「役不足」(2)

僕も以前取り上げたことがあるのだが、「役不足」ということばについて、中川@やたナビさんが最近取り上げていた
一見、「力不足」の意味で取れそうな、太宰治の『新ハムレット』の用例。
孫引きすれば、

王。「そんなところだろうと思っていました。さあ、ガーツルード、それでは、わしも一緒に失礼しましょう。いや、なかなか面白かった。ホレーショー、ウイッタンバーグ仕込みの名調子は、どもりどもり言うところに特色があるようですね。」
ホレ。「いやしい声を、お耳にいれました。どうも、此の朗読劇に於いては、僕は少し役不足でありました。」


というものである。

この「役不足」は、ホレイショーが役に満足していない意味で使われているというのである。
この作品は、昭和16年(1941)頃のものらしいから、力不足で役を十分に演じ切れなかったという意味の「誤った」使い方の事例だとしたら、かなり古い例と言って良いかもしれない。が、中川説に従えば、そうではないことになる。これは、僕もその通りだろうと思う。

この作品が書かれた頃には、たぶん「役不足」の「誤った」使い方はまだ発生していなかったのではないかと思う…のだが、そうそう簡単に、それを断言できないところが難しい。
1例でも「誤った」使い方があったら、「発生していなかった」とは言えないから、そう言うためにはありとあらゆる文献に目を通して、用例がないことを確認しなければならないのだが、そんなことは、実際にはできるはずがない。
だから、恐らくその当時の読者が迷いもしなかったであろう用例を探し出しては、さんざ悩んだ挙句に、「これは本来の使い方である」という当り前の結論をひとつひとつ出して行って、状況証拠を積み重ねて行くことが、馬鹿々々しいようだけれども必要なのである。
それで、何となく気になっていた古い用例を取り上げることした。

佐々木味津三の『右門捕物帖』。
ちゃんと調べたわけではないけれども、昭和7年(1932)に発表された作品。同9年(1934)の全集にも収録されているらしい。

「さあ、十手だ。どたばたしねえで、ついてきなよ!」
同時に、つかつかとそこのお勝手口から押し入りました。
「だ、だ、だれだ、だれだ。変なところから黙ってはいりゃがって、どこのやっこだ」
果然、下男とおぼしき若いやっこが飛び出してきて武者ぶりつこうとしたのを、相手になるような名人ではない。
「おまえなんざ役不足だ。用のすむまで、ゆっくり涼んでいろい」
ダッと、あっさり草香の当て身をかまして寝かしておくと、声をたよりに奥座敷を目ざしました。(「子持ちすずり」5)


捕物の名人右門が踏み込んだ時、「若いやっこ」が飛びかかって来る。それに対して右門が「役不足だ」というのだから、「お前じゃ俺に対して力不足だ」と言っている、ごく古い例だと見られないこともなさそうである。
が、ここは恐らく、「俺にとってお前は役不足だ」と言っているので、本来の「役不足」の用例と考えて支障はない。
というよりむしろ、この場面では、冷静に相手の実力を評していることばと考えるより、「お前なんか俺の相手じゃねぇ」というようなニュアンスを読み取って、本来の使い方と考えた方が、適切なのではないか。

附箋を剥がす(16)Including 「全然」(その17)

内田百閒『百鬼園随筆』(旺文社文庫)に貼った附箋を剥がすためのメモ…と言っても、本当は貼っていないけれど。

格助詞「に」の使い方。

明治三十六年、第五回内国勧業博覧会が大阪開かれた時、私は父につれられて田舎から見物に出かけたところが、天王寺の塔よりまだ高い塔が出来てゐて、その天辺まで登りつめたら、急に父が両足をがくがくと慄はして、起つてゐられなくなつたのを覚えてゐる。(「飛行機漫筆」P50L15)

その揚句が、たうとうその男とも別れる事になつて、今では大塚とか芸妓をしてゐると云ふ事です。(「百鬼園先生言行録」P227L14)

養父母となる筈だつたこの平和な老夫婦を殺害して、その場自殺した大学生については、私は何も知るところがなかつた。(「梟林記」P270L15)

