菅原道真屋敷跡

これによって何が審らかになるのかは判らないけれども、気になるニュースだったことには違いない。
備忘のために上げておく。

菅原道真、晩年の屋敷跡発掘か 祭祀用遺物も出土 福岡県太宰府市

福岡県太宰府市教育委員会は25日、10世紀初めに都から左遷された菅原道真が過ごした「南館」があったとされる榎社(同市朱雀)境内の発掘調査で、9世紀後半~10世紀前半の掘っ立て柱建物跡や溝跡が見つかったと発表した。溝から、かめに坏(つき)を重ねて入れた祭祀(さいし)用とみられる遺物も出土。市教委は「菅公(道真)がこの地で最晩年を過ごした時期(901~03年)と重なる注目すべき遺構」としている。(西日本新聞)


なお、ここには引用しなかったけれども、記事中で『菅家後集』に「かんけごしゅう」という読み仮名が付いていた。
[ 2016/08/26 22:09 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「あなたも読めます」

古文書の崩し字、あなたも読めます 画像から似た字検索

読めない崩し字を解読します――。漢字の画像を入力すると、木簡や古文書の中からよく似た字を探し出してくれるシステムの運用が25日、始まった。奈良文化財研究所と東京大史料編纂(へんさん)所が共同で開発。そうしたシステムは初めてで、研究者だけでなく、一般の人もインターネットで無料活用できる。(朝日新聞DIGITAL)


これはなかなかおもしろい試みだと思う。むろん、「あなたも読めます」の「あなた」に、僕を含め専門外の人が含まれるものではないのだけれども… 。

MOJIZO:http://mojizo.nabunken.go.jp
[ 2016/03/27 21:20 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

桂宮

先日、桂宮宜仁親王の薨去の報を目にして思い出したこと。

「薨去」というのは耳慣れないことばだろうと思う。
学生時代、歴史資料を見ていて見かけた「薨去」ということばを何の気なしに使ったら、先輩が、その人物には「薨去」は使わないと言う。その時に、崩御、薨去、卒去の使い分けを教わった。が、俄には覚えられずに困っていると、判らなければ無理にそんなことばは使わずに、全部「没」と言っておけばよいのだ、と言われて、安心した覚えがある。

九段にある母校から半蔵門方向へ向かって少し歩くと、それほど物々しくはないけれども、常に警護の番人が立っているお屋敷があった。
ある時、ある先生から、それが桂宮邸であることを教わった。
古典の作品に、「桂宮本」と呼ばれる写本が少なからずあって、その先生も、桂宮本を底本としたある作品のテキストを出版していた。その桂宮本が、あそこにあるんだと言われて、何だか意味もなく親近感を持ったものである…のだが、その桂宮邸と桂宮本とは関係がないことを、ずいぶん後になってから知った。
[ 2014/06/10 23:02 ] 歴史 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

紺紙金字一切経

平安期の金字経から真ちゅう 制作者、費用ごまかす?

にかわで溶いた金粉で写経したとされていた平安時代後期(12世紀)の経典「紺紙金字一切経(荒川経)」を分析したところ、真鍮(ちゅう)が大量に使われていたと奈良大学(奈良市)が21日発表した。調査した東野治之教授(文化財史科学)らは「経済的、宗教的な理由とは考えにくい。制作者が施主に無断で金の代わりに使い、費用を浮かせたのでは」とみている。

日本では江戸時代に普及したとされる真鍮が、当時金の代替素材として使われていたことを示す発見という。(日本経済新聞)


本文中で「真鍮」にかなが振られているけれども、それよりむしろ、「紺紙金字一切経」に必要だろう。「こんしきんじいっさいきょう」と訓む…のだそうだ。
それはそれとして、下衆の興味として、非常に面白い。「費用を浮かせた」のが事実だとして、「施主に無断」なのは間違いないとしても、本当に制作者だけが利益を得ようとしたのか、はたまた…などなど。

なお、毎日新聞の記事を見ると、若干だがニュアンスが違う。

東野教授は「他にも真ちゅうを使った金字経や金製品が出てくる可能性がある」と指摘。西山教授は「真ちゅうは平安後期、金ほどではないが貴重な素材だったと考えられる。金属工業史の空白を埋める発見だ」と話している。


