「ゆう活」

とにかく、忙しい。
何かができずにいる時に忙しさを理由にするのは便利だけれども、それは多くの場合ただの言い訳で、忙しくなかったところで何もしないのが常である。それに、世の中にはぼくより何層倍も忙しい人が、山ほどいる。
当ブログの更新が久しく滞っているのも、かならずしも忙しさだけが原因ではなく、ほかにも要因がある。
だから何事につけ、極力、忙しいから、という言い訳は、避けるように努力している(あくまでも「努力」である。実際には、しばしば使ってしまうのだが…)。
が、忙しいことは忙しい。

そんな昨今、こんなニュースがあった。

早出・早帰り「ゆう活」開始 首相お手本「人生豊かに」

政府は1日、全府省庁を対象にした夏の朝型勤務と定時退庁を奨励する「ゆう活(ゆうやけ時間活動推進)」を始めた。8月末までの2カ月間、出勤時間を早める代わりに定時退庁する働き方を促し、長時間労働を抑制する狙いだ。ただ、国会の会期延長で残業は増える見込みで、現場からは「さらに長時間勤務になるのでは」と懸念の声も上がっている。

安倍晋三首相は1日夕、公務を早めに切り上げ、東京都内の国立西洋美術館で約30分間美術鑑賞。記者団に「人生が豊かになった気がする。皆さんもゆう活を生かして人生を楽しんでもらいたい」と語った。(産経新聞)


「さらに長時間勤務になる」かどうかは、官公庁や企業の取り組み次第だろうから措くとしても、何だか呑気な考えである。
これまで17時に帰宅していた人が16時に帰れるようになれば、確かに豊かな人生が送れるかもしれない。
が、23時が22時になったところで、大した違いはない。「定時退庁を奨励する」といったところで、仕事が終わらなければ帰るわけには行かない。ヘトヘトになって家に帰り着いて就寝する時間が1時間早まるだけのことである。次の日はまた、1時間早く起きなければならないのだから…。
要は、仕事を早く始めれば解決するという問題ではないのである。そんなことは、企業単位とか個人単位とかで、既にやっているのである。

ぼくは別段首相や政府を批判するつもりはないのだけれども、首相が「公務を早めに切り上げ」て美術鑑賞をしたところで、一般市民の「お手本」になるとは思わない。そもそも首相とサラリーマンとでは時間の持ち方が違うわけだし、「ゆう活」でできることは、仕事を「早めに切り上げ」ることではないだろう。
仕事を「早めに切り上げ」られるのであれば、たしかに「人生が豊かになった気がする」だろうけれども、早く出勤したからといって仕事が減るわけではなく、残業を抑制できるわけでもない。同じだけ残業をしてもいつもより1時間早く帰れる、というだけのことである。

単に、1時間前倒しで行動する、というだけのことで、何のことはない、サマータイムと同じことなのだけれども、サマータイムの導入には過去に失敗の事例があるから、看板の付け替えをして、目新しさを装っているだけに見えてならない。

もっとも、「ゆう活」と国会会期延長は矛盾だ、などと言って批判している野党もいかがなものかとは思うが…。
[ 2015/07/04 23:03 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

ラドリオのコーヒー

先日、何年ぶりだかも覚えていないくらい久しぶりにラドリオに入った。
いきなり「ラドリオ」と言われても、知らない人は知らないだろうけれども、知る人ぞ知る、神田神保町にある喫茶店である。夕方以降はアルコール主体のメニューに変わるから、バーとしてのイメージが強い人も多いかもしれない。
ここは文豪たちが多く立ち寄ったことで有名な店で、古本屋街を歩き回った足休めだけでなく、近くにある山の上ホテルに缶詰になって原稿を書いている合間に息抜きで訪れることもあったようである。
似たような逸話を持つ喫茶店はいくらもあるのだろうけれども、その中でもラドリオは特別な存在である。裏通りにあって、知らずにふらっと立ち寄れるような立地でないことも、心をくすぐるものがある。

