十番稲荷神社

十番稲荷神社(港区麻布十番)。

十番稲荷神社

「港区七福神詣の内 寶船」。ふつうは、大黒とか恵比寿とか、単体なのだが、ここは宝船だから、一堂に会している。何とも目出度い。

十番稲荷神社

狭い神社なので、手水場が石段下にある。

十番稲荷神社

手水場には、蛙。
昔、この辺りが火事で烏有に帰した時、「がま池」にいた蛙が口から水を吐いて、ほとりにあった山崎主税助の屋敷だけが類焼を免れたのだそうである。それで、火防その他、「何でもかえるお守り」になっている。

十番稲荷神社

石段上の昭和12年(1937)製。

十番稲荷神社 十番稲荷神社

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)
[ 2012/01/31 06:38 ] 狛犬 東京/港 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「全然」(その6の下)

「上」と書いたからには、「下」を書かなければならない。「「全然」(その6の上)」の続き。

前回、『日本国語大辞典』の説明を引用したのだが、同じ否定と呼応しない「全然」でも、明治~昭和初期の用法と、現代の口語の用法とには違いがあるという、成程という内容だった。現今の否定と呼応しない「全然」の用法について、「俗」だ云々の評価は一切書かれていないものの、書かれていること自体が「成程」なのには変わりない。
これまで、『日本国語大辞典 第二版』でも、さしたる違いはあるまいと思って迂闊にもチェックせずにいたのだが、先日、念のためと思って見てみたら、かなり違うことが書かれていた。

ことばの説明自体はまったく同じなのだが、違うのは、(3)の用法に実際の用例が採られていることと、国語辞典に書かれている内容とは思えないほどの、詳細な語誌があることである。

(3)は昭和20年以後に現われた用法で、肯定表現を伴う点では(1)と似ているが、(1)のように「残らず」「全部」の意味は含まず、ある状態の程度を強調するだけの働きである点が異なる。多くの人がこれを奇異な使い方に感じたのは、否定表現を伴わないということだけではなく、(1)とは違って、「とても」「非常に」と同様、単なる程度強調に使われたということが大きな理由である。


この語誌の解説はひとまず措いておいて、『第二版』で追加された(3)の用例である。
その一つを上げる。

お金はとれるし、男性のウィーク・ポイントは、全然、ハッキリしちゃうしさ。


昭和25年(1950)、獅子文六の『自由学校』。これが、程度強調の例だというのである。
たしかに、「とっても、ハッキリしちゃうしさ」とか「すっごく、ハッキリしちゃうしさ」と言い換えても、問題なく通じる。そういう意味では、現今の用法と同じようにも思える。だが、本当に、そうなのだろうか。

この「全然」を、「とても」「すごく」に置き換えても意味が通じることには異論がないが、現代人が見た場合に程度強調にも取れる表現だとしても、だから当時においても程度強調だった、とは言い切れないだろう。
旧来の用法として、「残らず、ハッキリしちゃうしさ」「全部、ハッキリしちゃうしさ」という言い換えが不可能な表現だとは思えない。むしろ、「男性の弱点がすべて判る」という文脈と取った方が、妥当なのではないか。

そのほかに上げられている例文は、実際に読んだことがないので、論評は差し控えるとして、同じ頃の用例を、いくつか上げておく。いずれも、坂口安吾の作品である。

文学には一定の限界線はないから、奴は探偵の天才だが、全然文学のオンチなのである。(『不連続殺人事件』)

だから巨勢博士は全然評判が悪い。(同)

伊東は祐親の城下であるが、そのせいではなかろうけれども、水屍体は全然虐待される。(『安吾巷談』「湯の町エレジー」)


とても文学のオンチ」「とても評判が悪い」「とても虐待される」という文脈に、取れないことはないけれども、むしろ、「完全に」とか「まったく」の意味で取るべきもののように思う。

もっとも、前回も上げた「全然、自分の意志に支配されている」という芥川の『羅生門』のように、程度強調と取ることのできない例に比べると、程度強調とも取れそうな感じがする表現なのには違いない。そういう「全然」の使い方が、現今のような用法を、生んだのかもしれない。

何だか中途半端で、まだ続きそうに見えるだろうが、ひとまずこれで終わり。
否定と呼応しない「全然」を「俗」な用法とする見解が何によって生まれたのか、『日国』を見ても不明のままである。

「全然」(その6の上)

これまで何度か、「全然」についてのエントリを書いて来た。その続きで、相も変わらず結論はない。

『日本国語大辞典』の「全然」の項。
形容動詞の「全然たり」は省いて、副詞「全然」の説明を上げる。

(1)残るところなく。すべてにわたって。ことごとく。すっかり。全部。
(2)(下に打消を伴って)ちっとも。少しも。
(3)(口頭語で肯定表現を強める)非常に。「ぜんぜんすてき」「ぜんぜんいかす」

(1)と(2)には坪内逍遥・国木田独歩・夏目漱石等の用例が上げられているが、(3)は口頭語だけに、実際に使われている用例は上げられていない。

この『日国』の説明で注目すべきは、現代の否定と呼応しない「全然」は、明治以来の否定と呼応しない「全然」とは別の用法だと理解している点だろう。つまり、(1)と(3)は、形は似ているけれども、同じものではないということである。

(1)は、「すべて」「残らず」というような意味で、(2)はその否定形だが、(3)は単に強調を表わしているだけである。
例えば、芥川龍之介の『羅生門』(1915年)の、「この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」の「全然」は、「完全に」というような意味合いである。
それに対して、現代語の「ぜんぜんすてき」は、「完璧にすてき」なのではなくて、「とてもすてき」という程度のことである。
だから、(1)と(3)は、全然違うというわけである。