私が二階の部屋に入つた頃には、もう老夫婦は惨殺せられて座敷や台所に倒れ、加害者の青年は二階縊死してゐたらしい。(同P273L6)

奥さんは台所に倒れて、辺り一面に血が流れてゐる。主人は全身に傷を負うて座敷死んでゐる。さうして青年は二階の梁縊死してゐると云ふ事がわかつた。(同P274L15)

「そんな事があるものか。その二階縊死してゐる青年が犯人だよ。わかり切つてゐるぢやないか」と他の男が云つた。(同P275L3)



否定と呼応しない「全然」。

今そのノートをどこに蔵つたのか思ひ出せないし、第一、その哲学者の名前も忘れてしまつたけれど、うろ覚えに覚えてゐる要旨は、人が金を借りる時の人格と、返す時の人格とは、人格が全然別である。(「無公債者無恒心」P107L16)

「おんなじだ。全然同じだ。第一、金策にしてももう一ヶ月も欠勤してゐると云ふのが変ですよ。…」(「債鬼」P172L13)

これは侮蔑の意味ではありませぬ。男も同じく人間である。しかし全然別種の人間であります。即ち男と女と違ふのであります。(「百鬼園先生言行録」P237L10)



助詞「を」の使い方。

「どうしてつて、あれは必ずどこか借りてゐますよ。初めての対応ぢやありませんものね…」(「債鬼」P169L17)



「覗ける」。

石の上に倒れたのだから、大した音はしなかつたかも知れないけれど、それにしても山高帽子は後ろに飛び、両手の手の平はすりむいてゐる位だから、玄関の受附に日とがゐたら、顔ぐらい覗けそうなものだと思つた。(「フロツクコート」P182L5)

「阿氏」

先日、内田百閒『百鬼園随筆』(旺文社文庫)を読んでいて、気になったことば。
「百鬼園新装」より。

百鬼園先生憤然として阿氏を顧て曰く。
「三十年の一狐裘、豚肩は豆を掩はず。閉口だね」
「何ですの、それは」と阿氏が云つた。(P121L1)

「あらいやだ、お豆腐で痒くなるもんですか」と云つて、阿氏は急に声を落とした。(同L7)

「困るわねえ」と阿氏もその憂ひを共にした。「それに帽子だつて、今の薄色のでは、もう可笑しいわ。今時あんなのを、かぶつてる人はないでせう」(P123L16)

「帽子は、まあれでいい事にしておかう」と百鬼園先生が阿氏に云つた。「それとも、また山高帽子を出してかぶらうか」
「山高帽子は駄目よ」と阿氏がびつくりして云つた。(同L16)

「ここのところが痛いんだけれど、あたし肺病ぢやないか知ら」と云つて、阿氏は自分の胸を二本指で押へた。(P125L14)

百鬼園先生が、黙つてゐるので、阿氏は傍に散らばつてゐる新聞を読み出した。(P126L6)

某日、百鬼園先生は、外出先から帰つて、玄関を這入るなり、いきなり阿氏を呼びたてた。
阿氏が握髪して出て見ると、百鬼園先生は、赤い筋の大きな弁慶格子の模様のついた、競馬に行く紳士の著るやうな外套を著て、反り身になつてゐた。(P131L1)

「どうだ」と百鬼園先生が云つた。
「あら、誰の外套」と阿氏がきいた。(同L5)

「さう。よかつたわねえ」と云つて、阿氏はもう一度百鬼園先生の様子を見直した。(同L12)

「もう寒くないわねえ」と阿氏が云つて、それから急に百鬼園先生を促した。(同L16)


これ以外にも、抜き漏らしているものがあるかもしれないが、網羅性はさして必要がない。

この「阿氏」、百鬼園先生の妻を指すことばなのは明らかだが、『日本国語大辞典』にも立項されていない。
類似の語に「阿姉」があり、それには「(「阿」は人を表わす名詞の上に付けて親愛の意を添える)おねえさん。」とある。
『新版漢語林』の「阿」の項に、「人を親しみ呼ぶ時に、その姓・名などの上に付ける接頭語。『阿母』」と、『新字源』に、「親しみを表わす接頭語。『阿兄』」とある。
「氏」に冠するのは百閒の造語なのかもしれないけれども、「阿―」という語構成自体は、特殊なものではないようである。