このラドリオ、もう一つ有名な点があって、日本で初めてウィンナー・コーヒーを提供した店らしい。
それで、この店では「コーヒー」というとウィンナー・コーヒーが出て来る。だから、ふつうのコーヒーが飲みたければ、「ブレンド」と注文しなければならなかった。
僕が頻繁に行っていた20年前くらいには、新しい客(むろんぼくもその1人)にはそれが通じなくなっていたからか、「コーヒー」と頼むと「ウィンナー・コーヒーでよろしいですか?」と聞き返されて、それに対して「はい」か「いいえ」かを答える必要があった。
とはいえ、そのやりとりを省略するために、最初から「ウィンナー」とか「ブレンド」と注文するのは、素人のやることである。 ラドリオで通ぶるためには、この店で「コーヒー」と言えばウィンナーに決まっているのだから、注釈なしの「コーヒー」を頼むべきで、問い掛けに対して当然のように「はい」と答える手順を踏まなければならない。

それで、久しぶりに訪れた今回も、当然「コーヒー」と注文したのだが、返って来た問いは「ブレンドでよろしいですか?」だった。
問い掛けに対して「いいえ」と答えるのは、相手の期待に反するようで若干心苦しい気がするけれども、そこで妥協して「はい」と答えるくらいなら、最初から「ブレンド」と注文すれば良かったのだから、ここは初志貫徹、少々戸惑いながら「いいえ」を返した。

むろん、客商売である以上、ウィンナーよりブレンドを注文する人が多くなって来たのであればそれに合わせた接客をするようになるべきなのは言うまでもなく、暫くぶりで訪れた客ごときが、以前との変化をとやかく言う筋合いのものではない。

要は、通ぶったことを書いてみたかっただけなのである。
[ 2015/02/04 13:33 ] 理屈・屁理屈 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

「第三者機関」

今年の流行語大賞が何だったのか、少し前に発表されたばかりなのにすっかり忘れ去ってしまったが、そもそも何時どこで流行ったのかも判らないようなものが多かった(その原因の大半は僕があまりテレビを見ないことに帰せられるかもしれないが)から、それも致し方ないところではある。
流行語というには当らないかもしれないけれども、個人的には「第三者機関(あるいは第三者委員会)」というのを推したい。
今年、何かの疑惑や不祥事があると、やたらにこの「第三者」が登場しては活躍していた印象がある。
第三者機関が調査したところで、法的な捜査権限があるわけでもないから、客観的な事実が明らかになる保証はどこにもない。調査される側の問題意識に懸かっているのだから、自分で調査したところで同じことで、自分には公正な調査をする力はないと、告白しているようなものである。
研究機関にせよ新聞社にせよ政治家にせよ、本来は自分で調査すれば良いことを、お手盛り調査と思われたくないから、何でもかんでも第三者に放り投げて、問題を真摯に受け止めているイメージ作りをしていただけに思われてならない。

もう一つ、「記者会見」なんていうのもどうだろうか。今年に限ったことではないだろうけれども、中身のない大きな記者会見が多かった気がする。
専門的な知識が必要なはずの記者会見で、専門的なことはほとんど語られず(報道されなかっただけかもしれないけれども)、取材側にも専門知識のある人はほとんどいず、とか、ロクな説明もせずに泣き出したり、とかいうような…。
これも見ていないので本当は何とも言えないのではあるのだが。
[ 2014/12/25 22:38 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

経過と結果

自分の専門範囲でもないものを、ゴダゴダ言うのも如何なものかとは思いつつ、専門云々以前の部分で物を言う。

最近、革新的な分野の研究について、不正だとか捏造だとかいう調査結果が報告されている。
それに対して、調査された側は不注意だとか単純ミスだとか、禁止されているとは知らなかっただとか主張しているらしい。
個人的な印象としては、故意や悪意があったとしたらあまりにも稚拙だから、意図的なものではなかったのではないかと思っているのだけれども、「知らなかった」というのは大きな問題で、この時点で研究の信憑性が、大きく揺らいでいるのは間違いはない。
本人の主張は、経過に問題があったとしても結論は正しい、というようにも見えるのだけれども、素人なら結果オーライのまぐれ当りでも評価の対象になるとしても、プロにとっては結果の出し方すなわち経過の確かさが必須である。それを知らなかったとしたら、出した結果がどれほど優れていても、プロの仕事とは呼べないだろう。
一方通行の道を自動車で逆走して、逆走してはいけないとは知らなかったと言い張っても、この主張は通らない。そのくらい、初歩的なことである。法律違反という意識や危険性の認識がまったくなかったとしても、知らなかった非は素直に反省しなければならない。
ただ、逆走の危険性を教えられたことがなく、頭に思い浮かべたこともなかったとしたら、反則切符を切られても、不満以外の感情は沸いて来ないかもしれない。もちろん、それを教えられていなかったのだとしたら、教えなかった教習所にも致命的な問題がある。

