「暗剣白梅香」

今日、時代劇専門チャンネルで『鬼平犯科帳』をやっていたのをたまたま見た。中村吉右衛門ではなく、先代の松本幸四郎(白鸚)主演のもので、話は「暗剣白梅香」。
中で、長谷川平蔵の暗殺を依頼した元締・三の松平十と辻斬り・金子半四郎が人気のない社で落ち会う場面があったのだが、注目すべきことに、そこに狛犬が登場した…といっても、『鬼平犯科帳』を見ていてそこに注目する人はほとんどいなかろうが。

さて、登場した狛犬は、こんな感じのものだった。

妙見山別院

画面が白黒で闇夜の場面、しかも狛犬をアップで撮っているわけでもないのだから定かには言えないが、新しそうな感じで、白い狛犬の姿が浮かび上がっていた。
もちろん、いつの時代でも造りたての狛犬はいて当然だから、時代劇に真新しい狛犬が出て来たとしてもまったく不思議ではない。
が、上記のものは昭和40年代以降に量産されたタイプで、当然ながら平蔵在世の1700年代後半には、こういう姿の狛犬はなかった。
「暗剣白梅香」が放映されたのは昭和44年(1969)、ちょうどこのタイプの狛犬があちこちに建てられ始めた頃のことである。

きちんと時代考証をしていれば、こういうタイプの狛犬が『鬼平犯科帳』に登場することは…いや、そんなことに注目する人はほとんどいないから、どうでも良いことである。ただ、薀蓄を語ってみたかっただけである。
[ 2012/10/30 16:09 ] 狛犬 その他 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△

ピントのヒント

富岡八幡宮の狛犬の横顔の写真を見たある方から、「良くピントが合いますね」という感想を頂戴した。
よくよく見れば、それほど合っていないものもあるし、過去のそれ以外のエントリにある写真も合わせれば、一見して外れている写真も少なからず曝している。
だから、マグレ当たりのようなものを玄人でもないただ1人から褒められたからといって、まったく誇ることではないのだが、物はついで、この機会に「ピント」について書くことにする。
書く内容は、タイトルのダジャレのレヴェルから推して知るべし。ただし、優れた政治評論家が政治家になったからといって必ずしも良い政治ができるわけではないことを裏返して考えれば、僕程度の写真の腕前の者が書いたものが、誰かの役に立つことがないとも限らなかろう。
なお、この「優れた政治評論家が…」云々は一般論で、別に特定の誰かを指しているわけではない。邪推なきよう…。

さて、一昔前なら、記念撮影でVサインをしたところ、前に突き出した手にピントが合ってしまって顔はボケていた、とか、二人並んで撮ったら、二人には合わずにその向うの背景にピントが合ってしまった、という経験を持っている方もいるだろう。
今では人の顔を認識する機能を持ったカメラが当たり前になり(ペットの顔を認識するカメラすら珍しくない)、そういう典型的なピンボケが極度に減ったから、写真を撮る時に、あまりピントを気にする必要もなくなった。
が、狛犬の写真を、特にアップで撮る場合には、「狛犬認識」なんていう機能を持ったカメラはまだ開発されていないから、未だにピントを合わせるのが難しい。さらに、石が摩耗していると、目を凝らして見ても、合っているのかいないのか、さっぱり判らないこともある。
それで、シャッターボタンを押せばたちどころに音もなくピントが合う時代に、敢えてピントについて書いて見ようと思ったのである。

1)大抵の写真はピントが合っていない。
語弊のある言い方だが、厳密に言えばピントというのはそうそう合うものではない。
何故なら、ピントは撮像面(CMOSやCCDなど。最近では稀だがフィルム面も)と平行な平面上にしか合わないものだからである。
もし撮像面から50cmの距離にピントが合っているなら、厳密に言えば50.1cmのところにはピントは合っていない。
ただし、人間の眼はそこまで精密なものではないから、「被写界深度」(=ピントが合っているように見える範囲)というものがあって、被写体がその範囲内に入っていれば、それは「ピントが合っている」ということになる。
被写界深度の深浅にはいくつかの条件があるのだが、簡単に言うと、望遠は広角より浅く、遠距離は近距離より深い。だから、風景写真(広角かつ遠距離)ではあまりピンボケは起こらないが、接写(多く望遠かつ近距離)ではピントを合わせるのが難しい。
また、絞りを開ければ浅くなり、絞れば深くなる。
この「絞り」というのはカメラに詳しくない人には判りにくい概念だが、近視の人なら、ハッキリ見えないものが、眼を細めたら見えるようになることを、知っているだろう。これは、絞りを絞るのと同じ効果があるからである。