読書感想文の書き方・その3

久しぶりに「読書感想文の書き方」を書いているが、今回はこれまでとちょっと違う趣旨である。

今年の夏休み、中学2年の娘が、恒例の読書感想文の宿題を、苦労しながら何とか仕上げた。対象作品は、芥川龍之介の『鼻』。
切羽詰って家にあった本の中から短いものを選んだようだが、実はこの作品、かなりの難敵である。到底、一筋縄で行く作品ではなく、深く読みこんでみないと、どういう作品なのか、判らない。短いだけに、難しいのである。
その割にはまずまず頑張ったとは思うのだが、粗筋がかなりの比率を占めていた。中2ともなると、課される枚数は400字詰め原稿用紙で5枚、中々の分量である。娘には、粗筋は最低限で良い、ということを言いはしたのだが、ただ粗筋を省いただけでは、所定の枚数を大幅に下回ることになる。感想文なのだから…などと理屈だけ言うのは酷だろうし、既に大幅に書き直すほどの時間もない。だから、粗筋が多くなるのも致し方ないところだとは思う。

けれども、読書感想文は、提出することが最大の意義なのではない。提出するという事実はむろん重要だけれども、それだけで終わっては意味がない。自分が書いたものが、ほかにどのような書きようがあったのか、顧みて考えることは大切だろう。
それで、見本というほどのものではないが、「お父さんならこう書く」ということを示しておくことにした。娘に読ませるために書くものだから、娘が自分の感想文の中で使ったキー・ワードや視点は、極力取り込むように配慮した。
むろんこれが正解だというわけではなく、こういう書き方もある、という一例にすぎない。公開するほどのものではないが、娘に見せるだけだから、と手を抜かないために、ここにアップすると決めて書いたものである。