ところで、判らないのは、論文を撤回する、しないの議論である。
撤回しようがしまいが、正しいものは正しいし、間違っているものは間違っている。正しいかどうかは、第三者によって検証されるべきもので、本人が撤回しなかったとしても、間違いであることが立証されれば、それでオシマイのはずである。
悪意のあるウソならともかく、杜撰な間違いだったとしたら、撤回しなければならない論文は、ほかにいくらもあるだろう。撤回しなくても、価値のない論文なのであれば誰にも相手にされなくなるだけのことなのだから、それを周りから撤回を迫る意味が判らない。
不備のある論文を認めたままだと、自身の権威に関わるから、厳しく断罪して失墜した権威を少しでも回復しようと、予定調和の調査結果を発表したように感じられてならない。

[ 2014/04/03 00:23 ] 理屈・屁理屈 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

「やかましい」

都議会5000万円集中審議 知事回答に怒号 傍聴人は「見ていられない」

 東京都の猪瀬直樹知事(67)が医療法人徳洲会グループから現金5000万円を受け取った問題をめぐり、都議会側が集中的に経緯をただした9日の総務委員会。猪瀬氏は「覚えていない」との回答を繰り返し、たびたび都議の怒号に包まれた。だが、追及に進展はなく、傍聴人からは「見ていられない」「知事のペースに感じる」などの声も上がった。
……
 猪瀬氏が知事給与の返上を申し出ると、「そんなこと聞かれていないだろうが」とやじが相次ぐなど早くも騒然とした。その後、給与返上の話題が上ることはなかった。
……
 都議からは常に激しいやじが飛び、「やかましい」と怒鳴った傍聴人が退室させられる一幕も。
……(iZa)


この問題の本筋のところは措いておくが、ここで取り上げたいのは、引用した最後の部分である。
この傍聴人は議場内の激しい野次に耐えかねて怒鳴ったのだろう。そして、耐えかねるほどの激しい野次を飛ばしたのは、記事にある通り、都議会に正式に出席している都議会議員である。
むろん、傍聴席では静粛にしているのが当然だから、怒鳴った傍聴人が退室させられるのは当然である。が、ある意味、「そんなこと聞かれていないだろうが」より、「やかましい」の方が、真っ当な発言だと言えないこともない。けれども、前者は野次を飛ばし続けることを得、後者は退室を余儀なくされる。
国会でも、嘗て鳩山首相(当時)に対する「ルーピー!」という野次が物議を醸したことがあるけれども、それは内容が問題視されたのであって、発言権のない議員が野次を飛ばすこと自体はごく当たり前の見慣れた光景である。
こういう悪弊は何とかならんものか。小学校の学級会だって、先生がしっかりしていれば、そんな幼稚な行為は行なわれないのに…。あ、「先生」が率先して野次を飛ばしているのだから、これは駄目か。
[ 2013/12/10 23:45 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

技術立国と入試科目

何だか大仰なタイトルを付けたが、元より大したものではない。「文系入試も理数必須」でも「理数教育と技術革新」でも何でも構わなかったわけで、昔から僕のことを知っている人なら、ちょっとだけニヤっとしてもらえるかもしれない、という程度以上の意味はない。