上に書いたことは、どちらかというと薀蓄に近いことで、良く判らなくてもそれほど差し支えのあることではないので、とりあえず、アップで撮れば撮るほど被写界深度は浅くなり、ピント合わせは難しくなる、という程度に思っていれば良いだろう。

2)大抵の写真はピントが合っている。
1)と矛盾するようだが、実はピントが合っていない写真というのは、ある意味において滅多にない。
大抵は、画面のどこかにピントが合っているものである。問題は、どこにピントが合っているのか、ということである。

それでは、次の4枚の写真を、見比べていただくことにしよう。
モデルは、我が家のトンデモネズミ君。
このトンデモネズミ君、昔々、本郷かどこかの雑貨屋で買ったもの。本当は言うまでもなくウサギなのだが、トンデモネズミにどことなく風貌が似ているので、我が家ではそう呼んでいる。

(1枚目)
manxmouse
(2枚目)
manxmouse
(3枚目)
manxmouse
(4枚目)
manxmouse

ピントが合っている写真は、4枚の内のどれだろうか?(どれも合っていない、という意見は、この際受け付けないことにする。)

答えは、どの写真もピントは合っている、である。
1枚目は鼻に、2枚目は目に合っている。3枚目はちょっと外してしまった感じを受けるが、実は左耳の内側に合っている。4枚目はまったくのピンボケに見えるが、後ろの床には合っている。
どれも画面内のどこかにはピントが合っているのに、その位置によって、これだけ違うのである。

もちろん、トンデモネズミ君を撮影しているわけだから、4枚目は論外である。画面内にピントの合った箇所があったとしても、一般的にはこれをピンボケと呼ぶ。3枚目も顔がぼんやりとしか見えないから対象外として、成功と言えるのは、1枚目か2枚目のどちらかだろう。

では、どちらの写真がより良いか。
トンデモネズミ君は鼻もとてもチャーミングだから、1枚目にもそれなりの味はあろうけれども、2枚目の方が、円らな瞳で見詰められている感じがするのではないだろうか。
先に書いた被写界深度の関係で、2枚目の写真も、鼻を見ればピントは合っていない。けれども、こういう写真を見る時、どうしても目に視線が行くものである。耳も大きくボケているが、目に見入っているから、それほど気にならないはずである。
つまり、こういうアップの写真を撮る時には、ピントは目に合わせるのが妥当な選択なのである。

この「ピントは目に合わせる」は、トンデモネズミ君の撮影に限って有効だというわけではなく、狛犬撮影にも応用できる。
狛犬の場合、ここまで寄って撮ることは滅多にないから、被写界深度はもう少し深くなる。とは言え、狛犬は顔の凹凸が大きいから、ある程度寄って撮ろうとすると、被写界深度から外れる部分が多くなる。そこがなかなか難しい。
冒頭に書いた富岡八幡宮の狛犬の横顔の写真は、何とか一生懸命、目にピントを合わせることを心して撮ったもので、それがやや成功した、(僕にしては)上出来な事例である。

ただし、トンデモネズミ君の鼻にこの上なく惹きつけられる人もいるだろうから、どこにピントを合わせるのが正しいかは、かならずしも杓子定規に決められるものでもない。
(OLYMPUS PEN E-PL2 + YASHICA ML MACRO100mm F3.5)
[ 2012/10/29 19:52 ] | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

『怪人二十面相』

江戸川乱歩『怪人二十面相』

怪人二十面相 (少年探偵)

言わずと知れた、「少年探偵」シリーズの第1冊。「ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団」でお馴染み(?)の少年探偵団は、この作品の中で結成される。
事情があって(もとより大した事情ではないが)、シリーズ2冊目の『少年探偵団』を先に読んだのだが、順番を守らなかったからと言って、その面白さが減殺されるものではまったくない。