   芥川龍之介の『鼻』を読んで

ホシナ@ハウス   
 「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」――短くなった鼻がまた元の長さに戻った時、禅智内供はこう考えました。そして、「はればれした心もちが、どこからともなく帰って来る」のを感じるところで、『鼻』は終わります。
 この作品の中心になっているのは、内供の鼻の話題です。内供は、五六寸もある長い鼻を、内心気に病んでいました。ある時、弟子の僧が教わって来た鼻を短くする法を試してみると、その効果が現われて、鼻は短くなりました。
 ところが、短くなった内供の鼻を見て、周りの人々が笑うようになります。短くなる以前には、人々があからさまに笑うことはありませんでした。元の長い鼻に戻った内供が「もう誰も哂うものはない」と考えたのは、鼻が元に戻れば、周りの人々の態度も元のようになると思ったからです。内供の鼻が長くなった後のことは書かれてはいませんが、果たして本当にそうなったのでしょうか。
 そのことを考える上で、最初に書いた「もう誰も哂うものはないにちがいない」と言う言葉がヒントになると思います。内供がそういうことを思ったのは、実はこれが初めてではありません。ほとんど同じ言い方で、内供が「こうなれば、もう誰も哂うものはないのにちがいない」と考えるところがあるのです。それは、長かった鼻が短くなった時のことでした。そしてその時、内供は「のびのびした気分」になっています。
 この部分は、長い鼻に戻ったところと良く似ています。鼻が短くなった時にも、内供は元のように長くなった時と同じような気持になったということです。けれども、長い鼻が短くなった時、その結果は内供の期待した通りのものではありませんでした。
 見た目から考えれば、長い鼻はおかしく、短い鼻はおかしくないはずです。だから、内供には、鼻が短くなって人々が笑うようになった理由が分りません。短い鼻が見慣れないからだとも考えてみますが、それだけが理由ではないようです。
 内供のことを笑うようになった周りの人々の気持を、作者は「傍観者の利己主義」という言葉で説明しています。鼻が長いという内供の不幸に対して同情していた人々が、鼻が短くなってみると、何だか物足りない気がして、もう一度同じ不幸に陥れてみたいような、消極的な敵意を持つようになる、ということです。つまり、鼻が短くなることによって、周りの人々が持っていた内供への気持が、同情から敵意へと変化してしまったのです。それが、周りの人々が内供のことをあからさまに笑うようになった理由です。
 内供はそういう周りの人々の気持の変化に気付いていないようです。長い鼻に戻った内供の「もう誰も哂うものはないにちがいない」という気持は、鼻が短くなった内供の「もう誰も哂うものはないのにちがいない」という気持と違いがありません。そしてその時に感じた「のびのびとした気分」と「はればれとした心もち」の間にも違いはないでしょう。
 内供は最初、長い鼻が短くなれば笑われることはないと考えました。そして今度は、長い鼻に戻れば笑われることはないと考えたのです。長い鼻が短くなった時と、短い鼻が長くなった時とで、内供の気持には変化がありません。内供にとって、周りの人々の態度の変化は、見た目の問題に留まっていて、気持の変化を捉えることができていないのです。
 周りの人々の気持が、内供の気持と同じように元に戻ったのだとしたら、内供のように「もう誰も哂うものはない」と考えて良いかもしれませんが、内供の鼻は、単に長いのではなく、長かったものが短くなって、また長くなったのです。
 鼻が長かった時には内供に同情していた人々の気持は、鼻が短くなった時に「傍観者の利己主義」によって敵意に変化してしまいました。それは、内供が不幸を切り抜けたことに対して物足りない気持を持ったからです。だとすれば、鼻が短くなったことによって人々に笑われるという不幸を、鼻が長くなることで内供が切り抜けた時に、周りの人々が感じることは、やはり「傍観者の利己主義」による敵意だと思います。鼻が元のように長くなったとしても、一度笑われるようになってしまった内供が笑われなくなることはないのではないでしょうか。
 この作品は、単なる内供の鼻についてのおもしろいお話のようにも見えます。また、最後に内供が「はればれとした心もち」になることによって、さわやかな印象で終るようにも思えます。けれども、登場人物の気持を良く考えながら読んで行くと、内供の鼻をめぐる、周りの人々の気持の変化が深く書き込まれていることが分ります。そして、その変化に気付くことのできないない内供の気持のずれが、うまく書かれていると思いました。


まあ、半日で仕上げたものだから、大したことはない。特に後半は、もっとふくらませたほうが良いだろう。
もっとも、時間を掛けたらもっと良くなるかといえば、そんなこともないだろうが。

原稿用紙バージョン

娘からは、特に反応はない。

"ANOTHER SELF PORTRAIT”

アナザーサイド・オブ・セルフポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集)[スタンダード・エディション]

ボブ・ディランの公式海賊盤「ブートレッグ・シリーズ」もこれで10作目。
今回は、"ANOTHER SELF PORTRAIT THE BOOTLEG SERIES VOL.10 "というタイトルから想像が付くとおり、1970年発売の "SELF PORTRAIT"~『セルフ・ポートレイト』~前後の時期のアウトテイク集である。

この頃のディランはまさに低迷期で、そのデモやアウトテイクなど、さしたる意味などありゃあしない。2枚組とはいえ、それに3,990円も出す価値はない。
しかも、発売が発表された時、邦題は『アナザーサイド・オブ・セルフ・ポートレイト』というものだった。これには、名盤 "Another side of Bob Dylan"〜『アナザーサイド・オブ・ボブ・ディラン』〜に引っ掛けた売らんかなの姿勢がありありとしていて辟易した。発売時には流石にそのタイトルは引っ込めたが…。
だいたい、Blu-spc CD2 だから何だと言うのだ? たかがアウトテイクじゃないか。馬鹿々々しい。そんなもの、誰が買うもんか!

まして4枚組のデラックス・エディションに19,800円も出そうなんていうのは、いかに3000枚限定とは言っても狂気の沙汰以外の何物でもない。2枚組が4枚組になって、値段が5倍になるというのも容易に納得できるものではない。そもそも、これを買おうとする奴が3000人もいるのか?

