ぢいちゃまの牛

既に新学期が始まっているところも多いだろうが、わが墨田区の区立学校では、今日までが夏休みである。
夏休みと言えば宿題が付き物で、特に終盤になると、大変な思いをしている人〜これは当の子供だけではなく、それに付き合う大人もである〜も多いだろう。
それでこの時期、駈け込み需要で「読書感想文の書き方」の各エントリへのアクセスが増加するのが恒例になっていて、大袈裟に言えば、僕にとって夏の終わりを実感する風物詩になりつつある。
他人事のように言ってはいるが、むろん我が家も例外ではなく、夏休み中で僕が最後の休みの昨日は、1日娘と息子の宿題に付き合った。

さて、話は遡るが、僕が中学生の時、美術の宿題で、静物画を書かなければならなかった。提出日の前夜、切羽詰まって家にあった牛の置物を描いていたのだが、どうにも上手くない。
見兼ねた父親が、手伝ってくれて完成したのは良いのだが、光の当たり具合、影の出来具合を絶妙に描き加えたので、結果、到底僕が描けるようなレヴェルの画ではなくなってしまった。
だからと言って、もう一度書き直すような時間も既にない(ないから、父親が手伝ってくれたのである)し、仮に時間があったとしても、書き直したりしたら折角手伝ってくれた父親に申し訳ない。それで、気は進まないけれども、そのとても出来の良い画を、そのまま提出することにした。
それを見た先生も、僕が本当に自力で書いたものなのかどうか、普段の画を見ていれば判りそうなものなのだが、何故か、優秀作品として図工室だったかどこかに飾る何枚かの1枚に選ばれてしまった。
誰からも、僕が描いたことを疑うようなことを言われた覚えはないのだけれども、それを見る度にどうにも恥ずかしいような、いたたまれないような気分になって、こっそり剥がして捨ててしまいたいような気がしたものである。

我が家では、その話を「ぢいちゃまの牛」と言う。それは、「お父さんの子供の頃の楽しい笑い話」ではあるのだが、それと同時に、僕が子供の宿題に直接的に手を入れないことの宣言でもある。要は、お父さんはやってあげない、宿題は自分でやれ、ということである。
子供が自力でできるようになるヒントだとか、何をどう調べたら良いかを教えることは、可能な限りしているつもりではあるが、だからと言って、子供が宿題を仕上げるのが楽になるということはない。むしろ、僕が目を光らせているから、適当に終えられない分、かえって大変かもしれない。
もちろん、僕にとってもやってあげる方が楽なのだが、僕が楽するためにそんなことをするくらいなら、いっそのこと、放ったらかしておいて何も教えない方がマシである。
親が楽をしようとしたら、子供のためにならないのである。

ともあれ、明日から9月である。
[ 2012/08/31 23:32 ] 自然・季節 風物詩 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

兎の数え方

中学校の時、国語の先生が、生徒を次々に指名して、いろいろな物の数え方を答えさせていた。
何故、中学生にまでなってそんなことをやっていたのかはまったく記憶にないのだが、とにかく中学の国語の授業だったのは間違いない。

 先生「猫」
 生徒A「疋!」
 先生「鉛筆」
 生徒B「本!」
 先生「象」
 生徒C「頭(とう)!」
  …

というような具合に続いて来て、僕の番になる。

 先生「兎」
 僕「羽(わ)!」
 先生「えぇ~?! 兎だよ~!」
 僕「羽だよ、羽!」
 先生「え~?!」

幸いなことに、僕に同調してくれる級友が何人かいて、その場は先生も「調べとく」で矛を収めたのだが、その後、この話題が蒸し返されることはなかった…。

兎の耳が鳥の羽のようだからとも、兎肉を食べるのを憚って鶏肉と偽ったためだとも言われるが、兎を「羽」と数えることはどちらかと言えば常識に属する事柄だから、それ自体は殊更に取り上げるに値する知識ではない。
単に、昨日も取り上げた大仏次郎の『幻燈』を読んでいて目にした一節から、ふと昔のことを思い出しただけである。