文系入試も理数必須 自民提言 技術立国に不可欠

自民党の教育再生実行本部(遠藤利明本部長)が理数教育の充実策として、文系を含むすべての大学入試で理数科目を必須とすることや、小学校の理科の授業をすべて理科専門の教師が行うことを提言することが24日、分かった。日本経済を復活させ、技術立国として「イノベーション(技術革新)」を進めていくには、将来世代に対する理数教育の充実が不可欠と判断した。安倍晋三首相に提出する第1次報告案に盛り込み、夏の参院選公約の目玉の一つにする方針だ。

文系の大学入試では、特に私立大の試験科目は英語・国語・社会の3科目が中心となっている。同本部は、文系の入試に理数科目が加われば中学、高校での理数科目の時間が増え、科学技術系分野に関心を持つ生徒が増えるとの期待をしている。

小学校では、理科の授業について、中学・高校の理科の教員免許を持つ教諭に限定する。

平成25年度の大学入試では、経済不況の影響からか学費の安い国公立大の理系に人気が集まる傾向があった。ただ、同本部は若者の「理科離れ」の傾向が止まったわけではないとみている。小学校教諭には文系学部出身者が多く、児童に対して理科の魅力をうまく伝えられていないのではないかと分析。観察や実験の知識や技術を持つ専科教師が指導することで、児童の理科に対する興味が伸びると期待している。(産経新聞)


これは一体、何を言っているんだか。

「日本経済を復活させ、技術立国として『イノベーション(技術革新)』を進めていくには、将来世代に対する理数教育の充実が不可欠」だということ自体は否定しない。部分的に見れば、必ずしも間違ったことを言っているわけではないところもあるだろう。
が、(僕が完全に文系の人間で、入試に理数科目が必須にされていたら大変なことになっていただろうということは措いておくとして、)この提言は全体的に見れば的が外れている。

文系の入試に理数科目が加われば中学、高校での理数科目の時間が増え、科学技術系分野に関心を持つ生徒が増えるとの期待をしている」…
入試で必須になれば、その科目の授業の時間が増えるのは確かにその通りだろう。
が、課程の抜本的改革をするのでなければ、理数科目の時間が増えれば、その分、その他の科目の時間が削られるのである。その分の学力低下の手当てをどうするつもりなのだろうか。授業数を減らさないとしたら、土曜授業を完全に復活したり、教員の大幅な増員や設備の拡充を含めた体制の抜本的な改革が必須である。が、この提言に、そこまでの意識があるようにも思われない。
それに、「理数科目の時間が増え」と「科学技術系分野に関心を持つ生徒が増える」との間には、何の因果関係もないだろう。だいたい、為にする勉強ほど、詰らなくて興味を惹かれないものはない。
理数科目の授業を増やすために、理数科目の勉強をしなければ文系の大学にも受からないようにするというのは、どう考えても邪道である。

小学校教諭には文系学部出身者が多く、児童に対して理科の魅力をうまく伝えられていないのではないか」…
もっともらしいけれども、これも怪しい。
理科の免許を持っている教員は、全員が「観察や実験の知識や技術を持つ専科教師」なのだろうか。理科の教員免許状を取得できる学部学科は多岐に亙っているから、からなずしも小学校で行なう実験の専門家であるとは限らない。
僕は平安朝の散文を専攻した「国語」の専門家だと言って良いつもりだけれども、それを以てまどみちおの詩の魅力を子供たちに向けて語り尽くせるはずだと言われたら、それは甚だ迷惑な話である。
どうしたら理科を魅力的に教えられるかということに目を向けず、理科の免許を持っている教員を連れて来れば上手く教えられるだろう、と考えるのは間違いなく短絡である。

そもそも、「将来世代に対する理数教育」などという深遠な問題を、即席で「夏の参院選公約の目玉の一つ」にしようとすること自体が、不純で浅墓なことだろう。
[ 2013/03/26 23:37 ] 理屈・屁理屈 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

おかしな調査あるいは統計でウソを付く方法

内閣府が行なった「家族の法制に関する世論調査」の中に、「選択的夫婦別氏制度」の調査がある。
その一部を抜粋すると、

  ア)現在の法律を改める必要はない 36.4
  イ)法律を改めてもかまわない 35.5
  ウ)通称として使えるように法律を改める 24
  わからない 4.1

となっている。
これを男女別に見ると、

  男性
  ア)現在の法律を改める必要はない 39.7
  イ)法律を改めてもかまわない 35.5
  ウ)通称として使えるように法律を改める 21.6
  わからない 3.2