デラックス・エディションのプラス2枚の内の1枚は『セルフ・ポートレイト』のリマスターだから、大した価値はない。
もう1枚は、その一部が『セルフ・ポートレイト』に収められている、ザ・バンドを従えて演奏したワイト島フェスティバルでのライヴのフル・ヴァージョンで、これに期待する向きもあるようだが、既発表の音源を聴く限り、さほどやる気は感じられないから、過剰な期待は禁物である。

"ANOTHER SELF PORTRAIT THE BOOTLEG SERIES VOL.10(1969-1971)"
  ~『アナザー・セルフポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集)[デラックス・エディション]』~

アナザーサイド・オブ・セルフポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集)[デラックス・エディション]
それでは、これからじっくり聴くことにしよう。
ん? 買う価値のないはずのこんなものを、どうして、どうやって聴くのか、だって? そんなこと、どうだって良いじゃないか!

秋のけはい

もっと秋らしい画像はいくらもあるだろう、というご意見はあろうけれども、はじけたゴーヤーと

ゴーヤー

高い位置で干からびたゴーヤー。

ゴーヤー

(Canon EOS20D + TAMRON SP AF90mm F2.8Di Macro)
[ 2013/09/18 11:41 ] 自然・季節 草花 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「しばたたく」

ある事情で、芥川の「鼻」を読み返していて、今更気づいたこと。

鼻は――あの顋の下まで下つてゐた鼻は、殆嘘のやうに萎縮して、今は僅に上脣の上で意気地なく残喘を保つてゐる。所々まだらに赤くなつてゐるのは、恐らく踏まれた時の痕であらう。かうなれば、もう誰も哂ふものはないのにちがひない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足さうに眼をしばたゝいた


この部分で、作品の読みのキーになるのは「かうなれば、もう誰も哂ふものはないのにちがひない」の部分だと思うのだが、今回気になったのは、そこではなくて「しばたゝいた」である。
常識ある人には、何の疑問もないだろうけれども、僕は「しばたく」だと思っていたので、気になったのである。

『日本国語大辞典』を見ると、「しばたたく」が立項されていて、「屡叩」の字を宛てる。
「しばたく」は「しばたたく」の変化したものだということで、古くは「しばたたく」だったようである。
古く今昔物語集にも用例があり、『日葡辞書』にも「Xibatataqi,qu,aita」とあるらしい。鷗外の「青年」には、「しばだたく」とあるそうである。
なお、『新明解国語辞典』に、「しばしばまたたくの意」とあるけれども、これを語源とするのは、躊躇される。

「鼻」など数え切れないほどくり返し読んでいるのに、今更気づくなんて、どれだけイイカゲンに読んでいたんだか。

Creedence Clearwater Revival あるいは「ら抜き」

Amazon で何の気なしに Creedence Clearwater Revival を検索していたら、ページの下の方に、内館牧子著『カネを積まれても使いたくない日本語』という本が出ていた。これは僕の閲覧履歴からレコメンドされたものだから、ほかの人が CCR を見たところでこの本が表示されることはまずあるまい。だから、僕以外の人にとって、このエントリと CCR との間には何の関係もない。
とはいえ、CCR を検索しなければこの本には行き当らなかったわけだから、僕の主観からすれば、CCR とこの本との間には関係がある。それで、こんなわけのわからないタイトルにしたのである。

件の本、何だか品のない書名だし、ふつうの人がことばづかいのためにカネを積まれることもなかろうが、著者の内館氏なら「こんなセリフを入れて欲しい」と頼まれることがもしかしたらあるのかもしれないから、まぁ、良しとしよう。
正直なところ、買ってまで読む気になる書名の本ではないのだけれども、Amazon ではこの本が「なか見!検索」の対象になっていて、部分的にだけれども読むことができる。それで、少しだけ読んでみた。

