"DIRT FARMER"

今日のBGM。

LEVON HELM "DIRT FARMER"
  ~リヴォン・ヘルム『ダート・ファーマー』~

Dirt Farmer

ここのところしばらくドアーズに嵌っていて、そればかり聴いていたのだが、さすがにへヴィー過ぎて少々疲れて来た。
それなら何にも聴かなけりゃ良いのに、というところだが、そうもできない身体(耳?)になっているので、少し落ち着けるものを選んで聴いてみた。

リヴォン・ヘルム、御年67歳(発売時)。喉頭癌を克服して復活。若い頃のような声は望むべくもないが、枯れた味わいのある歌声を披露している。
寂しく切ないFalse Hearted Lover Blues に始まり、一転、ほのぼのとしたPoor Old Dirt Farmer へ、ラストの心に沁み入るWide River To Cross まで、郷愁に満ち溢れた、年輪を感じさせる名盤。
[ 2010/11/29 21:43 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

『新明解国語辞典』のことなど

ここのところ辞典についてのエントリをいくつか書いている。

辞典について書かれたものとして外せないのが、赤瀬川源平の『新解さんの謎』である。前にもちらっと書いたが、その方向性をかならずしも諒とするものではないのだが、辞典の魅力をある方向から照らしているものであることは確かである。

その『新解さん…』には、『新明解国語辞典』の各版を見比べているところが少なからずあるが、すべてにおいて徹底しているわけではない。僕はどうしても、各版の違いに目が行ってしまうので、『新解さん…』に引用されている箇所を、自分の持っている初版及び第3版と比べてみて、気になったところを少々。

やはり気になる「おいしい、うまい、美味コーナー」より。

白桃

〔「黄桃」と違って〕実の肉が白い桃。果汁が多く、おいしい。

この「おいしい」は、少なくとも第3版まではない。第3版には、

〔黄桃に対して〕実の肉が白い桃。水蜜桃。

とある。
「おいしい」が加わっているのも惹かれるところであるのは間違いないのだが、僕にはむしろ、旧版にあった「水蜜桃」がどうなってしまったかの方が気になる。
そこで、「水蜜桃」を引くと、

水けが多くて甘味の強いモモ。実は先が平たくて、白いものが多い。

とある(初版)。
これを見ると、どうも、「白桃=水蜜桃」とは言えなそうだ。「白桃<水蜜桃」というような感じか。それで、「白桃」の項目から水蜜桃を削除したのだろうか。
なお、『日本国語大辞典』には、花の白い桃という意味も載っているが、用例が『日葡辞書』だから、現代語にはない用法なのかもしれない。

あこう鯛

〔赤魚の意〕タイに似た深海魚。顔はいかついが、うまい。

やはり、「うまい」であるが、もっと気になる問題がある。
第3版には、

〔赤魚の意〕タイに似た深海魚。顔は赤鬼のようだが、うまい。

とある。「赤鬼のようだ」を「いかつい」に直しているわけである。
赤鬼とは似ていないと思い直したのか、あるいは「赤鬼のよう」では説明になっていないと思ったのかは判らないが、「いかつい」なら説明になっているかは微妙なところである。
なお、第6版を立ち読みしたところ、「顔はいかついが、味はよい」に変わっていた。ほかに「うまい」が残っている箇所はあるのに、何故ここを「味はよい」に変えたのだろうか。

なお、『旺文社国語辞典』にはこうある。

フサカサゴ科の深海魚。たいに似て赤く、口が大きい。食用。

そう、この「食用」という端的な説明が、普通の辞書のあり方である…などと思いながら、『日本国語大辞典』の「あこう」(=あこうだい)の項を見たら、次のようにあった。

カサゴ科の深海魚。(中略)冬季に美味で、塩焼き、煮つけにする。

味や調理法に言及するのは、かならずしも『新明解国語辞典』の専売特許ではないらしい。

回文

先日、夜帰宅すると、子供がテレビのクイズ番組を見ていた。
食事をしながら見るともなしに見ていたのだが、「『竹藪焼けた』のように上から読んでも下から読んでも同じことばを何という?」という問題に、解答者が「雅子様」と答えていた。
たしかに「まさこさま」は上から読んでも下から読んでも同じだが、当然ながらそれは答えではない。

そんなわけで、こんなのはどうだ?

