稲荷鬼王神社

今年最後の狛犬。

稲荷鬼王神社(新宿区歌舞伎町)。
明治35年(1902)製。

阿吽ともに子獅子がいる。吽行の子獅子は球を咥え、阿行の子獅子は親獅子の髭を咥えている。

稲荷鬼王神社 稲荷鬼王神社
稲荷鬼王神社 稲荷鬼王神社 稲荷鬼王神社 稲荷鬼王神社

この神社にはもう1対、招魂社系がいるのだが、正月の準備で看板やら何やらにすっかり囲まれてしまっていて、写真を撮ることができなかった。
この神社、「鬼王」神社だけに、節分の際は、「福は内、鬼は内」と唱えるのだそうである。何とも目出度い。

それでは、良いお年を。
[ 2010/12/31 09:09 ] 狛犬 東京/新宿 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

間の美、あるいはクラシック「通」についての雑感

先日、あるクラシックのコンサート(室内楽)を聴きに行った。
クラシックにはまるで造詣が深くないので、そのコンサートの演奏について云々するつもりはない。ここで語りたいのは、聴き方についてである。

クラシックのコンサートの聴き方には、作法があるようである。演奏が1曲終わるごとに拍手をする。そのこと自体はROCKだろうが童謡だろうが当たり前なのだが、クラシックのコンサートに限って言えば、これがなかなかに難しい。
何故なら、演奏曲を熟知していないと、どこで終わりなのかが判りにくいからである。終わりなのかと思うと、少しの間を置いて引き続き次のフレーズが演奏されることもある。それに、ROCKならのべつ幕なしに手を叩いたり叫んだりしているから、多少外したところで何ということはない。が、クラシックのコンサートの演奏中の客席は、基本的には静寂が支配している。そんな中、迂闊に手を叩くことなどできない。

だから、演奏が終了した後即座に拍手をするようなことは、余程の「通」でなければ、できない技である。言い換えれば、演奏終了後に能う限り速やかに拍手をすることが、「通」の証しだということである。オーケストラで全曲演奏終了後に「ブラボー!」と叫ぶのも同じである。如何に演奏に被らず、しかも迅速に行動を起こすか、が勝負なのである。
今回のコンサートでも、曲終了後0コンマ0何秒かのタイミングで手を叩く「通」な方が、少なからずいた。よくぞそこまで自信を持って手を叩けるものだと、感心すること頻りである。到底真似のできることではない。

が、一方で、そういう行為は「通」なのかもしれないが、「粋」ではないとも思うのである。
まったく別の例で恐縮だが、20年以上も前、中村雀右衛門の『京鹿子娘道成寺』を見ていて、ふと気付くと息苦しくなっていたことがある。あまりの素晴らしさに、比喩ではなく現実に息をするのも忘れていたから、というウソのようなホントの話なのだが、定式幕が閉まり切って、割れんばかりの拍手を耳にしてから、ようやく我に返って拍手をすることができた。それだけ雀右衛門の演技に魅入っていて、違う世界に行っていたわけである。

だから僕は、クラシックの演奏においても、本当にその演奏に感動して曲の世界に入ってしまっているのなら、曲が終わったからといって、そんなに早く立ち直って拍手をすることは、できないはずだと思うのである。それができるのは、曲が終わる少し前から拍手をするタイミングを虎視耽々と待ち構えているからなのではないか。
クラシックに造詣の深い方は、僕のような凡人とはまったく違った感覚の持ち主なのかもしれないけれども、それにしても、「間」の美というものがあるはずである。「間」などというのは「和」の感覚だからクラシックとは相容れない、とも言えるかもしれないけれども、だったら「余韻」という言い方に換えても良い。

演者にしても、最後の音を出し終わって、瞬時に気分が切り替わるということはよもあるまい。多少は余韻に浸っているはずである。だから、演者が立ち上がって客席に向かって礼をする時点で初めて手を叩いてもけっして遅くないと思うのだが、それではどうしても満足出来ないのだとしても、せめて楽器から完全に手を離して通常の姿勢に戻るまでくらいは待ったらどうなのだろう。僕は、そこまでが、演奏の内なのではないかと思う。

早すぎる拍手は演奏中の雑音と選ぶところがない、とまでは言わないけれども、僕にはそういうクラシックの作法が、どうにも腑に落ちないのである。

クラシック音痴のたわ言と思わば思え。


<贅言>
平安朝の貴族は、絶望のどん底にあっても、技巧溢れる美しい和歌を詠むことができた。技巧的だからといって、それが魂の叫びではないと言うことはできない。彼らはそれを当たり前のこととする世界の中で育ったので、魂の叫びを技巧的に表現することができただけのことである。
残念ながら、現代の小市民として生活する僕のような凡俗には、それを理解することはできても、感覚として共有することができない。
(中略)ともあれ、ここに書いたクラシック通の作法は、残念ながら僕には共有できない。(後略)
[ 2010/12/30 23:30 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