中でも「ら抜き」に1章が当てられていて、そんなことを書くくらいだから当然とは言えようが、いわゆる「ら抜き」に対して否定的な、というより拒絶的な論述がくり広げられている。
要するに「ら抜き」は気にいらん、ということに尽きるのだけれども、そのこと自体には、僕も感情的には賛成である。
僕の所謂「頑固爺理論」そのもので、世間にはこれだけ強硬な頑固爺(著者は女性だが、僕の言う「頑固爺」は性別を問わない)がいることを知るのは、若者にとって価値があるだろう。

良く、「見られる」というような正格の言い方に対して、いわゆる「ら抜き」は、尊敬が「見られる」、可能が「見れる」という使い分けによる分化だと言われるけれども、著者は、むしろ「ら抜き」によって可能であることが判りにくくなっているのではないかと言う。「まさか、僕が出れれるとは……」というような破格の言い方が出て来たのが、「出れる」が可能の表現としては弱いので、より可能の意味を表わそうと思うがために「れ」が付け足されてしまったのではないか、と言うのである。

そのことが、かならずしも間違っているとは思わない。
ただ、いわゆる「ら抜き」を考える時に、「ら抜き」だけを見ていても、見当はずれなことになりかねない。「ら」以外のものが抜けた場合についても、併せて考える必要があるだろう。

それに、どこまでを正格でない「ら抜き」の表現と認めるか、というのも難しい問題である。いわゆる「ら抜き」はごく最近に限って発生している現象ではないからである。

例えば「着られた」という言葉は、「お召しになった」という「尊敬」にも受け取れるし、「着ることができた」という「可能」にも受け取れる


本書からの引用だが、太字で示した「受け取れる」は、現代語としては全く問題はないのだけれども、本来から言えば、「受け取る」に助動詞「れる」が接続して「受け取られる」と言うべきところである。だからこれも、「ら抜き」と言えば「ら抜き」である。ただし、これを「ら抜き」として目くじらを立てる人は、著者を含めていないだろう。

要するに、「ら抜き」と見做すかどうかは多分に感覚の問題で、それだけに難しい、というありきたりの結論を出すのがやっとのところではある。
そうであるからこそ、本書のような感覚的な物言いも、けっして意味のないものとは言えないだろう、とは思う。

ウルフのことば

9月5日のソフトバンク戦で、日本ハムのウルフ投手が7勝目を上げた。
野球を見なくなって久しいので、ウルフがどんなピッチャーなのかもまったく知らないのだが、翌朝の新聞記事を見て、おやおや? と思ったこと。

産経新聞に載っていたウルフのコメント。

「(二回の4失点の後)すぐ点を取ってくれて気持ち的にも大きかった。自信を持って投げられた」


最近の若者ふうの「~的」だが、これは誰のことばなのだろうか?
さっきも書いたとおりまったく知らないのだけれども、ウルフ自身が日本語でその通りのことを言ったわけではないだろう。
ウルフ自身のことばなら、できるだけ正確に記事にした方が良いだろうが、恐らく通訳の人の言ったことなのだろうから、少しぐらい修正しても良かったのではなかろうか。
あるいは、記者が修正した結果が「気持ち的」だったのだろうか?

どうでも良いことだが、気になったので書き留めておいた。

今井児童交通公園(おまけ)

「今井児童交通公園(その1)(その2)」のオマケ。

乗り物が好きな子供にとってはけっこう面白い公園だと思うのだけれども、年齢差のある兄弟の場合、特に小さい妹がいたりすると、乗り物には乗れないし、あまり興味はないしで、飽きてしまうことがある。
上の子はもっと遊びたい、下の子は帰りたい、ということになって、難しい。
けれどもこの公園の場合、そういう心配がない。

こういうふつうの遊具がたくさんある。

今井児童交通公園

今井児童交通公園

今井児童交通公園

今井児童交通公園

また、親にとっては、子供が遊んでいる間、休んでいられる場所があるか、というのは重要である。
ここには、藤棚の日陰があるから、暑い日でも大丈夫。

今井児童交通公園

ここにも藤棚…、

今井児童交通公園



今井児童交通公園

…ん? 葡萄棚だ。
(本当はこれが書きたかっただけ。)

(Panasonic LUMIX DMC-LX3)
[ 2013/09/08 22:22 ] 旅・散策 公園 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△