「兎を捨てて行くんだって?」
「そうでさあ」
と、男は無感動な様子で答えた。
「うっちゃって行くんですよ。何疋もね」
兎を算えるのに、昔からの称え方で鳥のように二羽三羽というものを何疋といったところに、その男が兎を知らないのだし、興味もないのだとわかった。(町なか)

三栖神社

昔撮った狛犬。

三栖神社(みすじんじゃ)(京都市伏見区)。

新しめの狛犬と、

三栖神社 三栖神社

古めの狛犬。

三栖神社 三栖神社

2対目の狛犬、別の神社のもののように思っていたのだが、ファイルの撮影時間を見ると、次の神社まで移動するほどの間隔がない。
それで、改めて確認したところ、同じ神社の狛犬だったということが判った。
昔撮った狛犬をアップしている趣旨に沿った再発見(?)である。

(Canon EOS20D + EF17-40mm F4L USM)
[ 2012/08/29 14:14 ] 狛犬 京都 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

『幻燈』より

以前、一文の途中で観点が転換する例を、幾つか上げたことがある。たとえば、岡本かの子の『みそっかす』の例など。

大仏次郎の『幻燈』という小説に、次のような文があった。

ある日、この女たちが屋敷に集まってから助太郎の母親の居間で朝から入念に化粧して、衣裳も更え、競って匂いの立つように美しく見えた。(家)


「入念に化粧して」「衣裳も更え」たのは「この女たち」だから、この文は「女たち」を主語とする文に見える。
が、文末まで読み進めると、「美しく見えた」と、「女たち」の様子を描写する客観的な表現になっている。
つまり、文の途中で観点が転換しているわけである。

なお、「客観的な表現」というのは、一義的には作者の視点ということなのだが、前掲の引用の前に、

荻江節とか宮園節とかの名のある太夫が来ていたと後で家人が話していたのを、当時はなにもわけがわからずに助太郎は聞いていた。


とあることを併せ見れば、助太郎の視点だと言っても良いのかもしれない。

藤森神社

昔撮った狛犬。

藤森神社(ふじのもりじんじゃ)(京都市伏見区)。

藤森神社

狛犬。なかなか大きい。

藤森神社 藤森神社
藤森神社 藤森神社
藤森神社 藤森神社

藤森七福神像。

藤森神社

ところで、この神社、菖蒲の節句発祥の地として名高いらしい。
それで、だと思うが、こんな像もある。

藤森神社

ただ、発祥が何時頃で、どんな謂れがあるのかは、良く分からない。

(Canon EOS20D + EF17-40mm F4L USM)
[ 2012/08/28 23:23 ] 狛犬 京都 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「すごくすごい」文章

齋藤孝の親子で読む偉人の話 4年生』という本を見ていて、とても気になった。
全部を読んだわけではないのだが、「すごい」「すごく」の乱発が目に余る。良いことが書かれているのかもしれないが、「すごい」「すごく」があまりにも気になって、内容は頭に入っていない。

もちろん、「すごい」「すごく」を一切使うな、というのではない。が、程度問題である。
「ダーウィン」では12ページ約100文中に10回、「ピカソ」では9ページ約75文中に9回、「すごい」「すごく」が出てくる。「約」というのは、それほどきちんと数えていないからであるが、1ページに1回くらいの割で出てくるのには違いない。

実際の例は、こんな感じである。

で、この「スケルトンカエル」は、どうして生まれてきたかっていうと、ある学者さんが、色のすごくうすいカエルどうしに子どもを生ませてつくったんだ。何度も何度も色のすごくうすいカエルどうしで子どもをつくりつづけていると、どんどんその色のうすさがすごくなって、最後には、すけて見えるようになっちゃったんだ。(ダーウィン)