 しがないながし(しがない流し)
 しにたいたにし(死にたい田螺)
 このにわにわにのこ(この庭に鰐の子)
 ねつきいいきつね(寝付き良い狐)
 いえるすにするえい(家留守にするエイ)
 いなかいかない(田舎行かない)
 むっつとまとつつむ(六つトマト包む)
 うかつにあにつかう(迂闊に兄使う)
 くらたはたらく(倉田働く)
 すがのみすみすみのがす(菅野みすみす見逃す)

これではあまりにもオソマツなので、回文の歴史的名作をひとつ。

 ながきよの とをのねぶりの みなめざめ なみのりふねの をとのよきかな
 (長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良き哉)

宝船を詠んだもので、時節柄年賀状にも使えるネタである。

鳩森八幡神社

昔撮った狛犬。

鳩森八幡神社(渋谷区千駄ヶ谷)、享保20年(1735)製。
これは最近も撮ったのだが、天気のせいもあってどうにも乾いた感じに写ってしまってイマイチだったので、昔撮ったものを出してみた。

鳩森八幡神社 鳩森八幡神社
               (Leica IIIf + Summitar5cm F2)
[ 2010/11/26 14:41 ] 狛犬 東京/渋谷 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

この邦題はどうなのか?

先日、『英吉利の薔薇』について、「この邦題はどうなのか?」と書いて、ちょっと思いついたので書いてみる。

最近ではほとんど見られないけれども、かなり以前には、洋楽のアルバムに超訳した邦題が付けられていることが多かった。
古いところでは、ザ・ビートルズの"A Hard Day's Night"が『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』だというのも相当なトンデモ邦題だと思うし、曲名でも、シンディ・ローパーの Girls Just Want To Have Fun の邦題「ハイスクールはダンステリア」など、どこからそういう突拍子もない発想が出て来るのか、かなり驚きである(さすがにこれは、本人が知って激怒したらしい)。

今では、邦楽のタイトルも横文字の方が多いくらいで、英題に違和感や距離感を感じる人もいなかろうけれども、当時は、日本人にも覚えやすく親しみやすい邦題を付けるのに苦心していたわけである。名題・迷題の数多く生まれた所以である。

そこで、僕の持っているアルバムの中から、この邦題はどうなのか? と思うものをいくつか紹介する。むろん、ほかにも有名なトンデモ邦題のアルバムは数多あるが、タイトルが変なだけではなく、僕が個人的に聴くに値すると思うものを取り上げることにする。

エドガー・ウィンター・グループ『謎の発光物体』
  ~The Edgar Winter Group With Rick Derringer "The Edgar Winter Group With Rick Derringer"~

Edgar Winter Group With Rick Derringer (Reis)
エドガー・ウィンターの最高傑作と評判の高いアルバム(個人的には"They Only Come Out at Night"の方が好きではあるが)。しかし、その邦題はどうなのか?
たしかに、ジャケットは発光している謎の物体である。原題がアーティスト名だけで、キャッチーではないということもある。ジャケットの写真を最初に見た日本のレコード会社の担当者が、「何だ、この光っている物体は?」と思ったのに違いない。が、だからと言って、その印象をそのままタイトルにするのはいかがなものか。

ジョニー・ウィンター『俺は天才ギタリスト!』
  ~Johnny Winter "John Dawson Winter III"~

俺は天才ギタリスト!
エドガーの兄、ジョニーのアルバム。自分のことを「天才」と言うか? という感はあるが、ジョニーが天才ギタリストなのは間違いないし、ロッド・スチュワートの『スーパースターはブロンドがお好き』のようなノリだとも考えられないわけではない。だが、実際には少々事情が違う。
『スーパースター~』の原題は"Blondes Have More Fun"。少々悪ノリ気味ではあるものの、ロッド自身がブロンド好きを自認しているのだし、方向性としてそう外れているわけでもない。
それに対して、このアルバムの原題は "John Dawson Winter III"。ジョニーの本名が付けられているだけである。
こんなタイトルのままでは売れないだろうという判断はあったのだろうが、それにしても、である。
なお、ジョニーにはほかに、『テキサス・ロックンロール』という邦題を持つアルバムがあるが、この原題は "Saints and Sinners"(聖者と罪人)。

ブラインド・フェイス『スーパー・ジャイアンツ』
  ~Blind Faith "Blind Faith"~

スーパー・ジャイアンツ・ブラインド・フェイス
邦題だけ見ると、そんなに変な感じはしない。するかもしれないけれど…。
輸入盤を買ったのだが、家に帰って見てみたら、どこにも「Super Giants」とは書いていない。さては、同じデザインのジャケットの別アルバムを間違えて買ったかと思った。編集版にジャケット写真を使いまわすのは、それほど珍しいことではない。
が、曲名を見てみると、どうやら、お目当ての『スーパー・ジャイアンツ』に違いない。あれこれと調べてみたら、『スーパー・ジャイアンツ』なんていうアルバム名、もともと原盤には付いていなかった。
メンバーはたしかにスーパーなジャイアンツかもしれないが、それはタイトルとしてどうなのか?