真鍮も貴重品だったとすると、制作費のちょろまかし、という下賤な興味は若干削がれるけれども、それはそれで重要な発見らしいから、興味深いニュースであるのに違いない。
[ 2014/04/22 22:56 ] 歴史 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△

龍馬の手紙

竜馬暗殺直前の手紙発見=新政府構想に言及、一般家庭で保管

幕末の志士、坂本竜馬が暗殺される直前に書いた手紙の下書きとみられる文書が新たに見つかったと7日、NHKと高知県立坂本龍馬記念館が発表した。東京の一般家庭で保管されていたもので、同記念館や京都国立博物館などが鑑定した結果、直筆であることはほぼ確実と判明したという。
「越行の記」と題され、竜馬が京都で暗殺される近江屋事件の前の10日以内に書かれたとみられるという。本文が739文字あり、土佐藩の後藤象二郎に宛てた手紙の下書きとみられ、大政奉還後の新政府の財政計画や人材について書かれていた。
NHKの番組収録中の街頭インタビューがきっかけで、東京都国立市の家庭のちゃぶ台の下に保管されていたことが分かった。古美術商から買った価格は1000円だったという。(時事通信)


政治だの外交だの科学だの、ロクでもないニュースが多い昨今、これは面白い。
素人が二束三文で手に入れた古いものなど、たいていは「小野小町が鎮西八郎為朝に送った恋文」だの「源頼朝公ご幼少の砌の髑髏(しゃれこうべ)」の類いなのが相場だけれども、中にはこんなこともあるんだな。
[ 2014/04/08 22:45 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

秀次切腹

今朝の新聞で見たニュース。
記事には「秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた『御湯殿上日記』」などという、記者の理解度を疑わざるを得ない記述もあるからこれだけでは何とも言えないところではあるけれども、『國學院雜誌』なら割に容易に見られそうだから、備忘のために書き留めておく。

豊臣秀次切腹に新説…秀吉は命じず、身の潔白訴え自ら切腹か 国学院大准教授が「太閤記」に疑義

 豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥(おい)の関白秀次が邪魔になって切腹させた-。こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し、「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を打ち出した。秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(渡部裕明)

 秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。

 切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。

 矢部准教授はこの日付について、「京都から高野山までは約130キロの距離がある。登り坂も厳しく、歩いて3日はかかる。13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。

 そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へあてた書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されていた。「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」

 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条には、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘。秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹したとみている。(msn産経ニュースwest)

[ 2013/11/18 22:51 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「北山抄」

猿の顔のような印、平安期の儀式書の写本に

宮内庁は11日、所蔵する平安時代の儀式書「北山抄」の写本に、同時代の文書に例のない、猿の顔のような印が朱や墨で押されていることがわかった、と発表した。

写本は、縦約30センチ、横約50センチの和紙をつないで巻物にしたもので、1枚の紙にほぼ1か所ずつ、縦約2センチ、横約2・5センチの猿の顔のような印が計56個、裏面の左端に押されていた。両面に文字が書かれた紙では、印影の上に文字が書かれており、文字が書かれる前に押されたことがわかる。

写本は、藤原氏の流れをくむ九条家から1956~57年に宮内庁が購入したもの。「北山抄」は、平安中期の歌人、藤原公任(966~1041年)が編さんした、宮中の年中行事や儀式について記した書物。(YOMIURI ONLINE)


「北山抄」に猿の顔のような印が押されていることが判ったところで、一体どんな意味があるのかは判らないが、馴染のある書…と言ってもふつうの人にはまったく馴染はないだろうが…のことが新聞に出ているのが何だか気になったので、書き留めておく。

もっとも、猿の顔の印も気にはなったのだが、実は九条家が現代まで続いていることを知らなかったので、そのことの方が気になった。それを無知と言われれば、返すことばはないのだが…。
[ 2013/04/13 00:07 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

識者によれば…

気になったニュース(?)。

ひな祭りは本来巳の日に行うもの 今年は4日にやるべきと識者

本来ひな祭りは3月3日ではなく、3月最初の“巳(み)の日”に行われていたことをご存知だろうか?