  女性
  ア)現在の法律を改める必要はない 33.7
  イ)法律を改めてもかまわない 35.5
  ウ)通称として使えるように法律を改める 26
  わからない 4.8

である。

これは何ともおかしな調査である。
僕はこの問題についてはどちらかといえば気分的反対の立場(理論的反対ではない謂)だが、そのことは措いておく。ここで言いたいのは、夫婦別姓をどう考えるか、ということではなく、統計数字の見方についてである。

この調査結果を見て、ある人はこう言うだろう。
法律を改めることに賛成の人と反対の人とが拮抗している。特に女性では、賛成の人が反対の人を上回っている。
そう言われてみれば、そんな気もするかもしれないし、実際にそういうことを言っている人もいるようである。だが、この調査から、本当にそう言えるだろうか。

ここで言う「法律」とは現行の民法を指すわけだが、それを「改める」ことには2つの意味合いがあって、戸籍上の夫婦別姓を認める、ということと、戸籍上は認めないけれど通称使用を法的に根拠づける、ということとの両義が含まれている。
ウ)が後者なのは明らかだが、ア)は前者だけを指しているのか、両者とも指すのか、極めて曖昧である。イ)は恐らく前者を指しているのだとは思うけれども、明示的に示されてはいない。
設問の意図を推測することはできなくはないけれども、こういった調査の場合、それが完全に明確になっていなければ、それに対する回答もブレて来る。

また、ア)が全面的反対、ウ)が部分的反対(部分的賛成)であるとすれば、イ)は全面的賛成を選択肢にしていなければならないはずである。が、イ)は、「改めることに必ずしも反対しない」程度の人でも選択できる内容になっていて、ア)とは完全には対になっていない。
こういうアンケートで良く見られる、「どちらかと言えば反対」の人は、断固たるア)は選びにくく、「どちらかと言えば賛成」の人がイ)を選ぶのは容易である。設問の設定自体が、夫婦別姓に賛成の人が多くなっているはずだ、という予断を持って作られていると思しい。

たとえば、壁紙の色を青にすることの是非を問う調査があったとして、一方の選択肢を「壁紙の色は青にしたい」にしたのだとすれば、もう一方の選択肢は「壁紙の色は青にしたくない」が妥当である。が、上記の設問は、もう一方を「壁紙の色は青でなくてもかまわない」にしているようなものである。これでは、強く青を希望していない人は、「かまわない」方を選ぶことになるだろう。だからと言って、その結果、「青は壁紙の色として相応しくない」とは言えないはずである。「かまわない」と言った人が、必ずしも、壁紙の色が青では嫌だ、と言っているわけではないからである。

元々、統計というのは客観的なもののように見えて、実際のところは必ずしも無色透明で公正なものではなく、一つの統計から導き出せる結論は一つに限定されるものではない。先に、上記の調査の見方の一つを書いたが、ウ)は戸籍上の夫婦別姓を認めない立場だと言えるから、「戸籍上の夫婦別姓を認めることは、男女とも60%程度の人が反対している」とも言えるのである。同じ数字でも、見方を変えれば正反対と言って良い結論を導き出すことができる。

むろん、統計を取ること自体に、意味がないわけではない。そしてその分析に、真実が含まれていることも多々あるだろう。けれども、統計の取り方が妥当であるか、分析の仕方にウソはないか、ということを考えて掛からないと、統計を元に物を言ったことで、かえって説得力を失うようなことにもなりかねない。

もっとも、そもそもこの問題は、どれだけ切実に必要性を感じている人がいるか、ということが重要なのであって、パーセンテージの多寡は、その次の問題だろうと思うのだが…。
[ 2013/03/25 23:23 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