"Liege & Lief"

今日の BGM。

Fairport Convention "Liege & Lief"
  ~フェアポート・コンベンション『リージ・アンド・リーフ』~


リージ・アンド・リーフ+2

1曲1曲を取り出してみると、先日紹介した前作 "UNHALFBRICKING"~『アンハーフブリッキング』~の方に印象的な曲が多いようにも感じるけれども、アルバムトータルとしてはこちらの方が僕個人的には好みである。
全8曲のうちの5曲がトラディショナル・ナンバー。トラディショナルは、前作にも大作 A Sailor'sLife船乗りの生涯 ~が収められていたが、本作ではトラディショナル色が一層濃くなっている。
前作と本作を比べてみて、「どちらも良い」が結論なのだが、こちらはよりじっくりと聴きたいアルバムである。
[ 2010/12/29 22:22 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

とうきょうスカイツリー

これまで、東京スカイツリーに関する記事をいくつか書いて来た。
それほど熱狂しているわけではないのだが、地元に立つ建築物ではあるし、できあがってしまったらそれまでのこと、建築中の状態は今しかないので、それなりに気にして見ているわけである。(スカイツリー関連の検索からこのブログに辿り着く方が少なからずいるようなので、そういう打算もあるにはあるが。)

が、今日目にしたこのニュースは少々情けない。

とうきょうスカイツリー駅に~NHKニュース~

東京・墨田区で建設が進む東京スカイツリーの最寄り駅、東武伊勢崎線の「業平橋」の駅名が再来年春の開業に合わせて「とうきょうスカイツリー」に変更されることになりました。


もともと何もないところに建ったのならともかく、「業平」という由緒ある名前を背負った駅名である。それを安易に外してしまうのはいかがなものか。都営三田線の御成門駅や京王線の飛田給駅のように、「業平橋(東京スカイツリー前)」というような駅名の選択肢はなかったものか。
しかも、何故「とうきょう」という表記でなければならないのか。「東京」なんて、子供でも読めるし、日本にやって来る外人さんにだって、漢字の方がかえって直感的に判りやすいだろうと思う。
だいたい、そんなに判りやすくしなかったとしても、東武線の車窓から見れば、スカイツリーに行くにはこの駅で降りるべきことぐらい、一目瞭然である。
さらに、本所界隈からバスに乗る時、東京駅とは反対に向かうのに「とうきょう~」行き、というのも許せん! …というのはヘリクツだが。
何でも古いものが素晴らしい、というわけではないが、由緒ある地名や駅名を簡単に棄ててしまうのは、独善的な暴挙であると思う。

ところで、記事にはほかに、「東武鉄道では、周辺地域を『東京スカイツリータウン』と名付けて再開発し…」ともある。が、そうなったら、「おしなり君」の立場は一体どうなるのか?
[ 2010/12/28 22:22 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

大横川親水公園

先週、息子(年長)のリクエストで、大横川親水公園に遊びに出掛けた。
第一の目的は、業平橋にある長いローラー滑り台なのだが、まず、途中の横川橋付近の遊具のあるところで引っ掛かる。
ここにもけっこう長いローラー滑り台がある。ただし、角度が緩いので、あまりスピードは出ない。

ローラー滑り台(1)

業平橋もほど近いところに位置しているので、向きを変えるとこんな風景が…。

ローラー滑り台&東京スカイツリー

70mm(112mm相当)程度のレンズで、こんなふうに撮れる。

この辺りには、こんな飛び石もある。もっと小さい石で渡るようになっているところもあるのだが、この時期、万一水に落ちるとキビシイので遊ぶのはこちらのみ。

飛び石

年少になるかならないか女の子を連れたパパさんが、「○○ちゃん、気を付けてね。濡れちゃうと怒られるのは○○ちゃんじゃなくてパパだからね…」と言っていたのは、何だか切実だった。

しばらく遊んでからお目当てのローラー滑り台へ。

公園管理事務所

左下に見える船の形をした建物が公園管理事務所で、その前に見える螺旋階段が、ローラー滑り台の昇り口である。
ここは最早東京スカイツリーの足下なので、こんなふうである。

