文楽鑑賞

「文楽鑑賞」などというタイトルを付けてはいるが、僕が文楽を見た話ではない。見に行ったのは、このお方である。

橋下市長:文楽を鑑賞 「台本が古すぎる」と苦言

文楽協会への補助金凍結を表明している大阪市の橋下徹市長は26日夜、国立文楽劇場(大阪市中央区)で文楽の古典「曽根崎心中」(近松門左衛門作)を鑑賞した。橋下市長は鑑賞後、記者団に「古典として守るべき芸だということは分かったが、新規のファンを広げるためには台本が古すぎる」と苦言を呈し、演出方法を現代風にアレンジするなどの工夫を求めた。
橋下市長は大阪府知事だった09年に初めて鑑賞した際、「二度と見にいかない」と酷評した。この日は、「もう一度古典を見たい」と鑑賞した。
市は今年度の補正予算案で、文楽協会への補助金を昨年度比25%減の3900万円計上。橋下市長は技芸員(演者)が公開での面談に応じなければ補助金を支出しないとの考えを表明し、非公開での面談を求める協会側とのすれ違いが続いていた。この日は、鑑賞後に技芸員の楽屋も訪れ、非公開で懇談。公開での面談を改めて要望したという。 (毎日jp)


橋下市長「グッとくるものない」と辛口文楽批評

橋下徹大阪市長は26日、4年ぶりに同市中央区の国立文楽劇場に足を運んだ。
集客に努める文楽協会の姿勢を評価し、初鑑賞後に「二度と見ない」としていた態度を一転、人間国宝の竹本源大夫さんらが出演する「曽根崎心中」を鑑賞した。しかし、「守るべき古典芸能だとはよく分かったが、ラストシーンでグッと来るものがなかった」と相変わらずの辛口批評。鑑賞後は技芸員(演者)とあいさつを交わしたものの、協会への補助金支給につながる進展は見られなかった。
鑑賞後は竹本さんら人間国宝の3人の楽屋を訪ね、あいさつ。市からの補助金支給の条件とする公開での意見交換を再度求めたが、いずれの演者からも明解な回答は得られず、逆に「文楽は大阪でしかできない、大阪でやっていく芸能だ」と文楽保護の必要性を強調されたという。 (YOMIURI ONLINE)


毎度毎度、政治向きのことは極力書くまいと思っているのだが、このお方が何か発言するたびに、どうにも堪え性がなくなってしまう。

曽根崎心中を現代風にリメイクして上演することはかならずしも否定しない。文楽振興のための一案としては、検討してみる価値があるかもしれない。
が、そのことと、昔ながらの曽根崎心中に価値があるか否かとは、別の事柄である。

特定の芸能団体を地方自治体が財政支援すべきかどうか、あるいは、文楽が支援に値する価値を持った芸能かどうか、ということについて議論があること自体は悪いこととは思わないけれども、「グッとくるものがない」という、単なる個人的な嗜好で、物事の価値を決めてしまうことは、到底、できるものではない。
オリンピックのサッカーで日本がスペインを撃破しても、グッと来ない人は来ないのである。だが、そういう人が1人でもいたら、サッカー日本代表には価値がない、ということにはならない。

個人的にグッと来るものに補助金を出すというのなら、ストリップ小屋にでも出すが良い。
[ 2012/07/27 23:32 ] 理屈・屁理屈 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

接続助詞「に」に関する断片語

『岩波古語辞典』の「基本助詞解説」、接続助詞の「に」の項目に、次のような説明がある。

格助詞「に」の転用である。従って活用語の連体形を承ける。「に」は単に、「その場合」といった意味を表わすのが本来であるから、前後の文脈によって、意味は、「…ので」「…から」という順接条件、「…のに」「…けれども」という逆接条件のどちらの場合もある。また、添加・類加を表わす。


が、ハッキリ言って、これは変な考え方である。
どこが変なのかというと、「前後の文脈によって…順接条件、…逆接条件のどちらの場合もある」というところである。何故なら、これは接続助詞の機能を否定しているのに等しいからである。
「前後の文脈によって」、順接か逆接かを判断するということは、言い換えれば、当該の助詞「に」自体によっては、順逆の別は判然しない、というのにほかならない。
つまり、順接なり逆接なりを表示する接続助詞としての主体性がないということで、とすれば、助詞「に」には、その前項と後項とを『接続』する機能がないということである。