2文中に3回も「すごく」が出て来る。
最初の「すごく」は別に問題はないだろう。2番目の「すごく」は、あらずもがなという気はするが、良しとしよう。が、3番目の「うすさがすごくなる」というのは、何だか妙な言い方である。
「どんどんその色がうすくなっていって」とか、「どんどんその色のうすさが増してきて」とか、ここまで「すごく」を重ねなくても、小学生が理解できる言い方は、ほかにいくらもあるだろう。

前に書いた通り全部は読んでいないが、僕の見た限りでは、全体的にこんな感じの文章である。
子供の国語教育に影響力のある著者だけに、もう少し豊かな国語表現で語ることはできなかったものか、と思う。

「全然」(その8)

もうええ加減にせい! という感じもしないではないのだが、否定と呼応しない「全然」の用例を追加する。
これまでのものよりは少々新しめの用例。

いのししは、おこってはなをふがふがさせながら、りゅうのいるほうへ、とことこ、はしっていきました。
「おかしい、たしかに、おかしい。とらたちは、いそがしそうにチューインガムをかんでいたし、さいのだんなも、つのをブラシでみがくのにいっしょうけんめいだ。
しんにゅうしてきたやつをつかまえなくてはたいへんだ。どうも、きにくわん! ぜんぜん、へんちくりんだ! いったいぜんたい、なにがおこっているのやら、さっぱりわからん。」


ルース・スタイルス・ガネット作、渡辺茂男訳『エルマーのぼうけん』の一節(「エルマー サイにあう」)。
僕が子供の頃に読んだ本。初版が1963年(昭和38年)の古典的名作である。

山本周五郎の『青べか物語』(1960年)や井伏鱒二の『黒い雨』(1965〜66年)とほぼ同年代。
これまでに上げていなかったようなので、この機会にそれらの用例も、上げておく。

タクシーは東京を走りぬけ、本所へはいり、錦糸町へと向かっていた。こっちへ来たのは戦後はじめてのことで、荒地や沼や田ばかりだったのが、ぜんぜん工場や家でふさがっているのに驚かされた。(『青べか物語』)

「しかし工場長、それはお断りします。いくらノートを取って来たって、わたしには亡者を導く力がありません。私は仏教については全然素人です。(『黒い雨』)

小さい狛犬(3)

昔撮った小さい狛犬。

京都にある某神社。

小さい狛犬

末社の社殿前に鎮座している。

小さい狛犬 小さい狛犬

小さいけれども、凛々しい。
[ 2012/08/18 22:11 ] 狛犬 京都 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

Rainbow

今朝5時頃、我が家から見て西の空に、大きな虹が掛かった。

Rainbow

マンションや工事のクレーンが入っているのは、位置的に致し方ないということもあるのだが、これらを外すと、大きさの感じが掴めないからでもある。
朝から爽やかな気分になり、…そして、また寝た。

そんなわけで、今日のBGM。

Ritchie Blackmore's Rainbow "Ritchie Blackmore's Rainbow"
 ~レインボー『銀嶺の覇者』~


銀嶺の覇者


本当は "Rainbow Rising" を聴こうと思ったのだが、どうにも見つからなかった。
[ 2012/08/14 22:36 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「絶大」

スポーツ新聞の記事のことばづかいにいちいち目くじらを立てるのもいかがなものかとは思うのだが、記録しておけば、今後こういう言い方が一般化した時に、初期の使用例としての意味が出ないとも限らない。

男子サッカーのロンドン五輪代表FW永井謙佑(23)=名古屋=が12日、欧州移籍を熱望した。絶大なスピードを生かし、2得点と活躍した永井は、今季ドイツ1部に昇格したデュッセルドルフが獲得に乗り出すなど一躍注目株に。3位決定戦で韓国に敗れ4位に終わったチームはこの日の帰国をもって解散した。(スポーツ報知大阪版


言うまでもなく、「絶大」は「極めて大きい」意味だから、速さを表わすことばの形容としては、ふつう、使われない。「圧倒的」とか「抜群」などが、適切だろう。
どうしても「絶---」を使いたいのなら「絶対的」だろうが、ニュアンスが若干違うようにも思う。