『[文法]であじわう名文』

当ブログの数少ない読者諸兄に告ぐ。
敢えて理由は言わないが、本書を強く推奨し、購入を懇請する。

馬上駿兵『[文法]であじわう名文』

[文法]であじわう名文

以上。

『高等学校 古典B 古文編』

ごく軽いわけがあって、神田の三省堂書店で、『高等学校 古典B 古文編』(三省堂)を買って来た。書名から判る通り、高等学校の国語(古文)の教科書である。
見てみると、実に良く出来ている。僕の認識不足なのだが、高校でこんなにきちんと古文を取り扱っているとは思っていなかった。高校生がこれをきちんとこなしているとすれば、大学の国文学科の学生の過半は足元にも及ばないだろう…いや、国文科の学生は、これをきちんとこなして来ているはずだが…。

それはともかく、教科書は注釈書ではないから、それほど多くの注が付けられてはいないし、現代語訳があるわけでもない。だから、ポイントになるところは高校の先生が説明したり生徒に辞書を引かせたりしなければならない。文法事項も、別途学習させる想定だろうから、個別には付けられていない。

また、生徒に考えさせるべき設問にも、なかなか難問がある。

たとえば、こんな例である。

いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。(源氏物語・桐壺)


これを高校生に判らせるためには、「女御」「更衣」の意味、それが「あまた候」うというのはどういうことなのか、等の説明をしなければならないから、そこまででもひと苦労だろうと思う。
そのうえで、ここには次のような問題が用意されている。

「あらぬ」の下に省略されている語は何か。


問題の回答自体は、指導資料に書かれているとは思うが、それをそのまましゃべるだけ、というわけにも行くまいから、自分でもある程度は調べなければならないだろう。

そこで、披見の容易な主要な注釈書を見てみる。
『日本古典文学全集』の現代語訳「たいして重々しい家柄ではない方で、目だって帝のご寵愛をこうむっていらっしゃる方があった。」
『日本古典文学大系』頭注「位が高く勝れた身分(分際)ではない方(者・人)で。」
『新日本古典文学大系』脚注「たいして重んじられる身分の家柄ではない女性が目立って寵愛を受けておられる(そういう)方がいたことだ。」

どうやら、「方」とか「者」とか「人」とか「女性」とかが省略されていることは判った。いずれにせよ、桐壺更衣と言われる女性が該当する。
これで答えは出たと言って良いだろうが、そのうえで、先生は生徒に理解させるための説明をしなければならない。それが、難しい。

先の『全集』の頭注には、「「が」は主格助詞。逆態接続助詞としての用法は十二世紀以降に発生。」とある。これは、「たいして重々しい家柄ではないけれども」という逆接の表現ではない、という説明なのだけれども、訳には「方で」とある。主格助詞なら「で」とは訳せないはずで、これでは所謂同格である。ここを生徒に突っ込まれたら、答えに窮すことは間違いない。
『大系』には詳しい補注があるのだが、それを見ると、「が」を「指定格(または中止格)」とすべきという説明がある。当否はともかくとして、こんな耳慣れない用語を高校で教えたら、クレームが来ること請け合いである。
『新大系』の注は、「が」を主格助詞として訳しているのは良いのだが、それがために「女性が〜方が〜」ということになって、文脈として判りにくくなってしまっているから、高校生にそれで納得せよ、というのも難しい。
そのほか、『新潮日本古典集成』傍注に「それほど高い身分ではなくて」とあるのだが、「が」が接続助詞「て」に置き換わっている上に、肝心の「省略」については何も書かれていないから、参考にならない。

さて、お手上げである。指導資料様、助けて…になると思うのだが、それは売っていないから、どんなことが書いてあるのかは僕には判らない。

とまれ、高校の先生は、大変なんだな。

『文豪たちの「?」な言葉』

当ブログの数少ない読者諸兄に告ぐ。
敢えて理由は言わないが、本書を強く推奨し、購入を懇請する。

馬上駿兵『文豪たちの「?」な言葉』

文豪たちの「?」な言葉 (新典社新書 64)