バカの壁

10年ほど前にベストセラーになった書籍のことではない。

地下鉄の九段下駅は、都営交通・新宿線と東京メトロ・半蔵門線のホームが隣接しているのだが、その間は壁で仕切られていて、乗り換えるためには一々階段を昇り降りして改札を出入りしなければならなかった。それを東京都の猪瀬直樹知事が「バカの壁」と呼んだ。
その壁を撤去する工事は、東京の地下鉄の経営一元化論者である知事の副知事時代から行なわれていたのだが、それが先月完了し、今日(16日)からは乗り換えの際に改札を通る必要がなくなった。
東京の地下鉄にあまり乗る機会のない人が報道を見聞きし、路線図を見ているだけなら、画期的な大工事のように思えるかもしれないけれども、一元化推進の象徴的な出来事ではあるにしても、実用的にはそれほどのことでもないように思う。

隣接するホームは、新宿線が上り(新宿方面行)、半蔵門線が下り(押上方面行)である。新宿へ向かっていた人が渋谷とは反対方向に折り返せるとしても、九段下から東側は、多少離れているとはいえかなりの部分が並行して走っているから、後戻りしているような状態になる。それに、そのあたりではこれまでもいくつかの駅で乗り換えが出来ていたから、九段下での乗り換えが容易になったしても、それで格段に便利になったとも思われない。
逆に、渋谷方面から来て新宿方面に折り返す場合でも、メリットがあるのは、半蔵門で乗って市ヶ谷・曙橋・新宿三丁目のいずれかの駅で降りる人ぐらいなのではないか。それ以外の駅で乗り降りするなら、単に遠回りしているだけの気がする。
新宿線の新宿方面行に乗っていて半蔵門線で渋谷へ行く人なら、九段下での乗り換えが便利になれば難有いとは思うだろうけれども、この乗り換えの場合、改札を通る必要こそなくなったものの、上り同士のホームは分れているから、階段の昇り降りは必要である。今まで一つ手前の神保町駅で乗り換えていたのが、九段下で乗り換えても良いかと思えるようになった程度の違いである。

むろん、改札を通らずに済むのならそれに越したことはないのは確かである。それに、これまで半分に仕切られていたホームが繋がったことで幅員が拡がった利点は見逃せないだろう。が、それに12億円の工費に見合った価値があるかどうかは何とも言えないところではある。
[ 2013/03/16 21:53 ] 理屈・屁理屈 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

年賀状の作法

一般に、年賀状には印刷だけでなく、近況などを手書きで加えるのが良いとされているようだが、僕の亡恩師はそれに反した独特の考え方を持っていた。
年賀状は自分が生きていることさえ伝われば良いのであって、身の回りのことなどを長々と書き連ねられているのは迷惑だ、一々読まねばならん、というのである。
相手の顔を思い浮かべながら心を籠めて近況を書いていた人からすれば思いの外のことだろうが、恩師の許には、毎年千枚を超える賀状が到来した。多くの人から敬慕されていただけに、詳細な報告の添えられたものの比率も高かったろう。そのご性格からすれば、どんな内容であれ、書かれていることをいい加減に読み飛ばされるようなことはなかったろうから、何百人もの近況報告に貴重な正月休みを割かれる苦痛は、推し量って余りあるところである。
僕はこの話を伺ってから、恩師の考えを牽強して、賀状の添え書きを割愛することにした。

なお、ここに言う「割愛」は、あくまでも本来の用法としてのそれである。くれぐれも誤解のなきよう。
[ 2012/12/31 23:59 ] 理屈・屁理屈 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△

迷言あれこれ

選挙戦中、面白い…と言っては不謹慎の誹りを免れ得ないだろうし、報道されている内容がどこまで正確なものなのかは定かではないけれども、少々気になった発言を書き留めておく。ただしここで「気になる」という基準は、政策的乃至思想的におかしいかどうかとは、関係がない。そういう根本的なことよりも低次の問題として、取り上げるのである。

既成政党の人たちは、これまで積み重ねて来た経験に基づいてか、失言で票を失うようなことがないよう、ことばを選んで慎重に発言している場合が多いようである。むろん、嘗て閣僚まで勤めた「老人」がおかしな発言をしている例もあるし、現役の閣僚でも何かと話題になるようなことを言っている人もいるけれども、失言癖のある「老人」のご子息も、今回は比較的大人しくしているようだし、気になる発言は、やはり経験の浅い新党の人々に多いように見受けられる。だから、取り上げる人や政党に偏りがあるかもしれないけれども、それは偶然の結果で、別に他意があるわけではない。

