"Mary Lou"

Ronnie Hawkins and The Hawks "Mary Lou"
  ~ ロニー・ホーキンス&ザ・ホークス『メリー・ルー』~

Mary Lou

マーティン・スコセッシ監督の手に成る The Band の記録映画『ラスト・ワルツ』 (The Last Waltz)に参加した錚々たるゲスト・ミュージシャン達の中で、ウィキペディアに立項されていない数少ない男。

輸入盤で、解説など一切なく(あったところで読めないが…)、詳細は判らないが、オリジナルではなく、ベスト・アルバムらしい。
このアルバムのポイントは、Ronnie Hawkins よりむしろ、and The Hawks だと言えるかもしれない。
この The Hawks、言わずと知れた、後の The Band である。
ただし、The Hawks は、途中でメンバーが変わっていて、初期と後期とで共通しているのはリヴォン・ヘルム以外、いない。
個々の曲が、どちらの The Hawks の演奏によるものなのかは判らないのだが、僕の素人耳にも、間違いなく後期 The Hawks にしか聞こえない曲が少なからずある。

実際のところ、収録されている Who Do You Love? が聴きたくて買っただけなので、ギターがロビー・ロバートソンであろうがあるまいがまったく構わないのだが、そういうマニアックな薀蓄は、あればあったで楽しい。

軽快なロカビリーのアルバムである。
[ 2011/06/27 21:25 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「すごい」ニュース

今朝、NHK FMを聞いていて耳にしたニュース。

レディー・ガガさんら 被災地支援

東日本大震災の被災地を支援しようと、世界的な人気歌手のレディー・ガガさんをはじめ国内外のアーティストが参加した大規模な音楽イベントが、25日、千葉市の幕張メッセで開かれました。

このイベントは、世界各国で音楽専門チャンネルを展開する会社が、東日本大震災の被災地を支援をしようと開きました。イベント開始とともにレディー・ガガさんが巨大なくもの巣を背にステージに登場すると、会場を埋め尽くしたおよそ6000人のファンから大きな歓声が上がり、一斉に総立ちとなりました。このイベントに出演するために来日したというガガさんは、どんな困難な状況からも必ず立ち直れるというメッセージを込めて、歌いながらくもの巣から逃れるパフォーマンスを披露しました。イベントには、このほか日本の人気グループ「EXILE」や韓国の人気アイドルグループ「少女時代」など、およそ20組が参加しました。このイベントで集めた義援金は、日本赤十字社を通じて被災地に寄付されるということです。ガガさんのファンという20代の女子大学生は「世界中が日本を応援してくれているような気がします。音楽が持つ力はすごいので被災地までその力が届けばいいと思います」と話していました。


気になったのは、「20代の女子大学生」の、「音楽が持つ力はすごい」ということば。
むろん、一女子大学生の感想としては、そんなものだろう。
当日、日本のために駆け付けてくれた、大好きなガガのステージを見ることができた彼女としては、感激のあまり「すごい」と総括する以外のことばが見つからなかったとしても無理はない。どんなことばを並べてみたところで、すべて「帯に短し」で、自分の気持ちを余すところなく表現するに適切なことばとしては、「すごい」しか存在しなかったのだろう。
仮に僕がその場にいたとして、どれだけの語彙を駆使して語ることができたかと言えば、甚だ心許ないから、件の女子大学生をくさすつもりは別段ない。

NHKの記者も、当日その場にいたから、女子大学生のコメントに大いに共感ができたのだろう。それだけ音楽の力が「すごい」ことを実感させるステージが展開されたのであろうことは、想像するに難くない。それを過不足なく表現したのが、女子大学生のコメントだったわけである。
だから、記者個人にとっても、「すごい」は最適なことばだったのだろうと推測する。

そこまでは、良い。

が、報道というのは、当日その場にいなかった大衆に向けて、その場の様子を発信するものである。女子大学生の「すごい」という感想に共感して、それをそのまま「すごい」だけで発信したNHKには、この「すごい」を、視聴者がどのように受信するかという視点が欠けている。

ことばというものは、それを使う「場」と密接な関係がある。家族に対しては通じることでも、近所の人には通じないことがある。近所の人には通じることでも、離れた地域の人には通じないことがある。日本人には通じることでも、外国人には通じないことがある。…。
だから、同じ事柄を語るのでも、どういう場で、誰に対して話すのかによって、表現が変わるべきものなのである。

イベントの当日、会場で語ることばとして仮に適切だったとしても、その翌日、ニュースとして発信する時に、そのことばが適切であるかどうかは、改めて検証する必要のあることである。
なお、「すごい」は引用部分だから、この記事の発信者とは関係ない、ということにはならない。女子大学生の「すごい」以上のことばを持ち合わせなかったから、それをそのまま引用したというだけのことである。

どんなことでも「すごい」で済ませてしまうのは語彙の貧困だという考えがある。それが間違いだとは思わないが、それよりもむしろ、同じことばなら、いかなる場で使おうと違いはないと考えて疑わないことの方が、より深刻なことばの貧困なのではないか、と思うのである。

ことばおじさんなら、どう思うだろうか?