「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)…の十二支は、年だけでなく、日にちにもあてはまります。今年の3月最初の巳の日は4日。ひな祭りは3月3日ではなく、4日に行うことをおすすめします。
財運をつかさどる弁天様の化身である巳には金運を上げる効果があるので、巳年である今年のひな祭りは、とりわけ金運アップの効果があるんです」

こう話すのは、ひな祭りに詳しい占いカウンセラーのハーティ・心優(みゆう)さん。
ひな祭りに欠かせないお菓子といえば、ひなあられ。その食べ方ひとつで、金運が左右されるという。

「ひなあられが緑、白、ピンクの3色に色づけがされているのには、深い意味があります。緑は“草萌ゆる大地”、白は“清浄・浄化”、ピンクは“桃の花”を意味しており、いずれも生命力の証。この生命力こそが、金運の“芽”の源なんです」(ハーティ・心優さん、以下同)

ひなあられは、もともとは子供が外で人形遊びをする“ひな遊び”の際に持っていた携帯食料だったという説がある。つまり外に出てこそ、その効果が最大限に引き出されるのだ。

「金運の花を咲かせるには、自分自身の生命力を高めることが大事。外に出て、太陽の光を浴びながらひなあられを食べるといいでしょう。その数は、末永く幸運が続く“末広がり”で、金運に良いとされる8がベストです」

※女性セブン2013年3月14日号


ある人が何かについての「識者」であることは、かならずしもその人の職業の如何とは関係がないから、占い師が雛祭りについての識者であっても別段問題ではない。それに、「女性セブン」の記事をまともに取り上げても仕方ないと言えば仕方がないのだが、「識者」が言っているのなら…と無条件に信じてしまう人もいないではなかろうから、ひと言書いておく。

「ハーティ・心優さん」のことばの中には「本来云々」は見当たらないからどのような根拠で物を言っているかは判らないけれども、「本来ひな祭りは3月3日ではなく、3月最初の“巳(み)の日”に行われていたことをご存知だろうか?」と言われても、ご存じなかったとしか言いようがない。
古代から「上巳祓(じょうしのはらえ)」というものがあって、これが3月最初の巳の日に行われていた。また、同じ日に、曲水宴(ごくすいのえん)と呼ばれる行事が行なわれた。『日本書紀』の顕宗元年(485)の記事が初出らしく、そこには「三月上巳」と明記されている。
それを、文武天皇5年(701)から3日に改めた。中国では魏の頃から3日に行なうことに改められていたといい、本邦でもそれを倣ったものである。
曲水宴は元々宮中の行事だが、臣下の私邸でも行なわれており、万葉集巻第19に「(3月)3日、守大伴宿禰家持の館に宴する歌三首」(4151~4153)として載せられる歌も、この宴での詠である。

では、『日本書紀』を根拠に、「本来は…3月最初の“巳の日”に行われていた」と言えるかといえば、否である。曲水宴は盛大な宴会ではあるけれども、「雛祭り」ではないからである。

もっとも、3月上巳の日と「人形」がまったく関係なかったかというとそういうわけでもなく、

弥生の一日に出で来る巳の日、…この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形(ひとかた)乗せて流すを見たまふにも、よそへられて、…(源氏物語・須磨)


というように、人形を流して祓をするということはあったようだが、これを「本来」の「ひな祭り」と見做すのは無理である。現在、各地に流し雛の風習があるにしても、それを雛祭りの本来の形とするのは短絡だろう。

女の子の人形遊び自体は古代からあり、たとえば、

過ぎにし方恋しきもの ひひな遊びの調度。(枕冊子・過ぎにし方恋しきもの)

ひひな遊びにも、絵描いたまふにも、源氏の君と作り出でて、きよらなる衣着せ、かしづきたまふ。(源氏物語・若紫)


というような例は見られる。けれども、これは、現在の雛祭りのような日を決めての行事ではない。これを雛祭りの原型と見做すのなら、雛祭りは何時やっても良いことになる。

そもそも、「本来」をそれほどまでに重視するのなら、旧暦でやるべきではないのか?