東京スカイツリー 東京スカイツリー

カメラを向けている人が非常に多かったのは、時節柄、年賀状の素材にするためなのかもしれない。僕はしないけど。

(Panasonic LUMIX DMC-LX3/Canon EOS20D + EF-S17-85mm F4-5.6IS USM)
[ 2010/12/27 22:50 ] 旅・散策 公園 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

銚子

やた管ブログ銚子のエントリに対抗して、銚子の写真をアップする。

まずは、銚子電鉄。2008年3月に行った時の写真。左側の車両は残念ながら今は通常運行を終了しているが、僕の中で銚子電鉄と言えばこれである。

銚子電鉄デハ801 銚子電鉄デハ1002

続いて外川駅。

外川駅

犬吠埼灯台。ここは中に入って上まで登れるが、かなり狭くて急で恐い。

犬吠埼灯台

君ヶ浜から見たところ。

犬吠埼灯台

(Canon EOS20D + EF17-40mm F4L USM/PENTAX OPTIO W10)
[ 2010/12/26 11:18 ] 旅・散策 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

腕白・験の証拠 etc.…

知っている人には常識でも、知らない人にはかなり意外で、目から鱗が落ちるようなことがある。
『新明解国語辞典』(初版)をパラパラとめくっていて知った諸々のこと。

腕白

〔ワンマンの意味の「関白」に基づくという。ワンは「関」の一音〕子供が、わがままを言ったりいたずらをしたりして手に負えない様子。また、そういう子供。

単純に、知らなかった。確かに、「関」の漢音には「ワン」がある。言われてみれば、腕が白いのといたずらっ子なのとは連関がない。

げんのしょうこ

〔現・(験)の証拠、つまり、飲むとすぐ薬効がある意〕カタバミに似た多年草。茎は地上をはい、夏秋の頃、白・(紅紫)色の花を開く。下痢止め剤。〔フウロソウ科〕

カタカナでしか見たことがなかった。こんな即物的な由来の命名だったとは…。

ヘドロ

〔反吐と泥の混合語という〕未処理の下水や工場からの廃液・廃棄物が海岸に集まって、ドロドロに固まったもの。〔外来語のように受け取られ、普通カタカナで書かれる〕

ものの見事に「外来語のように受け取」っていた。ただし、この語源説は、『日本国語大辞典』には載っていない。
念のため、と思い、『新明解』の第3版を見てみたところ、

〔東北地方の方言「ひどろ《溝(ドブ)や、青色に濁った水たまり》」と同原〕海・川・沼・湖の底にたまっている泥。〔狭義では、未処理の下水や工場からの廃液・廃棄物が海岸に集まって、ドロドロに固まったものを指す〕〔外来語のように受け取られ、「ヘドロ」と書かれることが多い〕

と、語源説の部分がまったく変わっていた。
「東北地方の方言『ひどろ』と同原」とあるが、その共通の語源は一体何なのか? と思って第6版を立ち読みしたところ、「もと、神奈川・名古屋・奈良方言」という一文が付け加えられていた。「へどろ」も「ひどろ」と同じく方言だ、ということなのだろう。
そのほか、『広辞苑』など、中型のものも含め数種類の国語辞典を見てみたのだが、目にした限りでは「方言とも職業用語とも」というようなことが書いてあるものが1種類のみ。それ以外は語源には触れられていない。要するに、良く判らないということである。そんな中、『新明解』のこのこだわりは何なのか?
なお、『日本国語大辞典』にも、「方言」として、上記の3地域が載せられていた。

大盤振舞

〔正しくは埦飯(ワウバン)振舞。昔、正月初めに親類を呼んで宴会を催したこと〕盛んなもてなし。

「埦(椀)飯」(※注)は飯を盛った椀や、殿上での公卿の供膳のことで、平安朝の文献にも用例がある。
(※注)環境によっては文字化けしているかもしれないが、「(椀)飯」の前の文字は「椀」の木偏を土偏にしたもの。
今は「おおばんぶるまい」だが、もともとは、「おうばんぶるまい」だったわけである。

メモみたようなものである。省察はない。

"Christmas In The Heart"

今日のBGM。

BOB DYLAN "Christmas In The Heart"
  ~ボブ・ディラン『クリスマス・イン・ザ・ハート』~

クリスマス・イン・ザ・ハート

世にクリスマスソング、クリスマスアルバムは多いが、御大に敬意を表して、これにする。

去年発売が発表されるや、「クリスマスの夜にこれを聴かせたら子供が泣き出す」と噂されたアルバム。
定番のクリスマスソング満載だが、あの声であの歌い方である。本当に子供が泣き出したとしても不思議ではない。クリスマスの雰囲気を大いに盛り上げるようなこともない。泣かないまでも、大喜びする可能性は極めて低い。
だがしかし、ディラン好きならクリスマスはこれで過ごすべきである。もっとも、盛大にクリスマスを祝う習慣は我が家にはないが…。

このアルバム、初回特典として、ジャケットと同じデザインのグリーティングカードが封入されていた。が、そんなもの誰に贈れるものか!?