そもそも、ひとつの助詞が、順接であり、かつ、逆接である、というようなことは、考えられない。
前後の文脈によって、順接にも逆接にも取れる、ということが起こるのは、要するに、それ自体が順接でも逆接でもないからである。
「たくさん寝る元気が出る」の「と」は順接で、「たくさん寝る疲れる」の「と」は逆接だ、などと言ったら、誰も頷いてはくれないだろうけれども、前述の「に」の場合には、賛同する人が多い。

透明なガラスは、赤い光を当てれば赤く見えるし、青い光を当てれば青く見える。が、それは透明だったガラスが赤や青に変色しているのではない。ガラス自体は、あくまでも、透明である。
それと同じで、順逆の別を持っていないから、前後が因果関係とも取れる内容の場合に、順接にも逆接にも見えるようになるのである。

上記の解説の文章を極力活かしたまま強いて書き直せば、以下のようになろうか。

「に」は単に、「その場合」といった意味を表わすのが本来であるから、前後の文脈によって、意味は、「…ので」「…から」という順接条件、「…のに」「…けれども」という逆接条件のどちらにも見える場合があるが、実際には順接や逆接の条件を表わしているわけではなく、あくまでも、単に、「その場合」といった意味を表わしているに過ぎない

『大坂城』

宮上茂隆・穂積和夫イラストレーション『大坂城 天下一の名城』

大坂城―天下一の名城 (日本人はどのように建造物をつくってきたか 3)

中1の娘が夏休みの課題図書を借りに行くのに付き合って、地元の図書館に行った。その際に見つけた本。

シリーズのタイトル「日本人はどのように建造物をつくってきたか」から判るとおり、本書は大坂城を建築史の観点から扱ったものである。
図書分類上、児童書・絵本に当たるのだろうが、かなり専門的とも思われることが詳細に書かれている。ここまで精緻に書かれていると、大人でも十分楽しめる、と言うより、むしろ大人の方が楽しめるのではないか。
単に大坂城の構造の説明に止まらず、それぞれの建物の意義が、歴史的背景も含めて描かれている。大阪城が、どのような意図で造られ、どのような変遷を辿ったかを、つぶさに知ることができる。大坂城を通して見た戦国時代史が語られていると言っても過言ではない。

とは言え、そういう深い内容であるにもかかわらず、子供にも判り易いように、極めて平易な口調で語られている。ルビが多いのは、子供だけでなく、門外漢の大人にとっても非常に難有い。

さて、表紙のイラストの大坂城は、現在見る大坂城とはだいぶ違う。秀吉の時代に建てられた大坂城は、信長の安土城がそうだったように、現在の松本城や岡山城のような黒壁の天守閣だったのである。
現在の大阪城の天守閣は、昭和初期に再建されたものだが、それは幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失した、すなわち、徳川秀忠~家光の時代に再建されたものを基にしている。

なお、このシリーズには、ほかに『平城京―古代の都市計画と建築』『奈良の大仏―世界最大の鋳造物』など、とても興味深いものがラインナップされている。いずれも、穂積和夫のイラストによる。
是非、それらも読んでみたい。
[ 2012/07/24 21:51 ] 本と言葉 歴史の本 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

蔓茘枝(ツルレイシ)

去年の夏、節電が叫ばれる中、ゴーヤーで緑のカーテンを作ることが大流行した。我が家でも、やろうと思いはしたのだが、ちょっとタイミングを逸して作れなかった。
それで、今年は植えてみた。

蔓茘枝

梅雨明けして連日の真夏日。少しでも涼しい気分になれば…と言っても、ゴーヤーの実が涼しいわけではないから、この写真には何の効果もない。

なお、大きく写しているが、本当はまだ小さい。
(Canon EOS20D + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2012/07/18 14:36 ] 自然・季節 草花 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