クリーム『クリームの素晴らしき世界』
  ~CREAM "WHEELS OF FIRE"~

クリームの素晴らしき世界
クラプトン繋がり。
直訳すれば、「火の車」という所だろうが、似ても似つかない邦題である。ホワイト・ブルーズの白眉とも言えるこのアルバムに、一体何でこんなほのぼのとした邦題を付けてしまったんだろうか? まさかそんなことはあるまいが、聴かずに付けたんじゃないかと疑いたくもなる。

フェイセズ『馬の耳に念仏』
  ~Faces "A nod is as good as a wink ...to a blind horse"~

馬の耳に念仏<SHM-CD>
原題は「盲馬にはうなずいてもウィンクしても同じこと(=無駄だ)」というような意味だから、まぁ、間違ってはいない。が、痛快なロックン・ロールのアルバムのタイトルとしてはどうなのか? もっとも、この英語のニュアンスがどんな感じなのかを知らないので何とも言えないのだが…。

クイーン『戦慄の王女』
  ~Queen ”Queen”~

戦慄の王女
単なる直訳だと坐りが悪いので、ちょっと付けちゃったんだろうな。何に戦慄したのかは良く判らないけれど。
でも、ただの『クイーン』なんていう地味なタイトルだったら、本国より先に日本で火が付くようなこともなかったかもしれない。

…と、勝手なことを書いて来たが、とにもかくにも聴くべし。
[ 2010/11/25 21:36 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

辞典の話(続々)

辞典の話(続)」の続き。
何種類もの辞書を手許に置いてある理由の第二。

赤瀬川源平の『新解さんの謎』を読んで、辞典が版によって進化することを知っている人もいるだろう。そういう人でも、それは『新明解国語辞典』だけの特殊事情だと思っているかもしれない。が、(すべての辞典が、とは言わないが)辞典というのは、進化するものなのである。

前回、「ものぐるほし」の意味として、『例解古語辞典 第2版』を引いた。「要説」を改めて引用する。

多く軽い嘲笑を含めて用いられる。気違いじみていると解釈するのは、動詞「くるふ」の意味と直結して考えるための誤りで、実際の用法に合わない。


もう一例、「ひくらし」という語を上げる。これも、徒然草の冒頭「徒然なるままに日暮し…」にある語である。多くの場合、「ひぐらし」と濁って訓まれるが、この辞典では清音で訓む。
「<連語>日暮れどきまでずっと」と注した後の「要説」。

一日中という意味の副詞とみなすのが普通の解釈だが、たいてい「日(ヲ)暮らし(テ)」という意味で用いられている。

参考までに、『岩波古語辞典』を見ると、「ひぐらし」と濁って訓んで、「朝から夕暮までの一日中」とする。この2例を見るだけでも、この辞典が他のものと違うことがわかる。

もちろん、他と違うから良い、と簡単に言えるわけではない。
「日暮し」について言えば、『岩波古語辞典』は、『日葡辞書』に「Figurasi」とあることを根拠に濁音で訓んでいるわけで、これを一概に誤りと決めつけることはできない。

今、これらの例を上げたのは、辞典が版によって進化することを示したかったからである。
『例解古語辞典』の初版を見ると、

 ものぐるほし…気違いじみている。ばかばかしい。
 ひくらし…<副>一日中。朝から晩まで。終日。

と、他の辞典とほとんど違いのない説明が載っている。「ひくらし」に関しては、「要説」に、「『日(ヲ)暮らし』と分析できる場合もあり、『一日中』という意味の確実な用例は多くない」と、第2版の萌芽のような説明もある。これが、第2版になって、明確に進化したのである。

同じようなことをくり返すことになるが、進化しているから正しい、とは言い切れない。が、ひとつの語に対して違う解釈がされていれば、どちらかが間違いであるか、あるいは、どちらもが間違いであるか、疑問を持つきっかけになる。同じことしか書かれていなければ、疑問もなく信じ込んでしまうだけである。
これが、僕が同じ辞典の版違いを持っている理由である。

