふつう、しない。
  「鈴木一朗というと、メジャーリーガーみたいな名だね」
  「そうですね、まるでメジャーリーガーですね」
と言えば十分である。
「坊っちゃん」の文は、以下のようになっている。

一番槍は御手柄だがゴルキじゃ、と野だが又生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者見たような名だねと赤シャツが洒落た。そうですね、丸で露西亜の文学者ですねと野だはすぐに賛成しやがる。


「ゴルキがロシアの文学者の名前のようだ」という赤シャツと野だの会話と、「ゴルキとはロシアの文学者のゴーリキーのことだ」という読者に対する解説が、中途半端に合体してしまっているのである。
なお、明治時代には、ゴーリキーは「ゴルキー」と表記されていた。「ゴルキ」は「ゴルキー」に似ているのである。だから、野だが「ゴーリキー」に言い換える必要はなかった。
二百歩譲って、どうしても現代人に判りやすいように「ゴーリキー」が言いたいのであれば、坊っちゃんに、「あとで人に聞いたら、ロシアの有名な作家にゴーリキーというのがいるんだそうだ。ゴルキがそれに似ているとしゃれたわけだ」とでも語らせるが良い。

もうひとつ。
祝勝会の際、中学校と師範学校が喧嘩をした場面。
「坊っちゃん」には、こうある。

すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の癖に、引っ込めと、怒鳴ってる。


たしかに、今となっては「地方税」は判りにくい。三百歩譲って、説明が必要だとしよう。
「何か」は、こうである。

すると前の方にいる連中は、しきりに
「なんだ、地方税のくせに、ひっこめ」
と、どなってる。
『地方税』とは、学費がただの師範学校のことだ。税金を使ってるくせに、と悪口をいっているつもりだろう。中学校は学費がかかるから、エリートだぞといばっているわけだ。


「中学校は―学費がかかる」も「中学校は―エリートだ」も、どちらも間違ってはいないが、「学費がかかるから―エリートだ」には、何の因果関係もない。
それに、仮に当時「学費がかかる=エリート」という図式が成り立っていたとしても、現代では、むしろ税金を使ってただで勉強できることの方がエリートな感じがするだろう。だから、「何か」の文章は、現代人にとって判りやすい文章になっているとも思えない。

最後にもう一度言う。
「坊っちゃん」ではない「何か」をいくら読んでみたところで、「坊っちゃん」が判るようにはならないのである。
[ 2011/10/14 23:05 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

必要のない文を削除する(?)

しつこいようだが、またもや、「坊っちゃん」ではない「何か」について。

「坊っちゃん」という作品、存外、長い。
だから、子供向けの「何か」を作る時に、所々、ストーリー展開の上で差し支えの少なそうな場面を割愛せざるを得ないところまでは、百歩譲って認めることにしよう。

それにしても、ここを削除するのか? と思うところは多々ある。
一例を上げれば、こんなところである。

坊っちゃんが、待ちに待った清からの手紙を読む場面である。

――読みにくいかもしれないが、これでもいっしょうけんめいに書いたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。

という出だしで、巻紙に一メートルばかりも、なにやらかんやら、書いてある。

――坊っちゃんは竹を割ったような性格だが、ただかんしゃくが強すぎて、それが心配になる。


「坊っちゃんは…」以降の手紙の文章については、多少の文言の違いはあるものの、それほど大きな違いはない。が、問題は、その前の部分である。

読みにくいかも知れないが、是でも一生懸命にかいたのだから、どうぞ仕舞迄読んでくれ。と云う冒頭で四尺ばかり何やら蚊やら認めてある。成程読みにくい。字がまずい許ではない、大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのに余っ程骨が折れる。おれは焦っ勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は五円やるから読んでくれと頼まれても断るのだが、此時ばかりは真面目になって、始から終まで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、又頭から読み直して見た。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくくなったから、どうとう椽鼻へ出て腰をかけながら丁寧に拝見した。すると初秋の風が場所の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、仕舞ぎわには四尺余りの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、向うの生垣迄飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構って居られない。坊っちゃんは竹を割った様な気性だが、只肝癪が強過ぎてそれが心配になる。