原稲荷神社

原稲荷神社(荒川区町屋)。昭和34年(1959)製。

原稲荷神社 原稲荷神社
原稲荷神社 原稲荷神社

昭和34年と言えば、当時の皇太子殿下(現天皇陛下)のご成婚の年。この狛犬は、そのご成婚を記念して製作、奉納されたもの。それだけに、出来はなかなかのものである。

(Canon EOS20D + EF-S17-85mm F4-5.6IS USM & TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2011/06/24 22:22 ] 狛犬 東京/荒川 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

熊野神社(新宿区西新宿)

熊野神社(新宿区西新宿)。

文化元年(1804)、石工吉右衛門作。

熊野神社 熊野神社

同・末社。
享保12年(1727)。

熊野神社 熊野神社

古い狛犬で、足の下がくり抜かれていない。
もっとも、古ければくり抜かれていないかと言えばそういうわけではなく、くり抜かれていないものはかなり珍しい。その足の間に、製作年の刻印がある。

熊野神社5

(Canon EOS20D + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2011/06/23 21:36 ] 狛犬 東京/新宿 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

香取神社(葛飾区亀有)

香取神社(葛飾区亀有)。

「亀有」だけに、まず、亀が出迎えてくれる。

香取神社・亀 香取神社・亀

珍しいが、それ以上のものでもない。

本殿前の狛犬。

香取神社 香取神社

末社の招魂社前に、なかなか風情のある狛犬がいる。

香取神社・招魂社 香取神社・招魂社
香取神社・招魂社 香取神社・招魂社

この日は天気が良すぎて、非常に撮りにくかったが…。

亀有と言えば、やはりこれは外せない。
「少年よ、あの星を目指せ!両さん像」

香取神社・両さん像 香取神社・両さん像
(Canon EOS20D + EF-S17-85mm F4-5.6IS USM & EF17-40mm F4L USM & TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2011/06/22 20:14 ] 狛犬 東京/葛飾 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

「つまらない」

「とんでもない」ということばを丁寧に言うとどうなるか?
これは、「正しい日本語」本の常連、間違いやすい日本語の例の中でも、特に有名なものである。

日本語の「ない」には3通りあって、それぞれ、丁寧な言い方の作り方が違う。

(1)助動詞「ない」→「ません」
  「欲しがらない」→「欲しがりません
(2)形容詞「ない」→「ございません」「ありません」
  「傘がない」→「傘がございません」「傘がありません
(3)形容詞活用語尾「ない」→「+ことでございます」「+ことです」
  「かたじけない」→「かたじけないことでございます」「かたじけないことです

(1)と(2)は、特に難しいことはないだろう。注意を要するのは、(3)である。
例に上げた「かたじけない」で言えば、(1)の方式で「かたじけません」とするのは論外として、語尾だけを(2)の方式で丁寧にして、「かたじけございません(ありません)」と言うのも間違いだ、ということである。
もっとも、本来は、「かたじけない」に「ございます」を直接くっ付けて、「かたじけなくございます」→「かたじけのうございます」と言うべきではないかと思うのだが、長いものには捲かれろ、そこは突き詰めないでおく。(何が長いのかは良く判らないが…。)

「とんでもない」も、同じくそれで一語の形容詞だから、「とんでもございません(ありません)」というのは間違いで、「とんでもないことでございます(ことです)」が『正解』だということになっている。

さて、それでは、標題に掲げた「つまらない」を丁寧に言うとどうなるか?
この語は、元々の語構成としては「詰まる」に助動詞「ない」が接続したものではある。
が、「詰まる」という概念を否定しているわけではなく、あくまでも「つまらない」という概念を表わしているわけだから、一語の形容詞と見なすべきものである。
そこで、上の方式(3)に当てはめてみれば、正しい「つまらない」の丁寧な言い方を作ることができる。