以上。

『「暁」の謎を解く』

出版されてすぐに手に入れたものの、久しく積ん読状態になっていたのを、先日思い立って読んだ。

学問的に見える書物で、書名に「謎」だの「暗号」だのが入っているものは、信用できない場合が多い。
が、稀に良書がある。

小林 賢章『「暁」の謎を解く 平安人の時間表現』

「暁」の謎を解く 平安人の時間表現 (角川選書)

「明く」は寅の刻(午前3時)になることを言い、それが古代の「日付変更時点」であるのだという。
そして、夜が「明け」た後、3時から5時を「暁」と言う。したがって、「暁」はまだ暗い時間帯である。

むろん、検証の必要はある。比較的一般向けの本で、論拠となる用例も十分とは言えない面はあるけれども、大筋で、正しいのではないかと思う。

「明く」のを午前3時と考えることで、今まで判らなかったことが判るようになった気がするところが幾つかある。
そのうち纏めてみようという気になっている……のだが、如何せん、先は遠い。

「いろはうた」

「いろは歌」最古の全文、土器に…平安京跡

京都市中京区の平安京跡で出土した12世紀末~13世紀初めの土器に、平仮名の「いろは歌」のほぼ全文が墨で書かれていたことが分かった。

京都市埋蔵文化財研究所が27日発表した。いろは歌の全文がわかる資料では国内最古という。

貴族や皇族の邸宅「堀河院」跡の発掘調査で1983年に出土した土師器の皿(直径9センチ)の裏側に、赤外線などを用いた再調査によって、いろは歌47文字のうち43文字が確認された。

右端に最後の行の「ゑひもせす」があり、次の行に書き出しの「いろはにほへと」がある。最初は余裕を持って書き進めたが余白がなくなり、最後の行を右端に書いたとみられる。字は拙く、「よたれそ」を「よたそれ」と書き損じており、犬飼隆・愛知県立大教授(日本語史)は「和歌を習い始めたばかりの貴族の子弟が一生懸命書いたとも想像でき、かわいらしくも思える」と話す。(YOMIURI ONLINE)


「堀河院」と言えば、伊勢物語(6段)に「堀河のおとど」と出る藤原基経(836-891)の屋敷として有名だが、12世紀末〜13世紀初の頃、誰が住んでいたのかは存知しない。『讃岐典侍日記』で知られる堀河天皇(1079-1107)の里内裏だったのよりも後の時代である。
もっとも、僕の持っている歴史辞典によれば、堀川院は「保安年間(1120-23)の焼失後絶えた」とあって、実際のところどういう経緯なのかは判らない。

なお、この記事にの「いろは歌の全文がわかる資料では国内最古」には誤認があって、いろはうたそのものは、『金光明最勝王経音義』にある承暦3年(1079)のものが最古である。さらに揚げ足を取れば、確認できるのは「47文字のうち43文字」なわけだから、『金光明最勝王経音義』が「全文」なのに対して、こちらは「ほぼ」全文である。
ただし、『金光明最勝王経音義』は漢字で書かれているから、これはかなでほぼ全文が書かれたものとして、最古ということである。
さらにさらに揚げ足取りだが、「和歌を習い始めたばかりの貴族の子弟が」というのは、「文字を習い始めたばかりの貴族の子弟が」ではなかろうか、と、思う。

文字を見ると、素朴というよりはむしろ稚拙で、美術的な価値は感じられない。記事のとおり、子供が文字の手習いで書いたものが、偶々残ったものなのだろう。むろん、いろはうたが手習いの教材に使われていたというのも、特段新しい知見ではない。

