ピカチュウ?

最近折り紙に凝っている息子が、ピカチュウを折ってくれと言う。
何故? と思ったら、以前僕にピカチュウを折ってもらったことがあると言う。
いや、それは違う。児童館かどこかで折ってもらったのを、家に持ち帰ったことがあるだけである。しかも、持ち帰ったのは僕ではない。

が、仕方なく、耳の大きい動物、ということで、キツネをアレンジしてテキトーに折ってみたのだが、そんなことで到底似ているものになるはずもないし、そもそも僕はピカチュウを良く知らない。
息子も「ま~、これでも良いけど~」などと言いながら、やはり当然満足はせず、手足や尻尾を切り貼りして、自分が妥協できるギリギリの線まで改造していた。

このままでは父親としてあまりにも不名誉なので、名誉挽回のために試作した。
似ていると強弁するつもりは毛頭ないが、昨日のよりはずいぶんマシなはずだから、明日目が覚めてこれを見たら、こんなところで勘弁してくれ!

ピカチュウ?
[ 2012/04/30 23:59 ] | コメント(6) | TB(0) |  TOP△

藤 2012

ちょうど去年の今頃、我が家の藤の花をアップした
ベランダの鉢植えで、変わり映えはしないけれども、季節の風物ということで、今年も上げておく。

藤 藤

時間のある時にゆっくりと撮ろう、と思っているうちに、昨日の雨で散ってしまった。
だから、これだけ。

(Panasonic LUMIX DMC-LX3)
[ 2012/04/28 22:59 ] 自然・季節 草花 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

"ELECTRIC DIRT"

リヴォン・ヘルム逝去の報を受けて、それほど多くはないが、手許にあるアルバムを、聴き返している。

以前取り上げた、"DIRT FARMER" の続編と言えるアルバム。オリジナル・アルバムとしては、最後のものとなってしまった1枚。

LEVON HELM "ELECTRIC DIRT"
 ~リヴォン・ヘルム『エレクトリック・ダート』~


エレクトリック・ダート

Grateful Deadのカヴァー曲Tennessee Jed から始まる、軽快で、かつ、深みのあるアルバム。
何より、リヴォン当人が、歌と演奏を、楽しんでいるように感じられる。

なお、リヴォンの最後の面会者になったのは、ロビー・ロバートソンだったそうである。
最後まで、確執が続いていたわけでは、なかったらしい。
[ 2012/04/26 22:47 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

訃報~リヴォン・ヘルム

今週の月曜日(23日)、NHK FMの送信が、東京タワーから東京スカイツリーに変わったらしい。途端に、受信状態が素晴らしく良くなった。
スカイツリー、万歳!…なのだが、ラジオから流れて来たのは、残念なニュースだった。

リボン・ヘルムさん死去 「ザ・バンド」メンバー

リボン・ヘルムさん(ロックグループ「ザ・バンド」のメンバー)が、公式ウェブサイトによると19日、ニューヨークで死去、71歳。
米アーカンソー州出身。ボブ・ディランのバックバンドを経て、1968年にデビューした「ザ・バンド」のボーカル兼ドラム奏者として活躍。「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」や解散コンサートの模様を収めた「ラスト・ワルツ」など多くのヒットアルバムを発表した。(ニューヨーク) (朝日新聞デジタル)


ザ・バンドのリーダー、レボン・ヘルム氏死去

レボン・ヘルム氏 71歳(米ロックミュージシャン)AP通信などによると、19日、がんのためニューヨーク市内で死去。

 米南部アーカンソー州生まれ。1960年代から76年まで活動した有名バンド「ザ・バンド」のドラマー兼ボーカリストで、グループの要として活躍した。(ニューヨーク) (YOMIURI ONLINE)


[ 2012/04/25 17:51 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

新宿交通公園

我が家に近いところにもどこか城跡はないか、と『城巡礼』にある地図を見ていて、葛飾区の葛西城の近くに「交通公園」というのを見つけた。
息子(小学2年)に見せると、行きたいと言い、ネットで調べてみても、ずいぶん面白そうである。
それで、一昨日の日曜日、天気はすぐれなかったが、その方がかえって空いているのでは、という期待を籠めて、行ってみた。