では、答えを、文豪・獅子文六先生にお伺いしてみよう。

花、花、花、苗

我が家で今咲いている花と、これから花が咲く苗。

ピーマンフルーツトマト
ニチニチソウアサガオ

すべて鉢植え。
(Canon EOS20D + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2011/06/20 22:40 ] 自然・季節 草花 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「役不足」

「次のプロジェクトは田中君に任せようか?」
「いやぁ、あいつじゃあ役不足だよ!」


「田中君」には荷が勝ち過ぎている、「田中君」にそんな力はない…そんな場合に、良く使われる。
が、手近な国語辞典を引いて見れば判る通り、まったく逆の意味のことばである。

割り当てられた役目が軽過ぎ・る(て、それに満足できないこと。「―を言う」(『新明解国語辞典 第3版』1985年)


たとえてみれば、市川團十郎が馬の脚を演じているような場合に使う。つまり、先の例は、「誤用」である。

僕の持っている辞書は、他のものも、ほぼ上記と同様の記述で、この誤用について書かれたものはない。
そこで、いくつかの辞書の最新の版を見たところ、次のようにあった。

割り当てられた役目が軽過ぎ・る(て、それに満足出来ない)と思う様子だ。〔「―ながらその任を全うしたい」などと、自分の能力不足を謙遜する言い方に用いるのは誤り〕「―だと文句を言う」(『新明解国語辞典 第6版』2005年)

(1)俳優などが、自分に割り当てられた役に対して不満を抱くこと。 (2)その人の力量に比べて、役目が軽過ぎること。「―の感がある」▽誤って、力不足の意に用いることがある。(『広辞苑 第6版』2008年)

(1)割り当てられた役に対して不満を抱くこと。与えられた役目に満足しないこと。*滑稽本・八笑人(1820-49)*西洋道中膝栗毛(1870-76)仮名書魯文<用例省略> (2)その人の力量に対して、役目が不相応に軽いこと。軽い役目のため実力を発揮できないこと。*文科大学挿話(1926)川端康成 *恋人たちの森(1961)森茉莉<用例省略> (3)(誤って、役に対して自分の能力が足りないの意と解したもの)役割を果たす力がないこと。荷が重いこと。「役不足ですが、一生懸命つとめたいと思います」(『日本国語大辞典 第2版』2002年)


1998年の『広辞苑』第5版には、誤用についての言及がないから、今世紀に入って、ようやく認められた(誤用が定着したと見なされた)もののようである。

さてそれでは、こんな例はどうだろうか。

「…それにしても、こう申上げては失礼だけれど、絹川という色男も、瀬戸という色男も、どうもあなた、少し役不足じゃありませんか」
「ええそれはうちの宿六はたしかに偉いところもあるけど、ああまでコチコチに何から何まで理ヅメの現実家なんて、息苦しくって堪らないものよ。…」(坂口安吾「金銭無情」1948年)


「倉田」と「富子」という登場人物の会話である。倉田の会話の中に、件の「役不足」がある。
倉田が、絹川や瀬戸という男が富子の相手として「役不足」だ、と表現しているのだとすれば、これは誤用の例だということになる。戦後間もない昭和23年だから、誤用だとすればかなり古いものだろう。
が、そうとも言い切れないところがある。

ここで参考までに、『日本国語大辞典 第2版』に採られている用例を見てみよう。

「僕じゃ貫禄がないからな。ギドなら素晴しいけれど、ルオオだって、ルッソオだって、もっと昔のだって、皆知っているし」
「僕じゃ少し役不足だね。みんなパウロを素人としてみているんだから、幾らか解っていて、感じがよけりゃあいいんだ」(森茉莉「恋人たちの森」)


この場面は、ギドウ(義童・ギド)が絵画の仲介人としてパウロ(巴羅)を推薦しようとするところ。「役不足」の語は、ギドウの会話文中にある。

仲介人の仕事はギドウでは務まらない、力不足だ…つまり、誤用の例だと言えば、それで納得する方もいるだろう。
が、これは、正用の用例として採られているものである。
仲介人の仕事がギドウにとって「役不足」なら正用として、ギドウがその仕事にとって「役不足」なら誤用として、どちらに取っても通じないことはない。この部分だけ見ていたのでは、やや判断に迷うところである。

そこで、この少し前の部分を見てみる。

ギドウは銀座の画廊、ブリヂストン、デパアトなぞの展覧会に足を運んで画を買う、一部の金持連中と、家同士の附合いがある。その連中の中には画商を間に入れることを嫌い、直接絵を持っている人間同士に、適当な礼金で橋渡しを頼みたいと思っているのがいた。よくある半玄人のような連中にみすみすぼろい商売をされるのも不愉快である。その仲介人に、ギドウはパウロを推してやろうと言うのである。