もうひとつ突っ込んでおくと、「巳年である今年のひな祭りは、とりわけ金運アップの効果があるんです」云々というのは、本来の上巳祓や曲水宴の趣旨とは無縁であるのみではなく、現在の雛祭りの趣旨とも、大きく乖離している。
金運アップは大切なことかもしれないが、それは雛祭り以外の別の機会にやった方が良い。
[ 2013/03/03 22:44 ] 歴史 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

平等院鳳凰堂

気になったニュース。

国宝・平等院鳳凰堂で大量の平安期の瓦 修理で確認

昨年9月から修理が行われている京都府宇治市の平等院鳳凰堂(国宝)で、約5万2千枚の屋根瓦の取りはずし作業が終了し、3%にあたる1560枚が平安時代後期につくられた瓦であることがわかり14日、平等院と宇治市が発表した。

鳳凰堂はこれまでの調査で、天喜元(1053)年の創建当初は木製の瓦を使った木瓦(こがわら)葺きで、総瓦葺きになったのは約半世紀後の康和3(1101)年の修理からと考えられていた。今回の大量の平安期の瓦の発見で、「その見方が裏付けられた」としている。

同市によると、1560枚の平安期の瓦のうち、82%の1273枚が、文様などから、平等院の荘園があった大阪府八尾市の向山瓦窯跡で生産された河内系の瓦と判明。また、奈良でつくられた南都系の瓦も280枚残っていた。

河内系の瓦は表面をきれいに仕上げるなど、南都系と比べて丁寧につくられ、生産管理用の刻印が付けられている瓦もあった。

同市では「屋根に残る平安期の瓦は数10枚程度と思っていたので数の多さに驚いている。丁寧な作りを考えると、鳳凰堂造営のための特注品であったことが推測される」としている。(msn産経ニュース)


平等院鳳凰堂の屋根瓦が平安朝当事のものであろうと後世に葺き替えられたものであろうと、平安朝史が変わってしまうようなことはまずありえないとはいえ、こういうニュースを読むと、純粋に楽しくて夢があるし、何より歴史の長さを感じられる。
僕が今住んでいるのは東京は下町だから、古いと言っても江戸時代がせいぜいで、空襲の激しかった土地柄、残っているのは、殆んどが戦後のものである。生まれ育ったのは横浜の外れの新興住宅地で、周りには僕の年齢と大して違わないものしか見当たらなかった。鎌倉には至近だったけれども、それでも鎌倉時代が良いところである。
「この前の戦争」(註)で焼けなかったものが今でも残っているのは、古いものを大事にしている土地柄だからなのだろう。それが、歴史というものである。
[ 2013/02/15 21:25 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

箸墓古墳

気になったニュース。

箸墓古墳などに立ち入り調査へ 宮内庁が許可

宮内庁は13日、天皇や皇族の墓として管理する陵墓のうち、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、全長約280メートル)と、卑弥呼の後継者・台与(とよ)の墓との説がある西殿塚古墳(同県天理市、同約230メートル)への立ち入り調査を、日本考古学協会など考古・歴史15学協会に許可すると発表した。
20日午前に研究者が箸墓古墳、同午後から西殿塚古墳の墳丘最下段を約1時間半かけて歩き、観察する。(朝日新聞デジタル)


邪馬台国大和説論者にとっては願ってもないニュースだろうし、九州説論者にしても、手ぐすね引いて反駁の機会を待ち構えているところだろう。
僕の個人的な思想としては、学問的意義を振り翳して天皇陵に足を踏み入れようとする立場には与しないのだけれども、今回は宮内庁が許可を出したのだから、素直にその成果を楽しみに待ちたいと思う。今回は本格的に掘り起こすような調査ではなさそうだし、もし重要な遺物が出て来ても、その後の解釈が必須だから、すぐに答えが出るものではないだろうが、これまで調査できなかった場所だから、学問的な進展も期待できるかもしれない。
もっとも、今回の発掘で、歴史上の重要な事項が明らかになるような展開があったとしても、「だから他の天皇陵も…」という議論に一足飛びに至らないことを希う。学問の発展のためには何をやっても許される、という態度ではなくて、大切な陵墓を調査させてもらうという謙虚な気持で当ることが肝要である。
[ 2013/02/14 22:40 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△