坊っちゃんの、清への思いが伝わって来る場面である。が、「何か」では、それをごっそり削除しているのである。
この部分を削除したのが長さ調節のための単なる偶然ではないことは、手紙を読み終えた場面を比較すると、はっきりする。

おれが縁側で清の手紙をひらつかせながら、考えこんでいると、しきりの襖を開けて、萩野のおばあさんが晩飯を持ってきた。
見ると今夜もさつま芋の煮つけだ。


おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込んで居ると、しきりの襖をあけて、萩野の御婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見て御出でるのかなもし。えっぽど長い御手紙じゃなもし、と云ったから、ええ、大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳についた。見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。


坊っちゃんが、清からの手紙を、時間を掛けて、何度も読み返していることを、読者に与える情報として不要なものと判断しているということだろう。
だが、ここが、簡単に削除できる、どうでも良い場面なのだろうか。それでは、坊っちゃんと清との心の繋がりを、不当に軽くする憾みがある。
[ 2011/10/13 23:09 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「だから、顔は見えない」

ここのところ、漱石の「坊っちゃん」と、「坊っちゃん」ではない「何か」を比べて見ている。見ているうちに、段々どうでも良くなって来てはいるのだが、これは特に気になったところ。

まずは、「何か」を引用する。

だんだん歩いていくと、おれのほうが早足のようで、二つの影が、次第に大きくなった。
一人は女らしい。
おれの足音を聞きつけて、二十メートルぐらいに迫ったとき、男がいきなり振りむいた。
月は後ろからさしている。
だから、顔は見えないが、
おれは男のようすを見て、「はてな?」と思った。
男と女はまた元のとおりに歩きだした。
おれは考えがあるから、急に全速力で追っかけた。


この文を見る限り、「月は後ろからさしている」のと、「顔は見えない」のとは因果関係にある。
先行する二人と後行する坊っちゃんは、当然ながら同じ方向を向いて歩いている。だから「後ろ」というのは、3人全員にとって後方である。
そして、先行する2人のうちの男の方が振り向いた。が、月が「後ろからさしている」ことが原因で、顔が見えなかった、というのである。

この少し後で、2人を追い抜いた坊っちゃんが振り返る。振り返った坊っちゃんは、どうなったか?

おれは苦もなく後ろから追いついて、男の袖の横をすりぬけると同時に、二歩前へ出した足のかかとをぐるりとまわして、男の顔をのぞきこんだ。
月は正面から、おれの坊主頭からあごのあたりまで、遠慮もなく照らす。


「だから」から考えれば、赤シャツが振り返った時に「顔は見えない」方が当然の結果のように思える。が、坊っちゃんが同じ方向を向いた場合には月光が顔を「遠慮なく照らす」のだから、おかしな話もあったものである。

そのあたりのことを、漱石先生に説明していただくことにしよう。

段々歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間位の距離に逼った時、男が忽ち振り向いた。月は後からさして居る。其時おれは男の様子を見て、はてなと思つた。男と女は又元の通りにあるき出した。おれは考があるから、急に全速力で追つ懸けた。(中略)おれは苦もなく後ろから追ひ付いて、男の袖を擦り抜けざま、二足前へ出した踵を返して男の顔を覗き込んだ。月は正面からおれの五分刈の頭から顋の辺り迄、会釈もなく照らす。


「坊っちゃん」の文章に、何ひとつ不思議なところはない。
[ 2011/10/09 23:34 ] 本と言葉 閑話 | コメント(6) | TB(0) |  TOP△

家賃は21000円

「坊っちゃん」ではない「何か」」の続き。

本当は一回書けばもう充分なのだが、貧乏性と言おうか何と言おうか、わざわざ買った本を、それだけで書架の肥しにしてしまうのも勿体ない気がして、「坊っちゃん」と「何か」との違いを、比べて見ている。
ただ、突っ込みどころが余りにも多すぎて、収拾が付かずにいる。そのうち纏まったら何か書こうと思うが、今日は、作品の中身ではないところで、気になったことを取り上げる。