とはいえ、こういう記事を見ると、意味もなく心躍る…とまでは行かないけれども、心揺れるくらいのものはあって興味深い。

国会図書館の蔵書、電子書籍化

今日、気になったニュース。

国会図書館の蔵書、電子書籍化して配信 文化庁が実証実験

文化庁は1月29日、国会図書館でデジタル化済みの資料を権利処理して電子書籍化し、電子書店を通じて一般ユーザーに配信、活用法や課題を探る実証実験「文化庁eBookプロジェクト」を、2月1日にスタートすると発表した。

「電子書籍の流通と利用の円滑化に関する実証実験」(主査:福井健策弁護士)の一環。野村総合研究所がプロジェクトを受託し、紀伊國屋書店が配信に協力する。

配信するのは、絵巻物そのものを読むようにスクロールしながら閲覧できる「平治物語〔絵巻〕」のほか、竹久夢二作品を国会図書館の電子化資料から挿絵、青空文庫からテキスト部分を組み込んで見開きごとに動物のスケッチと文章を組み合わせて読めようにした「コドモのスケッチ帖 動物園にて」、国会図書館のデジタル資料でアクセス上位の「エロエロ草紙」(酒井潔)など13作品。

将来、民間事業者や公的機関などが、既存のデジタル資料を基に電子書籍化して配信する場合の参考となるよう、結果や課題をまとめる。(ITmedhiaニュース)


僕の脳ミソが使い物になる内に、一足飛びに実用に耐える段階が来るはずがないのは自明だが、期待を抱かせるニュースではある。

何なら、僕の書いたものも、無料で配信してもらって構わない。

最古のひらがな

最古のひらがな 9世紀後半の土器に墨書
最古のひらがな

京都市中京区の平安京跡にある平安時代の有力貴族邸跡で出土した9世紀後半の土器片から、多数の平仮名の墨書が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が28日、発表した。平仮名は勅撰和歌集「古今和歌集」や「土佐日記」が編集された10世紀前半に確立したと考えられてきたが、通説より半世紀程度早く完成したことを示す一級の発見。完成された平仮名の文書としても最古とみられる。

土器は、右大臣を務めた藤原良相(813~67)邸跡で昨年11月に出土。庭の池(20メートル四方)に張り出した「釣殿」とみられる建物跡の周囲から、9世紀半ばから後半にかけての特徴を持つ皿や高坏など墨書土器の破片約90点が見つかり、うち20点で計約150字の平仮名が書かれているのを確認した。(YOMIURI ONLINE)


文字の歴史について詳しくはないから、コメントは差し控えるけれども、興味深い発見であることには間違いない。
なお、記事に出て来る藤原良相(よしみ/よしあう)は、あまり聞いたことがない、という人も多かろうけれども、藤原冬嗣の子、良房の弟に当たる人物である。その子に、国経・基経(良房の養子となる)・高子(清和帝后)がいる。伊勢物語を良く知っている人には、お馴染みのことだろう。

『百年前の日本語』

今野真二『百年前の日本語―書きことばが揺れた時代』

百年前の日本語――書きことばが揺れた時代 (岩波新書)

本書は、百年前(この「百年前」は「約」であって、ぴったり百年前だけのことを言っているわけではない)=明治末期の日本語がどのように書かれていたか、ということを、広範な文献を基に実証して行くものである。

「百年前」の代表的な作家、夏目漱石。
漱石の用字は宛て字が多いとか、効果を考えた意図的な用字だとか、いろいろなことを言われているのは周知の通り。
どうしても、漱石の表記だけを見て、その表記の意味だとか効果だとか、果ては漱石の性格だとかを考えてしまうけれども、当時、日本語がどのように表記されていたかを踏まえないと、何を言ってもあまり意味がない。
同一の文書の中に、楷書・行書・草書が混在していることは、手書きでは当たり前のことだったし、活字印刷でも同様だった。
また、現在のように、一つの言葉は極力一つの表記をしようとするのとは違って、一つの言葉に複数の漢字を宛てていたり、一つの漢字に複数の読みが宛てられていたり、多様な表記がなされていた。
現在の習慣とは違った表記があると、漱石の「宛て字」を含めて、正規の用字ではない俗な用字として捉えられがちだが、明治期には、現代とは違う表記の「揺れ」が許容されていた。
明治末期に、その揺れを収斂して行くような動きが始まり、不特定多数の人が理解できる書き言葉が確立して行くのである。