主な読者層と年齢が重なる、名探偵明智小五郎の助手・小林少年が活躍するところも、読者が作品に嵌まり込む要因になっているだろう。事件が小林少年の手に負えない事態に展開した時に、満を持して明智探偵が登場するのも心憎い。
あるいは、小説というより、当時の「現代版・子供向け講談読み物」といったようなものと考えた方が良いのかもしれないが、一読すれば、人気を博した理由は良く判る。

現代の推理小説ファンから見たら、高度な推理とは到底言えないだろうし、二十面相の変装がいかに巧みだとしても、家族にも見破れないというのは、現実性に乏しいとも言える。もし粗筋だけを読んだとしたら、随分荒唐無稽な感じがするだろう。
が、作品を実際に読んでいると、そんなことを感じさせないのは、文章と構成の巧みさである。テンポ良く話が進んで行くし、何より、山場が盛りだくさんで、読者を飽きさせない。

大人になると、こういうものに対して、所詮は子供向けだとか、70年以上前の遺物だとか、否定的なことを言ってみたくなるものである。だが、純粋に作品そのものを楽しむ心を以ってすれば、この上もなく面白い物語である。
[ 2012/10/23 22:01 ] 本と言葉 子供の本 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

スーパー腹話術

~前置き~
このエントリには、江戸川乱歩の『少年探偵団』の種明かしに繋がることが書かれている。『少年探偵団』を読んだことがなくて、結末が判ってしまうと推理小説は面白くないと考えている人は、読まない方が良い。


「スーパー腹話術」と言えば、むろんのこと「いっこく堂」である。
彼の腹話術を見聞きしていれば、その話術の素晴らしさに、なるほど「スーパー」と呼ぶに相応しい、と直感的に感じられるけれども、実は、「スーパー」と呼ばれるのは、そういう単純な理由だけではないのである。
彼の「スーパー」たる所以は、腹話術の常識では考えられない音を、難なく発音していることにある。

試みに、まず、「晴れるだろう(ハレルダロウ)」ということばを、唇を動かさずに喋ることに挑戦してみて欲しい。巧拙を問わなければ、ある程度訓練をすれば喋れそうな気がするだろう。が、「雨が降るだろう(アメガフルダロウ)」になると、容易には言えない。「雪だろう(ユキダロウ)」は言えても、「曇るだろう(クモルダロウ)」は言えない。
同じように、「あたし、利口ね(アタシリコウネ)」は言えても「私、馬鹿よね(ワタシバカヨネ)」は言えないし、「父がくれた(チチガクレタ)」は言えても「パパがくれた(パパガクレタ)」は言えないのである。

これらの言える、言えないにどんな違いがあるかというと、「言えない」には「ア」「クル」「タシ」「カ」「パパ」の音があり、「言える」にはそれらがない。
m/w/p/bを子音に持つ音は、上下の唇を一旦閉じ合わせてから開くことによって発音する(=両唇音)。だから、唇を動かさずには発音することができないのである。

子供の頃の思い出話だが…。小学校の最寄駅から2つ目が金沢文庫という駅だった。
この「カナザワブンコ」を、口に両手の人差し指を入れて、口の両端を左右に引っ張りながら発音しようとすると、上下の唇がくっつかないから、「ワブ」とは発音できず、「カナザア……」……(以下略)。

閑話休題。
そこで、腹話術師は、両唇音を含むことばを巧みに回避して、台詞を作るのである。逃げと言えば逃げなのだが、両唇音を除外して、不自然でない会話を成り立たせることは、存外、難しい。そこに、腹話術師の腕の見せどころがあるのだろう。

さて、いっこく堂である。
彼の腹話術には、こういう発音上の制約がない。「バ」でも「モ」でも、平気で発音している。もちろん、腹話術である以上、唇は動かさない。これは、舌を下唇の代わりに使って両唇音を出しているらしいのだが、そのことによって、どんなことばでも自由に喋ることができるようになっているのである。
理屈は判るが、言うは易しで、実際問題、簡単にできることではない。それをいとも簡単にやってのけるのが、「スーパー」たる所以なのである。

ところで、何故、このようなことを書こうと思ったのかというと、先日、『少年探偵団』を読んだからである。
この作品には、怪人二十面相が、腹話術を使って周囲を混乱させようとする場面がある。