いい加減な本というのは、およそどこまでもいい加減にできているようで、この「何か」は解説にまで疑問符が付く。
どこかで読んだ気がするような内容なのは措いておくとして、呆れるのはその書き出しである。

今の一円が、当時はおよそ三五〇〇円。
『坊っちゃん』は、そんな時代の物語です。坊っちゃんの目を通して、あなたは明治三九年の四国の中学校まっただ中に飛び込みます。…


まさかそんなことが書かれているとは信じ難いが、何度読み返して考えてみても、「今」と「当時」が逆である。これでは、明治時代の方が今より物価が高いことになってしまう。
が、今回は、あえてそこには目を瞑って、今の物価は当時の3500倍だ、という意味のことが書かれていることにしよう。その上で…。

人間、一番新しい情報が、一番記憶に残っているものである。非常に記憶に新しい解説の2ページ前、今の今読み終えたばかりのところに、こんな文があった。

その後、ある人の紹介で、路面電車の技術者になった。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。

(原文:其後ある人の周旋で街鉄の技手になつた。月給は二十五円で、家賃は六円だ。)


当然のことながら、読者はこの金額に、3500を掛けてみるだろう。すると、25円は今の87500円、6円は21000円という数字が弾き出される。
何だこれは!
月給は今の東京都の最低賃金を遥かに下回る。それに、都内で2万円で借りられる家というのは、一体どんな環境にあるのだろうか。しかも清と二人で暮らせるような家である。何だか、訳が判らない。

物の値段の比較は、何を基準にするかによっても大きく変わるだろうから、この物価の換算の数値の正誤は問題にしない。何かの物価を基準にした比較では、明治末期と現在とで1対3500になっているのだろう。だから、その記述自体が、嘘だとか間違いだとか言うつもりはない。
問題は、「坊っちゃん」を読み終えたばかりの読者にこんな情報を与えるのは、どんな目論見あってのことなのか、ということである。

解説の冒頭で、換算の基準を示して、「そんな時代の物語です」などと言われれば、読者はふつう、換算することが推奨されているのだろうと考える。だが、それを真に受けて換算した結果は、「???」である。
実に不思議なことだが、ここに示された換算の基準に従って、「坊っちゃん」に現われる具体的な金額を現代の相場に換算してみる読者が実際にいるであろうことは、想定されていないのだろう。
今の物価が当時の3500倍、という情報は、マメ知識としては良いかもしれないが、読者が「坊っちゃん」の世界に入り込むことには、何の役にも立たない。いや、役に立たないこともないかもしれないが、少なくとも、この解説には、役に立ててもらおうという気がない。
「坊っちゃん」のどこにどんな金額が書いてあるかも知らないで…と言ったら言い過ぎかもしれないが、すくなくとも確かめもしないで書いているのは間違いない。

「坊っちゃん」の中には、ほかに、こんな数字も出て来る。
父親の死後、兄が家財を処分して九州へ行く時に、坊っちゃんに置いて行ったお金の使い道の記述である。

商売などはどうでも良いから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三で割って、一年に二百円ずつ使えば、三年間は勉強ができる。

(原文:資本抔はどうでもいゝから、これを学資にして勉強してやらう。六百円を三に割つて一年に二百円宛使へば三年間は勉強が出来る。)


200×3500は70万だが、1年に200円の学資とは、単純に学校に払う授業料だけを言うのではないはずである。学校に通いながら生活費はアルバイトで稼ぐなどということが、当時としては簡単にできるわけはないから、1年200円は生活費も入った金額である。つまり、今の感覚で言えば、3~400万円くらいには、相当すると考えなければならないだろう。

そのように考えて来ると、「街鉄の技手」としての25円の月給は、そう悪いものではない。
四国の中学校の月給40円も、校長や学士たる赤シャツには大きく劣るだろうが、それなりの高給なのに違いない。40×3500で14万円の月給なら、赤シャツを殴りつけて棒に振ることのできる人はいるだろうが、実際にはそんな勇気が簡単に出る金額ではなさそうである。