志演尊空神社

志演尊空神社(江東区北砂)。

志演神社

以前この神社を訪れた時、境内のどこかに「志演神社」と書いてあり(今回は見当たらなかったのだが…)、そこに振ってあった仮名から「志演」を「しのぶ」と読むことを知った。
が、扁額には「志演尊空神社」と書いてあり、地図にもそうあるから、これが正式名称と思われる。
が、「尊空」を音読みして良いのか、何か「しのぶ」に適った訓読みがあるのかは判らない。
ただ、志演神社と尊空神社とを合併して現社名になったらしいことからすれば、「尊空」を無理に訓読みすることもないかとは思われる。

昭和31年(1956)製の狛犬。

志演神社 志演神社 
志演神社 志演神社 
志演神社 志演神社

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)
[ 2012/07/16 21:12 ] 狛犬 東京/江東 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△

もっともらしい説明

ある大手出版社から出ている学習参考書を見ていたら、こんな語釈があった。

『伊勢物語』(4段)の、「昔、東の五条、大后の宮おはしましける、西の対、住む人ありけり」という文で、この2つの「に」に対して、場所を示す格助詞とした上で、

「東の五条に……西の対に……」と「に」が重出する場合、上が広い場所、下が更に限定された狭い場所を示す。


と記されていた。

なるほど確かに、「東の五条」は広い場所で、「西の対」はその中にある狭い場所である。だから、上記の語釈は、すとんと胸に落ちる…ように思われる。

が、同じ『伊勢物語』のこんな文はどうだろうか。

昔、男、初冠して、奈良の京、春日の里に、領る由して、狩に往にけり。(初段)


この場合の「奈良の京、春日の里」も、「奈良の京」が「広い場所」で、「春日の里」が「更に限定された狭い場所」に当たる。だが、こちらは「…に…に」という構文ではない。

現代語を例に上げれば、「東京都の墨田区に…」と言った場合、「…に…に」ではなく「…の…に」の形ではあるけれども、「東京都」は広い場所で、「墨田区」はそれより狭い場所を指している。
重ねて言えば、「東京都墨田区に…」でも、「東京都」は広く、「墨田区」はそれより狭い。
さらに重ねて言えば、「東京都墨田区…」という場合でも、「東京都」は広く、「墨田区」はそれより狭いのである。

そもそも、日本では、場所を説明する場合、都道府県―市区郡というふうに、広い場所から狭い場所へ、順番に言うのがふつうである。
だから、「東の五条…西の対…」で、「東の五条」が広く、「西の対」が狭いのはその通りだとしても、そこに格助詞「に」が重出しているのは偶々で、広い場所―狭い場所を示すために、「に」が使われているわけではない。「…に…に」となくても、広い場所―狭い場所を表わせるのである。

また、「…に…に」という形をとっていても、「北海道沖縄と、日本全国を駈け廻る」という文なら、「北海道」が広く、「沖縄」が狭いのではない。(「いや、北海道より沖縄の方が狭い」などというのはこの場合むろんヘリクツである。)

だから、『伊勢物語』(4段)の例で、「…に…に」が広い場所―狭い場所を表わしているというのは、そこだけを見ている限りでは積極的な間違いはなさそうだけれども、実はまったく見当はずれなことを言っているわけである。

が、大手出版社の学習参考書を手にして、そこに書かれていることを疑える人は、なかなかいない。学習参考書に書いてあれば、それは絶対に正しいと思ってしまう。否、学習参考書に書いてあることをやたらに疑っているようだと、定期試験や入学試験の結果は、むしろ心許ない。
しかも、この「…に…に」の説明には、某元首相の「ワンフレーズ・ポリティクス」を彷彿とさせる(と言ったら言い過ぎか?)ような、とても印象に残る、何だかとっても良いことを聞いたような気にさせる巧みさがある。

むろん、これを書いたご当人には、何の悪気もないのだろうけれども、判りやすくて目から鱗が落ちるような説明というのは、斯様に危うい。

1+1

やた管ブログ』の「文系と理系」のエントリを読んでいて、心に思い浮かんだよしなしごとを書き留める。

「算数(数学)なら1+1=2だが、国語(文学)は1+1が3になったり4になったりする」ということを言う人が、時々いる。
そういうことを言うのは、当然ながら大抵の場合は国語・国文学の関係者だから、「だから国語(文学)はスバラシイ!」という主張の根拠になる。
むろん僕も、「国語(文学)はスバラシイ!」という主張自体には賛成だが、国語(文学)では絶対に1+1=2にならないわけではないし、1+1が3や4になるのは国語(文学)に限ったことでもない。