なお、これらの語の解釈についてもっと詳しいことが知りたい方は、小松英雄著『徒然草抜書 表現解析の方法』を参照のこと。

ところで、この『例解古語辞典』には、僕が学生時代、「高校の先生が自分では使っているが生徒には奨めない辞典だ」というまことしやかな噂があった。生徒に教えてしまうと、ネタバレしてしまうから、ということなのだが、本当にそうだったのかどうかは判らない。
『岩波古語辞典』も学校ではあまり奨めないが、こちらは用言が連用形で立項されていて引きにくい、というのが理由である。高校の時の国語科の教師が、「お前らには使いこなせないから奨めないが俺は使ってるぜ!」的な嫌味を言っていた記憶がある。実際に使ってみると、慣れてしまえばどうということもないのだが…。

東京スカイツリー + 東武鉄道

最近のスカイツリー。

つい先日、自転車に乗って墨田区吾妻橋と向島の境い目、源森橋を通り掛かると、少なからぬ人がスカイツリーにカメラを向けていた。
折角だから僕も撮って行こうかと思った矢先、ちょうど東武線が通り掛かったのでシャッターを切った。
もっと雲のない日に、時間を調べてスペーシアやりょうもうを前景にすれば、もっとサマになる写真が撮れるだろう。

東京スカイツリー&東武伊勢崎線/源森橋
           (SIGMA DP1s)
もっとも、スカイツリー以前の東武鉄道は、何となくどんより暗いイメージが強かったから、これはこれでサマになっているといえないこともない。

柳腰外交

辞典繋がりの余談。

現政権が舌禍続きで、とうとう閣僚の辞任にまで発展した。
それはそれとして、舌禍の元祖の官房長官が発した「柳腰外交」ということばは、もはや市民権を得ているようである。しなやかでしたたかな外交、ということらしいのだが、このことば、どうにも違和感がある。

自民党の某議員が「柳腰」発言を舌鋒鋭く批判したらしいが、それにしても、このことばは元々女性を表現するものだから政治にはそぐわない、という趣旨だったようである。もっとも、新聞の記事で見ただけで、発言全体を理解しているわけではないが。
「柳腰外交」を批判するマスコミも、すくなくとも僕の受ける印象では、現政権の外交政策が「しなやかでしたたか」な「柳腰外交」ではなく、ただの「弱腰外交」だ、という点で批判しているように思われる。「柳腰=したたか」であること自体には、疑義を呈してはいないようだ。つまり、どう見ても「弱腰」なのに、それを「柳腰」と称して誤魔化している、ということが批判されているのである。

さて、「柳腰」ということばは、辞典にはどのように書かれているか。家にはないものも含めていくつか上げてみる。

古いところで。

『大言海』…「婦人ノ腰ノ細ソキヲ云フ語。ホソゴシ。蜂腰」

「蜂腰(ほうよう)」は、「蜂のようにくびれた腰」(『日本国語大辞典』)だから、「柳腰」とはちょっと違うような気もするが、それ以外の部分については、ほぼ、現行の多くの辞書に引き継がれるところである。

『広辞苑 第6版』…「細くてしなやかな腰つき。美人の腰の形容」
『新明解国語辞典』…「〔女性の〕しなやかな腰つき」
『旺文社国語辞典』…「しなやかな細い腰。美人の腰の形容」
『改訂新潮国語辞典』…「細いしなやかな腰。美人の姿の形容」
『日本語大辞典』…「女の細くしなやかな腰つき。美人の腰の形容」


「女性の」と限定していないものもあるが、「美人の腰(姿)の形容」としているから、女性についての表現であるのには違いない。

『岩波国語辞典 第6版』…「シダレヤナギを思わせる、すんなりした細い腰つき。美人の腰の形容」

「シダレヤナギ」に限定する根拠は良く判らないが、それ以外については大きく変わるものではない。

『日本国語大辞典 第2版』…「女性の細いしなやかな腰。また、腰細の美人。やなぎの腰。やなぎ」

引用されている用例。

  「町の幅さへ細々の柳腰・やなぎがみ」(女殺油地獄)
  「ほっそりすうわり柳腰といふじゃあねへか」(浮世風呂)