「おい、おい、だ安心するの早いぜ。二十相の字、不可能ということがないのをすれたかね。」

「ウフフ……、どこにいるとうね。あててえ……。だが、そんなことより、黄金塔だいじょうなのかね。二十約束を違えたりはしないはずだぜ。」

「ウフフフ……、おい、おい、頭さん、きみは二十相が、それほどお人よしだとっているのかい。床のにせので、ほん土の中にうてあることぐらい、おれが知らないとでいうのかい。」

「ウフフフ……、っくりしたかい。二十相の腕あこんなんさ。黄金塔たしかにちょうだいしたぜ。それじゃ、あばよ。」


続いて、明智小五郎に正体を見破られた二十面相が、腹話術を使って逃れようとする場面。

「フフフ……、明智先生も老いれたんだねえ。二十相をとりにがした苦しぎれに、何知らない老人に罪を着せようなんて……。おい、先生、をあけて、よくるがよい。おれここにいるんだぜ。二十ここにいるんだぜ。」


それに対して、明智も腹話術で応戦する。

「おいおい、子どしはよしたえ。
くが腹術を知らないとでっているのか。ハハハ……」


二十面相のことばにも、明智のことばにも、太字で示した分だけ、両唇音が含まれている。つまり、常識的に言えば、この台詞を腹話術で喋ることはできないのである。

いっこく堂のいなかった当時の腹話術師は、『少年探偵団』を読んで、「腹話術ではそんなこと喋れないよ」と思ったかもしれないけれども、この時二十面相と明智が披露したスーパー腹話術は、60数年後に現実のものとなるわけである。

『小さいおばけ』

オトフリート・プロイスラー『小さいおばけ』

小さいおばけ

今を去ること7~8年、長女がまだ幼稚園の頃のこと、『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズと同じ作者の書いた話ということで、近くの子供図書館で借りて来た。
貸出し期限が来て返してしまったので、半分くらいまでしか読めなかった…僕が。子供は読んだので、継続して借りて来ることもなく、中途半端な気分だった。読みさした感触では、間違いなく面白そうだっただけに、なおさらである。
それで、いっそのこと買おうと思って書店に行ったのだが、図書館にあった大塚勇三訳の本は、絶版になっていた。
幸いなことに、はたさわゆうこによる新訳が出ていたのだが、プロイスラーと言えば大塚勇三である。それに、近年の訳は、どうにも締まらない文章でがっかりすることが少なくないから、買うかどうか少々迷った。が、新刊ではこれしか買うことができないのだから、仕方がない、諦めて買うことにした。
ところが、読んでみると、実に良い訳だった。子供に阿って無闇に易しくし過ぎることもなく、かと言って難しくもなく、テンポのある文章が、作品の面白さを引き立てている。

ドイツのフクロウヤマに暮らす小さいおばけ。夜中の12時から1時までの「おばけ時間」だけ起きていたのだが、ある日突然、昼の12時に目が覚めて昼おばけになってしまう。それが原因で起こる騒動の数々…!
そんなある日、小さいおばけの目の前に、325年前に追い払ったスウェーデンの将軍トルステン・トルステンゾンが再び現われる。…
小さいおばけは、何故突然昼おばけになってしまったのか。そして無事元の夜おばけに戻れるのか…?

先日、家でゴロゴロしていた時、手の届くところにあった本書を再読したのだが、何度読んでも楽しい、児童文学の傑作である。
[ 2012/10/15 23:23 ] 本と言葉 子供の本 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

深川公園(附・富岡八幡宮)

深川不動堂(江東区富岡)の東西両側に分れて、深川公園という公園がある。
元は富岡八幡宮も含めて永代寺の境内だった場所だが、廃仏毀釈で永代寺が廃寺となり、その一帯が公園になったもので、明治6年(1873)の太政官布達第16号(注)によって定められた日本最初の公園の一つなのだそうである。
(注)太政官布達自体は、「三府を始、人民輻輳の地にして、古来の勝区、名人の旧跡等、是迄群集遊観の場所(東京に於ては金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内の類。…従前高外除地に属せる分は、永く万人偕楽の地とし、公園と可被相定に付、府県に於て右地所を択び、其景況巨細取調、図面相添、大蔵省へ可伺出事」と、深川は明示されていないが、諸資料により、この時の公園であることは間違いないようである。