新宿交通公園。「しんじゅく」ではなく「にいじゅく」と読む。
水戸街道沿いの、都バス「亀有警察署前」から徒歩数分。見るからに「交通」公園である。

新宿交通公園

消防車の滑り台とか、難破船とか、交通に関する遊具がある。

消防車 難破船

このほか、ゴーカートとか、自転車(補助輪付きもあり)などもある。走路には信号や横断歩道があり、きちんと交通ルールを守って走らなければならない。

それだけでもけっこう楽しめるのだが、この公園の一番の呼び物は、何と言ってもこれだろう。

新宿交通公園駅。

新宿交通公園駅

何の駅かというと、これである。

ミニ弁慶号 ミニ弁慶号

ミニSLの「ミニ弁慶号」。
かなり重厚な造りだが、それもそのはず、動力は石炭、ミニではあっても本物の蒸気機関車である。

石炭庫 ミニ弁慶号

力強く白煙を上げて走る。

ミニ弁慶号 ミニ弁慶号

こんなトンネルがあったりして、かなり楽しい。

ミニ弁慶号

3分ほどで1周する。「3分」というと何だか短いようだが、それだけでもけっこう満足できる。
それに、小学生は1回30円だから、物足りなければ何度でも乗れば良い。10回でも300円…と言っても、本当にそんなに乗ったら、さすがに飽きるだろう。ちなみに息子の乗車回数は、3回だった。

なお、ミニSLの運転は日曜日のみ。
土曜日にはミニDL(ディーゼル機関車)とミニ新幹線(N700系)が走るらしい。

ミニDLミニ新幹線

ゴールデンウィークは、特別ダイヤで運行。ご参考までに、2012年の運行予定を掲げておく。

2012年ゴールデンウィーク運行予定

新宿交通公園案内
[ 2012/04/24 21:14 ] 旅・散策 乗り物 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

『城巡礼』

東京にも城がある。
むろん、一国一城の定めがあるから、近世の城郭として現存するのは江戸城のみ、それ以外は中世の古城の遺構に限られる。否、遺構が残っているのはまだ良い、それすらないのが、通例である。

『城巡礼 諸行無常 東京48ヵ所めぐり』

城巡礼

本書は、そんな古城の跡地を紹介したものである。

本書を繰ってみると、それと知らずに訪れたことのあるところが、いくつもあった。たとえば、今井城(赤坂氷川神社=港区)、筑土城(筑土八幡神社=新宿区)、本郷城(東京大学=文京区)、平塚城(平塚神社=北区)、渋谷城(金王神社=渋谷区)、八幡塚砦(六郷神社=大田区)など。
そういう場所も、知ってから再訪すれば、また違った趣きがあるだろう。

さて、本書を購入したのは、むろんのことそんな東京に残る城郭の面影を辿ることなのだが、実はそれとはまったく違う発見があった。
それは…。
[ 2012/04/23 21:46 ] 本と言葉 歴史の本 | コメント(0) | TB(1) |  TOP△

「全然」(その7)

これ以上用例を列挙してみても、さしたる意味はないのであるが、どこかで誰かの役に立つことが、万に一つ、ないとも言い切れないので、メモしておく。
否定と呼応しない「全然」の例である。

坂口安吾の作品から。

私は今日、政治家、事業家タイプの人、人の子の悲しみの翳を持たない人に対しては本能的な反撥を感じ一歩も譲らぬ気持ちになるが、悲しみの翳に憑かれた人に対しては全然不用心に開け放して言いなり放題に垣を持つことを知らないのである。(「石の思い」)

「どうすれば店が繁盛すると思うね」
私は全然ダメだった。私は私とこの職業を結びつける雰囲気的な抱負にだけ固執して、一晩まんじりともせず、私自身を納得させる虫歯の哲理に溺れていた。(「暗い青春」)

これが小説なら敗戦後も十年二十年たったあとでは出版の見込みもあるかも知れず、死んだあとでもという考えもありうるけれども、支那の映画などとは全然無意味で、敗戦とともに永遠に流れて消える水の泡にすぎない。(「魔の退屈」)

けれども専務の関心がもっぱら会社内の形式だけであることがいっそう私にはつらいので、ともかく月給を貰っているのだから書かねばならぬと考えるが、そういう義務によって全然空虚な仕事をやりうるものではない。(「魔の退屈」)

私は全然無意味な人にオゴってやったり、金をやったり、品物をやったりする。そういう気持ちになったとき、その気持ちを満足させているだけのもので、底でこれぐらい突き放していることはないのである。(「魔の退屈」)

『暗い青春・魔の退屈』

最近ではあまり古本屋巡りをする時間がないのだが、神田神保町の古書店街に程近い大学に通っていた学生時代は、1年の内二百数十日は古本屋を廻っていた。
むろん毎日買物をするわけではないのだが、廉価なものだと、いらなくてもつい買いたくなってしまう。それで結局、相当数の本を買うことになる。そして、僕は学生時代が無駄に長かったから、勢い、読まずに積ん読になる本も、数多くあった。

そんな本の内の1冊を、先日実家に帰った時に掘り起こして来て読んだ。
坂口安吾の『暗い青春・魔の退屈』。安吾の自伝的な作品が集められた1冊。角川文庫の1冊だが、今では絶版である。