これだけの引用では即断できないが、やはり「細い」というところに眼目があるようである。

当然、古語辞典でも同じようである。

『岩波古語辞典』…「細くてしなやかな腰付」

漢語に由来する言葉らしいので、念のために漢和辞典を引いてみる。

『大漢和辞典』…「やなぎごし。美人の喩。細腰。繊腰」

辞典に書いてあることだけで結論づけては本当はいけないのだが、これを見る限りでは、「柳腰」は、いわば「スレンダーな美女」を表わすことばのようである。「柳腰」には、「しなやか」という姿態を表わす意味があるとしても、「したたか」という性格を規定するような意味合いはなさそうである。

だとすれば、「柳腰外交」では、女らしい科を作る外交、ということになってしまって、けっして強い態度で交渉するような雰囲気はない。「弱腰外交」と言うのと、さしたる違いはないことになるのではないか。
「したたか」な外交を、どうしても腰にこだわって名付けたいのなら、「二枚腰外交」(=相手に押されても簡単には屈しない粘り強い外交)とでもしたらいかがか。
いや、そんな命名をしたら、野党から「二枚舌外交だ!」と追及されるのは目に見えているか。

(余談)
本当は、辞任に至る前にさらっと書こうと思っていたのだが、思ったより早くそういう事態になってしまった。書くのが1日遅れた、という感じである。

辞典の話(続)

辞典の話」の続き。

違う理由は、いくつかある。
第一に、辞典にはかならずしも正しいことが書かれているとは限らない。
前回、「ものぐるほし」と書いた、その語を例に取る。

 『岩波古語辞典』…「物に憑かれて気が違ったようである。狂気じみている」
 『角川新版古語辞典』…「気が変になりそうだ。気違いじみている」

『岩波古語』の方が表現がより強烈だが、どちらも似たようなことが書いてある。そら見たことか、どの辞典を見ても、大した違いはない。

が、次に『例解古語辞典 第2版』を引く。
「ばかげている。ばかばかしい」とあり、さらに、「要説」として、

多く軽い嘲笑を含めて用いられる。気違いじみていると解釈するのは、動詞「くるふ」の意味と直結して考えるための誤りで、実際の用法に合わない。

とあるのである。

有名な『徒然草』の冒頭、「徒然なるままに日暮し、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそものぐるほしけれ」を習った時、「よしなしごと(=たわいもないこと)」を書くのがどうして「気違いじみている」ことになるのか、良く理解できなかった人はいないだろうか。それに、「そこはかとなく(=とりとめもなく)」書き付けると、何で「物に憑かれて気が違った」ことになるのだろうか。
そういうことを考えると、『例解古語』の説明の方が良さそうに思える。

あぁそうなのか、『岩波古語』や『角川古語』は間違っているんだな、だったらそんなもの、捨ててしまったら良かろう、そもそも、そんな欠陥商品を出している出版社には、苦情を申し立てなければ…。

いや、そういうものではないのである。
赤瀬川源平の『新解さんの謎』の中に、「新解さん」(『新明解国語辞典』のこと)を分析した単行本に対して、「ただ間違いを指摘しただけの本で、ぜんぜんつまらない」と評している部分があった。
僕はその「単行本」を読んだこともないし、『新解さん…』の方向性をかならずしも諒とするわけではないが、『新解さん…』の言う通り、辞典の記述のアラ探しを指摘したところで、さしたる意味はない。むしろ、絶対に正しいことが書かれているはず、という前提で辞典に向かうこと自体が、間違っているのである。

算数の参考書なら、正解が書かれていなければ間違いである。が、実はそんなに単純に割り切れるものは、世の中には多くない。
ことばは生き物だから、固定した意味があるわけではない。「ことば」という現象を、実態に即して解釈して解説したのが国語辞典や古語辞典である。だから、解釈する人によって、違いが出るのは当然である。それらの正誤を判定する絶対的な基準はない。

もっともこれは、ことばの解釈に限ったことではない。現代の教科書に、天動説が書かれていたら大問題だろうが、15世紀の科学書であれば、地動説が説かれていることの方が誤りである。科学は、進歩するのである。
ことばの解釈も、科学だから、先の「ものぐるほし」にしても、『例解古語』の方が良さそうだとは書いたが、それが絶対的な正解かどうかは判らない。辞典の記述はあくまでも参考で、文脈により適当な解釈を、自分で考えなければ意味がない。
だから、そのための参考書(=辞典)は、いくつもあるに越したことはないのである。

(気が向いたら)まだ続く。

今日の不忍池

まだ、それほど来てはいなかった。

不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120不忍池20101120
(Canon EOS20D + EF70-200mm F4L USM)

そのうち、また。
[ 2010/11/20 17:23 ] 自然・季節 生き物 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△