続く

広尾神社

広尾神社(港区南麻布)。

日本中で数多くの狛犬が作られた、皇紀2600年〈昭和15年〉(1940)製。

広尾神社 広尾神社

その割には、少し穏やかな顔をしている。

(OLYMPUS PEN E-PL2 + Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4MM)
[ 2012/01/28 20:09 ] 狛犬 東京/港 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

天現寺

多聞山天現寺(港区南麻布)。

天現寺

この寺には虎がいる。
以前ここを訪れたのは、15年以上前のこと。改築されていて、その時とはだいぶ趣きが変わっていた。
それより何より、2対もいたっけ・・・? どうやら、1対だけ見て、満足して帰って来たようである。

まずは、明和3年(1767)。

天現寺 天現寺
天現寺 天現寺

以前見たのは、たぶんこれである。

続いて、天保6年(1835)。

天現寺 天現寺
天現寺 
天現寺

これは、すばらしい。

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)
[ 2012/01/27 23:53 ] 狛犬 東京/港 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△

「しかんで」

例によって例の如く、ただの備忘のための気になったことばのメモ。

幸田文「勲章」(昭和24年)より。

すこし待っていろ、すぐ済むから、と云う父にそむいて、私は暇を云った。父は魚を私にと云いつけた。貰って帰ったのはさっき一ト折だけしまわずにあったそれだった。ひらめの皮がしかんでいた。


終止形は「しかむ」のはずだが、小さな辞書を見てみても、出ていない。
そこで、『日本国語大辞典』を見ると、「顰・蹙」の字を宛てて、「顔や額にしわが寄る。しぶい顔つきになる。しわむ」とあった。「しかめる」(文語動詞は「しかむ」)という他動詞と関係のある自動詞だが、他動詞「しかむ」が下二段活用なのに対して、こちらは四段活用。

ただし、今上げた例は、「ひらめの皮」について言っているもので、顔についてではない。
『日国』の用例には『日葡辞書』が採られていて、それには「また比喩的に、衣類、紙などがしわになったり、折れまがったりする」とあるそうである。無論、実際にはポルトガル語で書かれているわけであるが。

そんなことばが、戦後まで使われていたわけである。

『はっぴいえんど』

雪国の人にとってみれば、高が4センチの積雪で大混乱することは笑止だろうが、東京では滅多にない出来事なので致し方ない。
雪が降ったところで、街なかでは絶景が現出するわけでもないのに、無闇に喜んだりするのも、「バッカジャナカロウカ」というところではあるのだが、珍しいことには違いないので、これも致し方ないのである。

氷柱

そんなわけで、今日のBGM。

はっぴいえんど『はっぴいえんど』
はっぴいえんど

「都市(まち)に積る雪なんか 汚れて当り前/という そんな馬鹿な 誰が汚した」…細野晴臣の歌う「しんしんしん」を収録。
通称『ゆでめん』。

(Canon EOS20D + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2012/01/24 23:06 ] 音楽・映像 邦楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

円通寺

素戔雄神社から三ノ輪駅に向う途中にある、巨大な観音様のあるお寺、円通寺(荒川区南千住)。

円通寺

鉄柵沿いで非常に撮りにくい位置にだが、狛犬がいる。

円通寺 円通寺

後で調べたら、戊辰戦争に縁の深いお寺で、上野の山内から移築された弾痕の残る黒門や、彰義隊士の墓所もあるらしい。
改めて訪れたい。

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4MM)
[ 2012/01/21 19:37 ] 狛犬 東京/荒川 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

素戔雄神社

素戔雄神社(荒川区南千住)。

素戔雄神社

境内に入ると、まずは文化5年(1808)の狛犬がいる。

素戔雄神社 素戔雄神社

この文化5年の後ろに、かなり立派な獅子山がある。

素戔雄神社 素戔雄神社

素戔雄神社

素戔雄神社

庚申塔を守るような形で置かれている狛犬。

素戔雄神社

素戔雄神社 素戔雄神社

祭神の素戔雄大神・飛鳥大神が降臨した瑞光石を祀っている社。

素戔雄神社

その鳥居の内に、かなり古い狛犬がいる。近寄れず、これ以外の角度から写真を撮ることも難しいような状態だから詳しくは判らないが、1700年代前半のものではなかろうか、と思う。

素戔雄神社 素戔雄神社

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4MM)
[ 2012/01/20 22:22 ] 狛犬 東京/荒川 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

「危のうございます」

形容詞を丁寧な言い方にする場合、本来は、連用形のウ音便に「ございます」を付けた。「美しゅうございます」とか「悲しゅうございます」とか。
「とんでもない」のように、現在では「とんでもないことでございます」が正しいとされていることばも、やはり本来は、「とんでものうございます」と言ったはずである。

ただし、漱石の『坊っちゃん』を見ると、「一体生徒が全然悪るいです」という言い方もあるから、古くから終止形+「です」も併用されていたのだろう。
それはともかく、現在では終止形に「です」を付けるのがふつうになっていて、連用形ウ音便+「ございます」は、もはや死語に近い。

それが、今朝、地下鉄の車内放送で、こんな言葉を聞いた。

  「駆け込み乗車は危のうございます…」

声を聞いただけだが、それほど年の人とも思えない。恐らく僕より若いだろうに、ずいぶん古風なことばを使う人がいるものだ、と軽く感慨に耽っていると、続いて次の駅に停まる時のアナウンスが…。

  「電車が遅れまして、ご迷惑のほう、お掛けしております…」

…。