日本維新の会・石原慎太郎代表
「どうも、暴走老人です。…皆さん、一緒に暴走しましょう」
(4日・大阪市での第一声)

全力で突っ走ると言うのであれば、それはそれで構わないのだが、国民生活を預かる以上は全力で走りながらでもきちんと運転してもらわないと困る。端からは暴走しているように見えても周りはしっかり見えています、というのなら良いのだが、暴走を自認して是認しているようでは話にならない。この人が国政に復帰するのは間違いないだろうから、尚更暴走するのは勘弁してもらえないだろうか。

「橋下さんに惚れた。私は牛若丸に惚れた武蔵坊弁慶だ」(同)

「牛若丸」は上手い喩えだ。流石は元・作家。ひらひらと舞ってくるくると主張を変える、そんな振る舞いを、巧みに言い表わしているようだ。

頑張って、今、日本が力を取り戻さないと、下手をするとどこかの属国、妾みたいになっちゃう。私事(わたくしごと)としてこの国を考えていただきたい」(15日・新宿区での街頭演説)

政治的・思想的に前半部分が気になる人が多いだろうが、今気にするのは後半部分の「私事」ということばである。
僕には違和感のある「私事」の使い方だが、元・作家の発言だけに、そういう用法もあるのかもしれない、「役不足」のように用法が逆転してしまった例もあるから、あるいはそれが本来の用法だということも…と思って『日本国語大辞典』を引いてみたのだが、
(1)表向きでない、個人的な事。公的な立場を離れた一個人としての生活や家族などに関連した事柄。しじ。←→公事(おおやけごと)
(2)秘密の事。隠し事。秘事。
とあるのみ。とすると、「私事としてこの国を考え」るというのは…?

同・橋下徹代表代行
「10年後に原発ゼロとか、甘い言葉にだまされちゃいけない。そんなのは僕が10年後に火星に行くと言っているようなもの。中身がない」
(4日・上記石原党首と同。日本未来の党の「10年以内の卒原発」に対して)

本当に日本に維新を起こしたいのなら、攻撃すべきは民主・自民のはずである。未来の票を奪って維新の得票を増やしたとしても、自民優位の情勢は変わらない。民・自と対抗することを早々に諦めて、3位狙いに切り替えたのか?
それにしても、「10年後に火星」は微妙な喩えだ。10年あれば、行けそうな気もしないではない。ご本人はこの喩えが気に入ったようで、ツイッターでも同じようなことを呟いているらしい。

「もしかすると僕は選挙後に逮捕されるかもしれません。その時は皆さん助けて下さい」(9日・秋葉原での街頭演説。衆院選公示後のツイッター更新に関して)

公選法のネット規制は、それが問題があるからではなく、時代の変化に法律が追い着いて行かれていないだけだろうから、彼が「馬鹿げたルール」「変えなきゃいけない」と言っているのはその通りだと思う。
だが、そのことと、現状の法律を守らなくても良いかどうかとは、本質的に関係がない。そうでないと、彼が大坂で決めた条例を守らない職員がいたとしても、処罰することができないことになる。

「ツイッターくらいで何ですか。ケツの穴が小さい」(12日・福岡市での街頭演説。藤村官房長官が公選法抵触の可能性があると言ったことについて)

公選法に抵触する可能性を自覚しているから、「逮捕されるかも」と言ったのではないのか? 官房長官という立場での発言としては、一般論としてそうコメントせざるを得ないだけで、「ケツの穴」の大きさとは関係がないだろう。

「英語をしゃべれないと国際競争社会では戦えない。私も10年間勉強したけど、しゃべれるのは『Good morning』ぐらい。アメリカに行けば幼稚園児でも英語をしゃべれる。語学に能力は関係ない。政治がやろうとすればできるんです」(9日・銀座での街頭演説)

