『とぶ船』

ヒルダ・ルイス『とぶ船』

とぶ船〈上〉 (岩波少年文庫) とぶ船〈下〉 (岩波少年文庫)

ピーターがラディクリフの町の小さな店で「いまもっている金ぜんぶと――それから、もうすこし」で手に入れた魔法の船で兄弟たちと冒険の旅に出る物語。
空を飛んでどこへでも行かれる、時代も超えて行くことができる不思議な魔法の船…などというと、子供騙しの幼稚な童話と思われるかもしれないけれども、そうそう安っぽい話では、毛頭ない。

とぶ船に乗って様々な冒険をするところは、文句なく楽しい。子供が読んで面白いものであることは疑う余地がないけれども、それだけでは終わらない。
大人が読んでも大人なりの楽しみ方が出来る。
ピーターが魔法の船の元の持ち主に、いつかかならず船を返すと約束するところや、「仲間」になったウィリアム征服王の時代の国王の娘マチルダとの別れの場面には、切ない郷愁の念を禁じえない。

石井桃子による訳文も、1953年のものであるにもかかわらず、少しも古びていないのが良い。
[ 2014/06/29 18:45 ] 本と言葉 子供の本 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

"The Organ in the Renaissance and the Baroque"

Gustav Leonhardt
"The Organ in the Renaissance and the Baroque"


Organ in Renaissance & Baroque No

当ブログでクラシック音楽を取り上げることはほとんどないのだが、パイプ・オルガンの音色が好きでオルガン曲は時々聴いている。
とはいえ、まったく造詣は深くはなく、どれを聴いてもさして違いは判らないので、新しく買うこともほとんどないのだけれども、久しぶりに買った(オルガンの)CD。
グスタフ・レオンハルトがヨーロッパ各地の歴史的オルガンを演奏した音源である。
1970年~1994年までに亙っているから、統一的な企画というわけではないけれども、そんなことはさしたる問題ではない。
5枚組で2000円ほど。この値段でこの内容なら、絶対に買って損はない。

『名探偵カッレくん』

アストリッド・リンドグレーン
『名探偵カッレくん』


名探偵カッレくん (岩波少年文庫)

この著者のものとしては『長くつ下のピッピ』が殊に有名で、僕も子供の頃に(内容はまったく覚えていないのだけれども)読んだ記憶がある。
4年生の息子が『少年探偵ブラウン』とそのシリーズをたいそう気に入っていたので、これも同じ探偵ものということで買って来た。

名探偵に憧れる少年カッレ・ブルムクヴィストが、日頃の鍛錬の成果で宝石窃盗犯逮捕の立役者になる話。
とはいえ、単なる探偵もの、推理の興味に止まるものではなく、冒険小説としての要素も色濃い。むろん、カテゴライズすることにさしたる意味がないことは言うまでもない。
この著者の作品だけあって、子供の心理の描き方が何と言っても秀逸である。名探偵ぶりを発揮しながらも、子供らしさを失っていないところに、同年輩の少年少女読者は親近感を持つことだろうと思う。
窃盗犯追跡と同時進行する、カッレ属する白バラ軍と、対する赤バラ軍の「バラ戦争」の成り行きも、作品に奥行きを与えている。
「小学5・6年生以上」ということになっているが、それ以下(息子がそうである)でも楽しめるし、それ以上(大人も含めて)でも十二分に楽しめる作品である。
[ 2014/06/28 23:50 ] 本と言葉 子供の本 | コメント(0) | TB(1) |  TOP△

訃報・山中裕博士

平安時代の古記録と歴史物語の研究の第一人者、草分け的存在である山中裕先生が逝去された。

山中裕氏(元東京大学史料編纂所教授、平安時代史)が死去
山中裕氏 93歳(やまなか・ゆたか=元東京大学史料編纂所教授、平安時代史)13日、肺炎で死去。告別式は16日正午、横浜市金沢区六浦2の2の12上行寺八景斎場。喪主はめいの夫、牧野和夫氏。(読売新聞)


先生のご研究がなければ、栄花物語も大鏡も、今ほどメジャーな作品と認められることはなかったのに違いない。文学研究に古記録を導入したのも先生だったろうし、そもそも先生の古記録研究がなければ、史学専攻以外の人が、古記録を読みこなすことは、難しかったのではないかと思う。

以前、称名寺近くの先生のお宅で、古記録を読む研究会を開催していただいていて、小津安二郎の映画に出て来そうな雰囲気のお宅にしばしばお伺いしていたのだが、先生が体調を崩されてから休会状態になってしまっていた。
3年ほど前、産経新聞に載っていた『北朝鮮に消えた歌声―永田絃次郎の生涯』の紹介記事を見掛けて切り抜きをお送りした。
先生は、唱歌・童謡を含め、声楽にも造詣が深く、貴重なSP盤も随分お持ちのようだった。研究会の折にそういうお話を伺う機会も多々あって、一度、ご所蔵のSP盤を聴かせていただいたこともある。そういう折に、永田絃次郎の名前を出されたことがあったのを覚えていて、記事が目に止まったのである。
そのお礼のお電話を頂いたのが、先生とお話をした最後だった。
久しぶりで皆でまた来てほしいと言われたのだが、予定が合わずにそのままになってしまった。

思い出話はたくさんある気がするのだが、どうにも整理が付いていない。

「全然」(その19)

ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』を読んでいて見つけた用例。
1951年発行の岩波少年文庫、中野好夫訳のものである。

親として、子どもを持ちながら、じぶんたちは、すき勝手な暮らしをしながら、子どもの養育は、全然、社会にまかせっきりというのでは、まったく理屈に合わないというのです。(「リリパット(小人国)渡航記」6、P95)