不動堂の東側に当たる部分、富岡八幡とはさして広くない道を隔てた所が児童公園になっているのだが、その南東の隅の植え込みの中に、大きな石がゴロゴロしている場所がある。

深川公園

燈籠の残骸と見られるような石があるから、旧永代寺(注)にあったものではないかと思われる。
(注)現在も、不動堂の参道に、永代寺という名の寺がある。が、これは、元の永代寺が廃寺となった後に、塔頭の一つだった吉祥院が名称を継承したものである。

深川公園 深川公園 深川公園

中に、一風変わった石がある。

深川公園

ご覧のように、顔がある。
実はこれ、『THE狛犬コレクション―参道狛犬大図鑑』に取り上げられているもので、三遊亭円丈が狛犬の道に入る切っ掛けになったものの一つだそうである。円丈師はこれを、「何らかの理由で無惨にけずられ、かろうじて頭だけが残され」た「獅子」としている。
実際のところ、これが何だったのかは判らないが、削られてしまわない前の姿を無理に何とか想像してみても、通常の参道狛犬のようにも思われない、謎の石像である。

深川公園 深川公園

この公園、暫く前に、遊具の入れ替えのために大掛かりな工事をしていた。それで、この謎の石像がどうなったか、気にはなっていたのだが、工事完了後、行く機会がなかった。
子供と一緒の時に前を通ったことはあるのだが、我が子にとっては以前の遊具の方が魅力的だったようで、入ろうとしなかった。
一人で八幡宮に行った時には…うっかり忘れていた。
それで、久しぶりに確認したのだが、健在だった。と言っても、元の状態を保っているとはいえ、これを「健在」と言うのが妥当かどうかは、微妙なところではあるが…。

それでも、不動堂や八幡宮の中ならともかく、公園にあってこれが破棄もされず残っているのは、奇跡的と言って良いように思う。

【附】
富岡八幡宮、狛犬の横顔。

富岡八幡宮 富岡八幡宮 富岡八幡宮
富岡八幡宮 14富岡八幡 富岡八幡宮

(OLYMPUS PEN E-PL2 + M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)
[ 2012/10/12 22:22 ] 狛犬 東京/江東 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△

カエサル暗殺地点

だからどうした、と言えば言えるのだが、こういうニュースは何だか想像を掻き立てられる。
何しろ、2000年以上前のことが、明らかになった(かもしれない)のである。
それで、備忘の意味も含めて、記録する。

カエサル暗殺地点を特定=ローマ中心部で-スペイン研究チーム

【マドリードAFP=時事】スペイン国立研究協議会の考古学チームは10日、2056年前に古代ローマの独裁官カエサル(シーザー)が暗殺された正確な位置を特定したと発表した。
同チームによると、ローマ中心部のトッレ・アルジェンティーナ広場で、幅3メートル、高さ2メートルの構造物を発掘。これは紀元前44年のカエサルの死後、養子で後継者となったアウグストゥスが暗殺地点に建てさせたもので、「この発見により、カエサルが元老院を主宰中に議事堂で刺されたことが確認された」としている。
研究チームは遺跡と古代文献を照らし合わせて結論を導いたとしているが、カエサルがその場で即死したのか、別の場所に運ばれて死亡したのかは分からないという。(2012/10/11-09:14)(時事ドットコム)

[ 2012/10/11 22:22 ] 歴史 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

"Americana"

"tempest" と一緒に買って来た。昨日から今日にかけてのBGM。

Neil Young with Crazy Horse "Americana"
 ~ニール・ヤング・ウィズ・クレイジー・ホース 『アメリカーナ』~


アメリカーナ

6月に発売されていた、ニール・ヤングの最新作。アメリカのフォークソングの名曲を集めた作品だということで、『ザ・グレイト・アメリカン・ソング・ブック』のようなものを想像したのだが、クレイジー・ホース名義だけあって、力強いロックになっている。
お馴染みの "Oh Susannah"(オー・スザンナ)から始まるが、このアレンジではあまりお馴染みな感じがしない。
"God Save Our Queen"(神よ女王陛下を守り給え)も良いのだけれど、"Jesus' Chariot (She'll Be Coming Round The Mountain")"(ジーザス・チャリオット)が圧巻。



ニール・ヤング。御年66歳。
[ 2012/10/06 00:51 ] 音楽・映像 洋楽 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