一例を上げる。
水は100度で沸騰する。それは、老若男女、誰がやったとしても、違いはない。だから、それをもって1+1=2だと言えそうである。
とは言え、それには条件がある。まず、ここで「水」と称するのは、厳密に言えば、H2Oという物質である。そして、そのH2Oが100度で沸騰するのは、1気圧という条件の許においてである。
その条件を満たす限りにおいて、水は必ず100度で沸騰する。つまり、1+1=2である。

けれども、今、実際に湯を沸かそうとしている場所が、正確に1気圧だとは限らない。
それに、自然界にある「水」は、純粋なH2Oではなくて、それに何らかの成分が加わった不純物である。ミネラル分だったり、ゴミだったり、水道水なら塩素だったりが、含まれているのである。
「水は100度で沸騰する」というのは、自然界には通常存在しない条件によって実験した結果、得られる理論である。だから、実際の生活上では、例外が、しばしば発生する。

こんなことを言うと、そのようなものなら、理論など意味がない、と思われるかもしれないが、けっしてそういうものではない。まず、あるべき理論を構築して、それを実際のものに応用することが、重要なのである。
「H2Oは1気圧の状態なら100度で沸騰する」というだけで終わるのなら大して役に立たないかもしれないが、その知見を基にして、1気圧からどれだけずれると沸点がどれだけ変わるか、どのような成分がどの程度混じっているとどのようになるか、ということを、理論を基に検証して行くわけである。そのためには、「H2Oは1気圧の状態なら100度で沸騰する」という理論は、極めて重要である。

理論では、1+1=2になるけれども、実際には必ずしもそうはならない。けれども、1+1=2にならないのには、明確な理由があって、たとえば、「1に見えたものが、実際には1.023だったからだ」というようなことを明らかにしていくわけである。

さて、国語(文学)の場合、現物が存在しない理論的な作品というものはありえないから、どうしても、実在する作品を、研究の対象にせざるをえない。
先の例に当てはめれば、1気圧でない場所で、いろいろな成分の混じった不純物としての水を加熱して観察しているわけである。だから、当然の如く、1+1=2ではないことが、頻繁に起こる。

しかしながら、「だから国語(文学)は1+1=2ではない」というのは短絡である。1+1=2が本質なのは、国語(文学)も例外たるを免れない。
国語(文学)においては、水に対するH2Oに相当するようなものを、人為的に生成しがたいので、1+1=2の姿が見えにくいだけである。実在はしないけれども、概念としては1+1=2はあるはずで、それを基本にして、1+1が2にならない何らかの原因があって、3や4になっているのである。

だから、ハナから国語(文学)は1+1=2にならないものだと決めつけていると、1+1が3や4になっている意味も、判らないのである。
[ 2012/07/12 22:44 ] 理屈・屁理屈 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

富賀岡八幡宮

富賀岡八幡宮(江東区南砂)。

富賀岡八幡宮

同じ江東区に、有名な富岡八幡宮があるが、ここが元々富岡八幡宮を勧請した地で、寛永(1624~43)の頃に深川に移ったのだとも言われているらしい。それで、このあたりを元八幡とも称す。

神輿庫にある、立派な獅子頭。

富賀岡八幡宮

古そうな狛犬。

富賀岡八幡宮 富賀岡八幡宮 
富賀岡八幡宮 富賀岡八幡宮

台座の文字はほとんど剥落して読み難いのだが、かろうじて「享」らしき字がある。
作風から見て、流石に享保(1716~1736)とは考えられないので、享和(1801~1804)だろうか。

ほかにも古いものがある。
文政2年(1819)建立の出羽三山碑と、享保8年(1723)の石塔。

富賀岡八幡宮 富賀岡八幡宮

そして、登りやすそうな富士山…と思ったら、登頂禁止だった。残念。

富賀岡八幡宮

「自己責任」との懸詞かと推定する。

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)
[ 2012/07/11 22:45 ] 狛犬 東京/江東 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