今回これを取り上げたのは、安吾についての何かを語ろう目的ではない。この本の随所に、前オーナーによる万年筆書きの傍線が、数多く施されていたのが、何となく面白かったからである。
無頼派の作家の言動を、あまり真剣に読んで心に刻んでみても仕方がないのではないかという気もしないではないが、前オーナー殿、随所々々、だいぶ感心したものと見られる。

たとえば、こんなところ。

私が今日人を一目で判断して好悪を決し、信用不信用を決するには、ただこの悲しみの所在によって行なうので、これははなはだ危険千万な方法で、そのために人を見間違うことは多々あるのだが、どうせ一長一短は人の習いで、完全というものはないのだから標準などはどこへ置いてもどうせたかが標準にすぎないではないか。(「石の思い」21頁)


書き留めておけば、どこかで、何かの機会に使えそうなことばである。傍線が付されているのも頷ける。

次に、傍線、波線を使い分けていたりして、かなり強く共感したと思われるところ。太字で示した部分が、実際には波線になっている。

われわれの一生は短いものだ。われわれの過去には長い歴史があったが、われわれの未来にはその過去よりもさらに長い時間がある。われわれの短い一代において、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対して冒涜ではないか。あらゆる時代がそのおのおのの最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる
政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換えられるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性のもので、政治はただ現実の欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ
そのおのおのの訂正が常に時代の正義であればよろしいので、政治が正義であるために必要欠くべからざる根柢の一事は、ただ、各人の自由の確立ということだけだ。(「暗い青春」62頁)


昨今(…に限ったことではないけれども)の政治面の記事を見ていると、ついついこんなことばを引き合いに出して、批判してみたくもなる。

さて、もう少し読み進むと、こんなところがあった。

まだ私たちが初めて知り合い、恋らしいものをして、一日合わずにいると息絶えるような幼稚な情熱の中で暮らしていたころ、私たちは子供ではない、と矢田津世子が吐き捨てるように言った。(「二十七歳」68頁)


この傍線の脇に、「ナンセンス」という書き込みがある。そしてその後、末尾までの約200ページ、傍線も書き込みも、施されることが一切ない。

読むのを止したのか、熱が冷めたものかは、判らない。

『まちにはいろんなかおがいて』

先日、千鳥ヶ淵の花見に行った帰りに、神保町のブックハウスに立ち寄った。この店、元は北沢書店という歴史のある洋書店だったのだが、何時の頃からか、児童書の専門店になった。(建物は北沢ビルで、北沢書店は2階に現存する…らしいのだが、洋書には縁がなく、入ったことはない。)

そこで、見つけた本。

佐々木マキ文・写真『まちにはいろんなかおがいて』

『まちにはいろんなかおがいて』

面白そうだと思って手に取ってはみたのだが、「年中向き」では小学2年の息子にとって幼なすぎるかと思ってやめようとした…のだが、息子の、「年中向きでも、面白いものは面白い」という至極真っ当な主張を容れて、買うことにした。

内容は、タイトルと上の表紙画像を見れば判るだろう。街なかにある、いろいろなものを「顔」と見るのである。マンホールの蓋とか、鉄棒の金具とか、家とか…。
この本を見た後では、様々なものが「顔」に見えて来る。そして気が付くと、あちこちに「顔」を探している自分がいる。

この本が、「年中向き」であることは否定しないが、けっして「年中限定」に留まる本ではない。
[ 2012/04/17 21:42 ] 本と言葉 子供の本 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

「家のなかではははは」

幸田文の『みそっかす』で、継母のことを、文は「はは」と表記する。
たとえば、昨日「『みそっかす』より」で取り上げた後の例に続く部分に、

なぜはははああも立腹したのだろう、なぜあんなに激しく蛇を叩き殺したのだろう。(花見さん)


とあるようなものである。
「なぜはははああも」というのは、少々判りにくい気もするが、注意して読めば、「なぜ―はは―は―ああ―も」以外には読みようがない。

だが、次のものはどうか。

表向には芸術家とあつかって尊敬をよそおったが、家のなかではははは、「たかが芸人づれが」と、おおっぴらに嘲笑っていたのを私は何度も聞いた。(口上)


間違って「家の中で」で切ってしまうと、「はははは」というのがさっぱり判らない。
一瞬迷ってしまったが、ここはむろん、「家のなかでは―はは―は」である。

ただ、それだけである。

附。
なお、この文も、昨日取り上げた例と同じように、「家の中ではははは、―…おおっぴらに嘲笑っていた」という文脈が、「おおっぴらに嘲笑っていたのを―私は何度も聞いた」というふうに、転換している。