"tempest"

今日のBGM。

BOB DYLAN "tempest"
 ~ボブ・ディラン『テンペスト』~


テンペスト・デラックス・エディション(初回生産限定盤)

今年で御年71歳になるボブ・ディランの最新作。先月末に出ていたのだが、ここのところ何かと忙しくて、今日漸く手に入れた。
初回限定の「デラックス・エディション」には「ボブ・ディランがフィーチャーされたレアな雑誌の表紙集めた60ページにも渡るブックレット」というどうしようもないものが付いている。余程のディラン好きでなければ無理に手に入れなければならないようなものではないが、280円でこれが付いて来ると思えば、差額を惜しんで通常版を買うこともない。

シェークスピアの最後の戯曲が『ザ・テンペスト』であることから、これがディランの最後の作品になるのではという憶測が出たが、ディランは、シェークスピアは『ザ・テンペスト』、このアルバムは『テンペスト』だから「まったく別のものだ」と否定したそうだ(ライナー・ノーツより)。が、どっちにしろ、ディランの言うことなど、真に受けない方が良い。

ところで、ふと気づいたのだが、僕がディランを聴くようになってから30年も経つけれども、その頃のディランは、今の僕より若かった。

内容は…これからじっくりと聴く。

『少年探偵団』

江戸川乱歩『少年探偵団』

少年探偵団

息子(小学2年)が何か本を欲しがったので、書店に行った。そこで見つけて買った本。
名探偵明智小五郎と怪人二十面相が対決する「少年探偵」シリーズの2冊目である。書棚には、第1冊目の『怪人二十面相』も並んでいたのだが、家内がこちらを選んだ。
あえてこちらを選んだのは、子供がより興味を持ちそうだという判断…なのかと思ったのだが、実は、『少年探偵団』が『怪人二十面相』の続編だということに、気づいていなかっただけだった。それで、後日、『怪人二十面相』も買って来た。

このシリーズ、知らない人もないような有名なもので、ほかの叢書にも収められているが、これは何とも装丁が素敵である。文字が小さすぎもせず、大きすぎもせず、非常に読みやすい。乱歩の文章も、子供向けに書かれたものだから当然だとはいえ、少し古風な気はするかもしれないが、とても読みやすい。
改めて読んでみると、発表当時の少年たちが夢中になって読んだ訳が良く判る。
今の大人の目から見れば、トリックもそれほど難しいものではないから、二十面相がどうやって宝物を盗み出したか、どうやって警察の目を掻い潜って逃走したか、容易に推理することはできるだろう。それに、二十面相がいかに変装の名人だとしても、家の秘書や店の支配人に変装したのを見破れないなどというのは、いくら何でも設定に無理があるとも言える。が、それでもなおかつ、読んでいて楽しい。

ところでこの本、解説を尾崎秀樹が書いている。
むろん子供向けの本だから、大したことは書いていないのだが、興味深い点がないでもない。
推理小説の解説には不文律があって、けっして結末を書いてはいけないことになっている。
まず解説から読むという読者もいるので、解説で謎解きをしてしまうと、作品を読む楽しみが減殺されてしまう、というのがその理由である。が、尾崎は、この不文律を、物の見事に破っているのである。
この話には大きく二つのヤマがあるのだが、その両方とも、どのような結末になっているかを、いとも簡単に書いているのである。

そういう意味では、最悪の解説だとも言う人もいるだろう。が、僕はそうは思わない。
推理小説と雖も、その本質は小説である。
たとえば、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読もうとする人で、坂本龍馬が凶刃に斃れることを知らない人は、まずいないだろう。仮に知らなかったとしても、一度読んで龍馬の最期を知ってしまったら、もう二度と読めない、などということはない。面白い小説は、結末が判っていても、何度もくり返して読むものである。

それと同じで、推理小説にとって、推理が大きな要素であるのは間違いないが、結末が判ってしまったら興味の大半が減殺されてしまうとしたら、それは小説としては大して面白くないということなのである。
シャーロック・ホームズなど、結末を知った上で、何度もくり返し読んでいる人が、世界中に数限りなくいる。

結末が判っていて、それでも楽しめる…それが、名作というものである。
[ 2012/10/05 22:57 ] 本と言葉 子供の本 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△