『ガリア戦記』

カエサル『ガリア戦記』
ガリア戦記

ガリア戦争に当たっていたユリウス・カエサルが、ローマの元老院に宛てて、戦況の報告のために送った戦記である。紀元前58年から52年まで、1年1巻、7巻の翻訳である。なお、カエサル没後にヒルティウスが物した第8巻があるらしいが、ここでは省かれている。

ガリアは全部で三つにわかれ、その一にはベルガエ人、二にはアクィーターニー人、三にはその仲間の言葉でケルタエ人、ローマでガリー人と呼んでいるものが住む。どれも互に言葉と制度と法律が違う。ガリー人はガルンナ河でアクィーターニー人から、マトロナ河とセークァナ河でベルガエ人からわかれる。…

これは冒頭の部分だが、まるで一篇の旅行記を読んでいるようである。これを読んで、何故だか判らないが、僕はマイケル・マックルアの朗読する『カンタベリ物語』の一節を思い浮かべた(実際にはまるで似ていないけれど)。
歴史の書だから「青版」として刊行されているけれども、「赤版」に配置されていても、恐らく違和感はないだろうと思われる。

当事者、しかも総指揮官(属州総督)による本国への戦況報告であれば、不利な状況は控え目に、戦果は誇張して書きたくなるものではないかと思うのだが、極めて冷静に、客観的に書かれていることに驚かされる。むろん、自分の都合の良いような脚色はあるのだろうけれども、読んでいて、そういう感じは受けない。
たとえば、「その間味方の兵は敵の攻撃にもめげず、四時間以上も極めて勇敢に闘い、僅かのものが傷を負ったけれども多くの敵を殺した」(IV-37)などというところ。相当な激戦があったものと推測される。如何に相手の攻撃が激しかったか、苦戦の状況を克明に記して、それを自分の作戦・指揮で挽回し、相手を徹底的に打ち破った、というようなことを、かなりデフォルメして書くのが合目的的なのではないかと思うのだが、極めて淡々と事実だけが述べられている。それがまた、真実味を増すことに繋がっているのだろう。

戦闘の合間だからそれほど詳細に書くことができなかった、ということもあるかもしれないけれども、そういう物理的な限界からだけではなく、そのように書く効果を考えて、意図的に行なったのではないかと思われる。本当に余裕がなかったのであれば、これだけの大著を物すことはまずできまい。

この作品の中で、カエサルが自分のことを述べる際に、一人称を用いずに「カエサル」と呼称する。これも、客観的な印象を与えるのに役立っている。あるいは、元老院で朗読される時のことを考えて、一人称よりそれが効果的と判断してのことなのかもしれない。

読む上で、多少の歴史的な予備知識は必要だけれども、それほど詳しくもない僕が読んでも、文学として十分に楽しめる作品である。

"UNHALFBRICKING"

今日のBMG。

FAIRPORT CONVENTION "UNHALFBRICKING"
  ~フェアポート・コンベンション『アンハーフブリッキング』~

アンハーフブリッキング

先週のNHK FM「ウィークエンドサンシャイン」でやっていた「リチャード・トンプスン特集」で耳にして知ったバンド。
放送では、ベスト盤 "Meet on the Ledge: The Classic Years (1967-1975)" に収められた曲を紹介していたようだ。出掛けの慌しい時間に聴き流しているので、きちんとは把握してはいないのだが、その時僕が耳にした曲はどうやらこのアルバムに収められているものらしいので、これを聴いてみた。

イギリスを代表するフォーク・ロックのバンド…らしい(不学のため知らなかったが)。何故だか1969年に3枚ものアルバムを出している、その2枚目。
ボブ・ディランの楽曲が3曲、トラディショナルが1曲、トンプスンとサンディ・デニーのものが2曲ずつ。中でも、オープニングの Genesis Hall (ジェネシス・ホール)と、後半の Who Knows Where The Time Goes? (時の流れを誰が知る)~Persy's Song (パーシーズ・ソング)が切なく美しい。
ラストの Million Dollar Bash (ミリオン・ダラー・バッシュ)のカントリーふうのアレンジも、ディランのオリジナル(100万ドルさわぎ。ただしこちらの公式発売は後年の1975年)とは違った味で、素晴らしい。
[ 2010/12/21 22:58 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△