四国に着いて最初に乗った汽車の切符が3銭。
宿屋にやった茶代が5円。
山嵐が奢った氷水が1銭5厘。
団子2皿7銭。
温泉の上等が8銭。

「坊っちゃん」にはいろいろな数字が出て来るが、一々換算はしない。「今の一円が、当時はおよそ三五〇〇円」という情報を提示することは、それがたとえ間違ってはいないとしても(前述したように本当は間違っているけれども)、この作品の読みに、寄与するところがないのである。
[ 2011/10/08 19:25 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「坊っちゃん」ではない「何か」

音楽であれ、文学であれ、誰にでも好みというものがあって、どんな名作でも、合わない人には面白くも何ともない。
けれども、仮に僕がドストエフスキー嫌いだったとしても、「カラマーゾフの兄弟」は駄作だ、ということにはならないから、自分にとって価値のないことが、他人にとっても価値がないとは限らない。(注1)
面白いと思わなければ、黙殺すれば良いだけのことだから、何かを一方的に否定することは、できるだけ慎もうと思っている。(注2)

だが、今日たまたま目にしたこの本については、断固否定したい。
それは、夏目漱石の「坊っちゃん」と称する「何か」である。何なのかは良く判らないのだが、すくなくとも漱石の「坊っちゃん」そのものでないのは確かである。

今や旧漢字や旧かなで書かれたものを読みこなすのは、無形文化財級の特殊技能と言えるから、明治の文学を新漢字や新かなに直すのは至当だろう。また、子供(小学中級から)向けの本である以上、漢字をかなに開き、ルビを振り、ということもせざるをえない。それから、これはあまり認めたくはないが、会話文に原文にはない鍵括弧を補い、読点を増やし、章立てを整えたりするようなことも、止むをえないのかもしれない。
そこまで認めた上で、なお、僕にはこの本のありようを認めることができない。

ではまず、その「何か」の冒頭部分を引用しよう。

プロローグ

    1
親ゆずりのむてっぽうで、子どものときから、損ばかりしている。

小学校のとき、学校の二階から飛びおりて、一週間ほど腰をぬかしたことがある。
なぜそんなむちゃなことをした、と聞く人があるかもしれない。
べつに、深い理由はない。
新築の校舎の二階から首を出していたら、同級生の一人が、冗談に、
「いくらいばっても、そこから飛びおりることはできまい。弱虫やーい」
と、はやしたからである。
用務員におぶさって帰ってきたとき、おやじが大きな目をして、
「二階ぐらいから飛びおりて、腰をぬかすやつがあるか」
といったから、
「この次は、ぬかさずに飛んでみせます」
と答えた。


漱石の「坊っちゃん」の原文は、以下の通り。ただし、新字、新かなに改める。

    一
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無暗をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云つたから、此次は抜かさずに飛んでみせますと答えた。


「無闇」を「むちゃなこと」に変えているものは、これまでにもあった。だが、ここまで文章を書き換えてしまっているものは、見たことがなかった。

続いてもう少し後の部分。これにはぶっとんだ。

兄はビジネスマンになるとかいって、しきりに英語を勉強していた。もともと女のような性格で、ずるいから、仲がよくなかった。十日にいっぺんぐらいの割合で、けんかをしていた。

   2

あるとき将棋をしたら、兄がひきょうな手を使って、おれがこまるとうれしそうにひやかした。あんまり腹が立ったから、手に持っていた飛車の駒を、兄のまゆとまゆの間へたたきつけてやった。皮膚が切れて、少し血が出た。


兄は実業家になるとか云って頻りに英語を勉強して居た。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍位の割で喧嘩をして居た。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。


違いについて、一々解説はしない。
なお、小さなことだが、「将棋をしたら」(「何か」)と「将棋をさしたら」(「坊っちゃん」)の違いは、写し間違いではない。

次。

十分たって次の教室へ出ると、
――天麩羅四杯なり。ただし笑うべからず
と黒板に書いてある。
さっきはべつに腹も立たなかったが、今度はしゃくにさわった。
冗談も度を過ごせばいたずらだ。一時間も歩くと見物する町もないような狭い都に住んで、ほかになんにも芸がないから、天麩羅事件を大戦争のようにふれちらかすんだろう。