漱石が自筆原稿でどういう文字を書いていたとしても、印刷された状態を想定していたはずだ、ということも言われているし、それはその通りだと思うのだが、その想定していたものが、現代人が考えるような典型的な旧字旧かなと同じものかどうかは、一概には言い切れない。
戦前は旧字、現代は新字、と単純に考えていたのだが、そもそも「新字」というのも、昭和になって新たに創り出されたものではなく、通用の簡略な字体を正規の文字として制定したわけだから、漱石も「新字」を書いていたのである。
現代人が見て特殊な書き方だと思っているものが、実は当時の新聞や商用広告にも使われる自然な書き方だったことも、明らかにされている。

第4章「統一される仮名字体―失われた選択肢」など、国語史についての多少の知識と多大な興味がないと難しいと思われる部分もあるが、書かれている内容を考えれば、驚くほど平易に書かれていると言って良いだろう。

新書だから概説的なことしか書かれていないだろうと思うこと勿れ。ここまで読み応えのある本は、久しぶりに目にした。…それは日頃の不勉強の為せる業だ、とも言えないことはないが…。
とまれ、日本近代の文学・語学に興味がある方には、本書を強くお奨めする。

訃報…久曽神昇

元愛知大学長の久曽神昇氏死去 

久曽神昇氏(きゅうそじん・ひたく=元愛知大学長・理事長、国文学)23日死去、103歳。通夜は25日午後7時、葬儀・告別式は26日午前11時、愛知県豊橋市東新町115、イズモホール豊橋弐番館で。喪主は長男、皐浩(たかひろ)氏。 (msn産経ニュース)


個人的には存じ上げないが、僕が学生の頃には、既に「大家」と言われる学者たちより上の世代だった、国文学会の超大物である。
この上ない難読人名だが、時枝誠記や山田孝雄、あるいは澤瀉久孝と同じように、読めないとモグリと言われるほどの大学者だった。

知らない方も、これを見れば、どれだけの大物なのかは想像ができるだろう(検索の都合上関係のないものも混じっているが…)。
『日本歌学大系』や『西本願寺本三十六人集精成』には、ずいぶんお世話になったものである。
とにかく、そのお年が驚き。

『国語学原論』

時枝誠記『国語学原論』
国語学原論〈上〉 (岩波文庫)   国語学原論 下 (岩波文庫)
曲り角の日本語』を読んで、こんなものが文庫になっていたことを初めて知った。2007年初版で既に3版。岩波文庫の新刊はかなりチェックしているつもりだったのだが、見落としていた。赤版ならもっと気にしているんだが、青版は馴染が薄いので…。

本書の元本は、学生時代…と言えばふた昔以上も前だが、「言語過程説」ということばの響きが何だかカッコ良くて、それが何かも判らないままに古書を購入した。

が、時枝を読むのなら、その前にソシュールを読まずばなるまい、などと気取っているまま、長いこと積ん読に止まっていた。それではいかん、と一念発起、と言ってもソシュールは諦めて、この書を読んだのは間違いないのだが、まるっきり覚えていない。そしてその本は、たぶん実家に眠ったままである。

時枝理論を掻い摘んで説明しているものはままあるので、断片的に知識はあって、それで良いような気になってしまっていたのだが、文庫になっているのなら改めて読み直してみようと思って購入した。

「購入した」という段階で書いているのは、読了する自信が強くは持てないのと、読了したところで真っ当な紹介はできまいと思うからである。

僕のように、この本が出たことを知らない人がいたら、と思って書いてみたまでである。