同格雑感(2)

「続く」と書いたものの、その後気力が続かずに、大分間が空いてしまったが、「同格雑感(1)」の続き。

近代文法に限って言えば、(2)を「同格」と見ることは、それなりの妥当性があるようにも思われる。
「苺の赤い」の例で言えば、「苺の赤い苺」ということで、「苺」と「赤い苺」が同格になっているということである。何より、「苺の赤い」を受けた「の」によって、それが「同格」と判るのだから、ことばの流れにも逆らうことがない。
けれども、古典の文章には、(2)に当たるような「同格」の用法は見られない。
それなら、古典文法の場合は(1)を同格と、現代文法の場合は(2)を同格と見れば良いのかといえば、そういうわけにはいかない。

ポインタアの年をとってよぼよぼしているがいた。


の場合は(2)で、

ポインタア年老いていたく弱りたるあり。


の場合は(1)だと言うのは、まったく理に適わない。古典文と現代文とで、文の構造にそこまで断絶的な格差があるとは考えられない。
いずれにせよ、「ポインタア」の「の」のような「の」について、考えてみる必要がある。

さて、そこで、伊勢物語の例についてである。
まず1点指摘をしておくと、通常の参考書では、「嘴と脚と赤」と連体形になっている理由を、説明してくれていない。
通釈を見ると、大抵の場合、「嘴と脚とが赤くて、鴫の大きさの鳥が」となっている。が、それなら、「嘴と脚と赤」でなければならないはずだが、意図的にかどうかは判らないが、そこには触れられないのがふつうである。

「嘴と脚と赤き」となっているのは、これが「嘴と脚と赤き(鳥)」だからである。だから、「白き鳥」と「嘴と脚と赤き(鳥)」と「鴫の大きさなる(鳥)」が、それぞれ「同格」になっている、とでも説明してくれていれば、まだ判らないこともないのだが、そのように説明されているものは、ないように思う。それは恐らく、「嘴と脚と赤き」に「の」が付かないことの理由が、説明しがたいからではないかと推測する。
「白き鳥の、嘴と脚と…」と始まる文であっても、

白き鳥の、嘴と脚と赤し。


で終わる場合、あるいは、

白き鳥の、嘴と脚と赤き色に、…


と続く場合も、ありうるわけだから、「白き鳥」の時点で、ここが同格だと判断することは、困難なのである。

文の要素としては、「白き鳥」は、「嘴と脚と赤し」の主語(連用修飾語)であるに過ぎないのである。ここが「赤き」と連体形になっているのは、「嘴と足と赤き(鳥)」として、後続する「鴫の大きさなり」の主語(連用修飾語)になっているからである。
さらにここが「大きさなる」と連体形になっているのは、後続する「鴫の大きさなる(鳥)」として、「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」の主語になっているからである。

これを要すれば、「白き鳥」が、「嘴と脚と赤」いのであり、かつ、その「嘴と脚と赤」い鳥が「鴫の大きさ」なので、事柄として、「白き鳥」が「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」ことになっているのである。が、事柄としては、そうだとしても、文章としては、「白き鳥」が「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」ということが、書かれているわけではない。
(未完)

吉祥寺(その2)

吉祥寺(その1)」の続き。

参道脇に鐘楼がある。

吉祥寺

その鐘楼の裏手に、古い経蔵がある。
この経蔵は、貞享3年(1686)に建造したものが、安永7年(1778)年に焼失。焼け残った礎石を基に、文化元年(1804)に再建されたものという。都内に残る江戸時代建造の唯一の経蔵だそうで、文京区指定有形文化財になっている。

その経蔵の前に、虎がいる。

吉祥寺 吉祥寺

弘化4年(1847)製。
虎だけに、縞模様が刻んである。

吉祥寺

それで、経蔵はと言うと、鬱蒼とした木に覆われていて、こんな写真しかない。

吉祥寺

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)
[ 2012/07/08 21:45 ] 狛犬 東京/文京 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△