限りなく支離滅裂だ。アメリカが英語単一語国家かどうかは措くことにするが、アメリカの幼稚園児が英語をしゃべれるのは、言うまでもなく生まれた時から英語の中で生活しているからである。それは、「政治がやろうとす」るかどうかとは、関係がない。政治がやらなくても、生まれたばかりの日本人の赤ん坊を日本語を喋れないアメリカ人家庭に預ければ、数年後にはペラペラになっているはずである。

日本未来の党・飯田哲也代表代行
「私と嘉田さんがしっかりとやっている、小沢さんの言いなりではなくやっている、という表われだ」
(5日・山口市での街頭演説。比例代表名簿の届け出の混乱について)

党重役が、選挙戦開始直後に党内の対立を暴露するようなことを口にするのは驚きだ。選挙の間くらい、一致団結していられないで勝てるわけがない。もし勝ったとしても、先が思い遣られる。
「小沢さんの言いなりではな」いのは結構なことだが、言いなりでないと混乱してしまうような党に日本の将来を任せて良いものか?

同・嘉田由紀子代表
「がっくりした。私の思いがまだまだ伝わっていない」
(6日・船橋市での街頭演説。報道各社の調査で支持が伸び悩んでいる情勢について)

一党の党首ともあろうものが、「がっくりした」なんていう感想を述べてどうする! 述べるにしても、せめて選挙後にしてはどうか。野田首相が「最後まで火の玉になって訴えて行く」と言ったのとは大きな違いだ。もっとも、「火の玉」になったら最後には燃え尽きてしまうとは思うが…。
「私の思いがまだまだ伝わっていない」というのも、政治家の不作為に失望している一般市民の感想のようである。「私の」という一人称単数もどんなものだろう?

「原発ゼロを選ぶ選ばないの問題ではなく、やめるしかない」(12日・岐阜駅前での街頭演説)

国語として意味が判らん。「やめる」のは「選ぶ」ことなんじゃないのか?

同・小沢一郎前衆院議員
「自分の信念として脱原発はやればできる。脱原発を主張する人が国会で多数を占めなければどうすることもできない」
(14日・国会周辺での反原発デモで)

政治家が自分の信念に基づいて行動するのは重要だ。むろん、信念も十人十色、人それぞれだろうが、その様々な信念を国会の場でぶつけ合って欲しいものである。そうであって初めて、健全な政治だと言えるだろう。
もっとも、この人にこんな信念があったことは、今の今まで知らなかった。選挙戦中、ほとんど動静の伝えられることのなかったこの人が、苦戦を報じられるこの時期に、突如こういう場に出て来てこういう発言をするというのも…。

民主党・藤村修官房長官
「要は北朝鮮のミサイルがいつ上がるかだ。さっさと月曜日(10日)に上げてくれるといいんですが」
(7日・吹田市で。記者団に再度大阪入りする可能性を問われて)

この発言を取り上げて攻勢を掛けて選挙に利そうとするのは、揚げ足取りとは言えようが、ただでさえ民主党への支持が低迷しているのに、このタイミング・この内容の発言には、かなりのやっちまった感がある。

同・田中真紀子文科相
「民主党政権はまだ3年。桃栗3年柿8年」
(8日・長岡市での街頭演説)

民主党が政権政党として成熟するにはあと5年我慢して待て、ということか…?

自由民主党・安倍晋三党首
「日銀と政策協定(アコード)を結び、大胆な金融緩和を行う」
(15日・船橋市での街頭演説)

上は新聞記事をそのままの形で引用したものだが、これはダメだ。演説では単に、「日銀とアコードを結び」と言ったのだろうが、それをそのまま写しただけでは読者が理解できないと判断して、「政策協定」という注釈的漢字表記が補われているわけである。同様に、船橋の聴衆が、注釈なしの「アコード」という音声だけで意味を理解できたとは思えない。「アコード」を「政策協定」の意味で理解ができるのは、上記の「政策協定(アコード)」という文字表記であることが前提である。聴衆が理解できないようなことばで政策を訴えるのは如何なものか。
そういえば、同氏の標榜する「戦後レジームからの脱却」の「レジーム」にも、かなり長いこと「(体制)」という注が付けられていた。
[ 2012/12/16 20:00 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△