素人であるがゆえに、ギドウはパウロを仲介人として推薦しようとしているのである。だから、「ルオオ」や「ルッソオ」や「もっと昔の」を知っているギドウには、その仕事は相応しくない。
つまり、ギドウにとって、仲介人の仕事が「役不足」なのである。だからここは、『日本国語大辞典』のとおり、正用として使っている例と考えられる。
この用例で、読者が正用と迷いなく判断出来ていたのだとしたら、昭和30年代半ばには、まだ誤用としての「役不足」が拡まってはいなかった、ということなのだろう。

安吾の例に戻る。
ここを正用と見るか、誤用と見るかは、絹川・瀬戸と、富子と、どちらに主体を置くかということに関わっている。

(1)『絹川・瀬戸にとって、(富子と付き合うことは)役不足だ』
(2)『富子にとって、(絹川・瀬戸は付き合う相手として)役不足だ』

(1)は、絹川・瀬戸を主体とする表現である。絹川・瀬戸にとって、富子と付き合うという行為は荷が勝っている、「役不足」だ、と言っているわけだから、これなら誤用の例である。
それに対して、(2)は、富子を主体とする表現である。富子が付き合う相手として、絹川・瀬戸では物足りない、彼らでは「役不足」だ、と言っているわけで、これなら正用である。

どちらにも、取ることは可能だろうが、誤用としての「役不足」の用法が、(まったくなかったかどうかは判らないが)それほど拡まっていなかったであろう当時の読者は、これを読んだ時、恐らく後者の理解をしたのではなかろうか。

ここに上げた安吾や森茉莉の例のような、逆の意味にも取れないことのない「役不足」の用法が、現在一段と拡まりつつある「誤用」の用法を生む原因になったのかもしれない。

「いとやむごとなき際にはあらぬ」(源氏物語・桐壺)というような格助詞「が」の用法が、逆接の接続助詞「が」を生み出す要因なった如く…。

寄ってみた(その2)

先日、「寄ってみた」に載せた写真は、実はほとんどの写真が、マクロを使わなければ撮れないようなものではない。
ふつうのレンズでも、それなりに寄れるものである。

たとえば、この狛犬。

太田姫稲荷神社

17㎜(27.2mm相当)で寄ってみる。

太田姫稲荷神社・17mm

ふつう、こんな程度で十分である。
だが、このレンズ、もっと寄れる。40mm(64mm相当)。

太田姫稲荷神社・40mm

別のレンズで。50mm(80mm相当)。

太田姫稲荷神社・50mm

が、マクロなら、ここまで寄れる。90mm(144mm相当)。

太田姫稲荷神社・90mmMacro

手持ちでここまで寄るのはかなり無理がある。が、これは偶々ピントが来た。
もっとも、ここまで寄る必要は、ほとんどないのだが…。

以前も紹介した、銚子土産の犬吠キッコロ人形。

犬吠キッコロ人形

寄ってみる。

犬吠キッコロ人形


さて、マクロと言えば花だろう! という向きに。

薔薇

もっと寄ってみた。

薔薇

不慣れなもので、どこにピントを合わせて良いものやら、良く判らない。

(Canon EOS20D + EF17-40mm F4L USM/EF50mm F1.8II/TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2011/06/18 14:51 ] | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

『電車は顔』

五十川晋一『電車は顔 歴史に残る名車両の軌跡
電車は顔 歴史に残る名車両の軌跡

この本の何が素晴らしいと言って、ただひたすら、電車の顔のイラストが羅列してあることである。
説明は、型番と年代くらい。どの路線で使われていたか、とか、その車両にはどんな特徴があるか、などという類いの軟弱な解説はほとんどない。徹頭徹尾、顔・顔・顔である。側面から見た図すら皆無に近い。

「春は曙」…これを橋本治は「春って曙よ!」と訳す。「いとをかし」の省略などではなく、春は「曙」なのである。
それに倣って言えば、電車は「顔」である。言い換えるならば、「顔」こそが電車である。電車の最も特徴的なるところ、電車の電車たる所以、それが「顔」なのである。本書には、そういう哲学がある。

電車の顔マニアの人なら、絶対に持っていなければならない一冊…とは言え、僕は電車の顔マニアではないから買わなかった。
でも、前述のような軟弱な解説が付いていれば、思わず買ってしまっていたかもしれない。危ない危ない。
[ 2011/06/17 23:43 ] 本と言葉 図鑑 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△