十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯也。但し笑う可らず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦の様なもので誰も賞め手はない。田舎者は此呼吸が分からないからどこ迄押して行っても構わないと云う料簡だろう。一時間あるくと見物する町もないような狭い都に住んで、外に何も芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだろう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ。


何だかずいぶん長さが違うが、「何か」の方を写し漏らしているわけではない。

外国文学の翻訳なら、大人向けのものと子供向けのもので、表現がまったく違うではないか、子供向けの漱石もそれと同じことではないか、と言う人があるかも知れぬ。だが、外国文学は、それが原作者の原文でないことは大前提で、原作者名に併記して翻訳者名が明示されるのがふつうである。だから、子供向けの「三銃士」を読んで、デュマがそんな文章を書いたのだ、と思う人はいない。
それに対して、この本には、これが夏目漱石の「坊っちゃん」だと明記されているのである。「森川成美・構成」とは書かれているが、「構成」という行為には、ふつうは改作を含まない。著者が「夏目漱石」だと明記されている以上、漱石はこんな文章を書いていないとは誰も思わない。

この「何か」には、文学が、文字通り「文」の「学」だという観点が、根本的に抜け落ちている。名作の内容を知っていれば、名作を読んだことになると思っているのかもしれないが、こんな文章を読んだところで、明治の文豪の文学が判るものではない。
むろん、旧字旧かなの原文を読めば必ず漱石が判る、というほど単純なものではないけれども、こんなもので漱石が判らないことだけは、間違いがない。

明治の文学は、現代の若者には敷居が高いのに違いない。いや、ある程度年配の人にでも、けっして低いものではないだろう。けれども、その敷居を越えなければ、多少なりとも判るようにはならない。
内容が判ればそれで良いのなら、あらすじで事足りる。改作された、「坊っちゃん」とは似て非なる「何か」を、そうと知らずに読まされるくらいなら、最初から割り切って漫画「坊っちゃん」でも読んだ方が、よっぽどタメになる。
カップ・ラーメンを毎日食べたからといって、本格的な中華料理の味が判るようになるわけではないのと同じように、「坊っちゃん」ではない「何か」をいくら読んでみたところで、「坊っちゃん」が判るようにはならないのである。

この「何か」の巻末には、「『みらい文庫』読者のみなさんへ」という、編集部による一文がある。曰く、

言葉を学ぶ、感性を磨く、想像力を育む……、読書は「人間力」を高めるために欠かせません。


その方針の結果が、これなのか…。

ついでに、最後のところも比較しておく。

エピローグ

清のことを話すのを忘れていた。
おれが東京へ着いて下宿へも行かず、かばんをさげたまま、
「清や、帰ったよ」
と飛びこんだら、
「あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰ってきてくださった」
と涙をぽたぽたと落とした。
おれもあまりうれしかったから、
「もういなかへは行かない、東京で清とうちを持つんだ」
といった。

その後、ある人の紹介で、路面電車の技術者になった。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清は、玄関つきの家でなくっても十分満足のようすであったが、きのどくなことに、今年の二月、肺炎にかかって、死んでしまった。
死ぬ前日、おれを呼んで、
「坊っちゃん、おねがいだから、清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めてください。お墓の中で、坊っちゃんの来るのを、楽しみにまっております」
といった。
だから清の墓は、小日向の養源寺にある。


清の事を話すのを忘れて居た。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれも余り嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んで仕舞った。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺に埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待って居りますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。


小学生に判りやすいようにここまで変えるのなら、「月給は二十五万円で、家賃は六万円だ」くらいのことをした方が良い。今時25円なんて、小学生の小遣いにもならない。

ところで、こんな本にお金を使うのも馬鹿げているので、最初は立ち読みで済まそうと思っていたのだが、それでは書店に迷惑だし、文句を言う資格に欠ける恨みもある。そこで、まったく必要ではないけれども、この「何か」を購入した。
だから集英社の諸君、1冊売れたからといって、1人の読者の支持を得たと思い誤ること勿れ。
[ 2011/10/04 22:22 ] 本と言葉 閑話 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△