まだ正式の判決を受けたわけではないのですから、そういう計画については、全然、知らん顔でいてもいいわけですし、リリパット王にしても、まさかわたしが権限外にいる間に、そんな秘密を発表されることはあるまい、と考えたのですが、まもなく、これも、とんだわたしの見こみちがいだとわかりました。(7、P112)

河が海に流れこむ地方は、すべて大きな岩がやたらにころがっていて、おまけに海がひどく荒いときているので、たとえどんな小さな船でも、とうてい乗り出すことはできません。ですから、この国の住民は、他の世界との交易からは、全然絶たれています。(「ブロブディンナグ(大人国)渡航記」4、P178)

早くいえば、心の修養という機会を全然うばわれて、じぶんの受けた損害をうめ合わせるために、じつにこのましからぬこの妙技を学び、これを他人に応用するというようなことになりはしないか。(6、P215)

だいたい、国王というものは、世界からまったく切りはなされているものでして、ほかの国民の風俗や習わしなどについては、全然、無知でありますので、わたしたちヨーロッパ文明国民は、さいわいにもまぬかれていますが、いろいろ片よった物の見方や、気心のせまさも生まれてくるのです。(7、P219)

この国の学問というのは、非常に不完全であって、ただ倫理学、史学、詩学、数学、の四つだけでできています。この四つについては、たいそうすぐれていることを、みとめないわけにはいきませんが、このうち、数学は、農事や、そのほかの機会方面の改良というような、全然、実用のためだけに応用されていますので、わが国などへ持っていけば、ほとんどなんの値うちもありますまい。(7、P223)

桂宮

先日、桂宮宜仁親王の薨去の報を目にして思い出したこと。

「薨去」というのは耳慣れないことばだろうと思う。
学生時代、歴史資料を見ていて見かけた「薨去」ということばを何の気なしに使ったら、先輩が、その人物には「薨去」は使わないと言う。その時に、崩御、薨去、卒去の使い分けを教わった。が、俄には覚えられずに困っていると、判らなければ無理にそんなことばは使わずに、全部「没」と言っておけばよいのだ、と言われて、安心した覚えがある。

九段にある母校から半蔵門方向へ向かって少し歩くと、それほど物々しくはないけれども、常に警護の番人が立っているお屋敷があった。
ある時、ある先生から、それが桂宮邸であることを教わった。
古典の作品に、「桂宮本」と呼ばれる写本が少なからずあって、その先生も、桂宮本を底本としたある作品のテキストを出版していた。その桂宮本が、あそこにあるんだと言われて、何だか意味もなく親近感を持ったものである…のだが、その桂宮邸と桂宮本とは関係がないことを、ずいぶん後になってから知った。
[ 2014/06/10 23:02 ] 歴史 | コメント(2) | TB(0) |  TOP△

『高等学校 古典B 古文編』

ごく軽いわけがあって、神田の三省堂書店で、『高等学校 古典B 古文編』(三省堂)を買って来た。書名から判る通り、高等学校の国語(古文)の教科書である。
見てみると、実に良く出来ている。僕の認識不足なのだが、高校でこんなにきちんと古文を取り扱っているとは思っていなかった。高校生がこれをきちんとこなしているとすれば、大学の国文学科の学生の過半は足元にも及ばないだろう…いや、国文科の学生は、これをきちんとこなして来ているはずだが…。

それはともかく、教科書は注釈書ではないから、それほど多くの注が付けられてはいないし、現代語訳があるわけでもない。だから、ポイントになるところは高校の先生が説明したり生徒に辞書を引かせたりしなければならない。文法事項も、別途学習させる想定だろうから、個別には付けられていない。

また、生徒に考えさせるべき設問にも、なかなか難問がある。

たとえば、こんな例である。

いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。(源氏物語・桐壺)


これを高校生に判らせるためには、「女御」「更衣」の意味、それが「あまた候」うというのはどういうことなのか、等の説明をしなければならないから、そこまででもひと苦労だろうと思う。
そのうえで、ここには次のような問題が用意されている。

「あらぬ」の下に省略されている語は何か。


問題の回答自体は、指導資料に書かれているとは思うが、それをそのまましゃべるだけ、というわけにも行くまいから、自分でもある程度は調べなければならないだろう。

そこで、披見の容易な主要な注釈書を見てみる。
『日本古典文学全集』の現代語訳「たいして重々しい家柄ではない方で、目だって帝のご寵愛をこうむっていらっしゃる方があった。」
『日本古典文学大系』頭注「位が高く勝れた身分(分際)ではない方(者・人)で。」
『新日本古典文学大系』脚注「たいして重んじられる身分の家柄ではない女性が目立って寵愛を受けておられる(そういう)方がいたことだ。」

どうやら、「方」とか「者」とか「人」とか「女性」とかが省略されていることは判った。いずれにせよ、桐壺更衣と言われる女性が該当する。
これで答えは出たと言って良いだろうが、そのうえで、先生は生徒に理解させるための説明をしなければならない。それが、難しい。

先の『全集』の頭注には、「「が」は主格助詞。逆態接続助詞としての用法は十二世紀以降に発生。」とある。これは、「たいして重々しい家柄ではないけれども」という逆接の表現ではない、という説明なのだけれども、訳には「方で」とある。主格助詞なら「で」とは訳せないはずで、これでは所謂同格である。ここを生徒に突っ込まれたら、答えに窮すことは間違いない。
『大系』には詳しい補注があるのだが、それを見ると、「が」を「指定格(または中止格)」とすべきという説明がある。当否はともかくとして、こんな耳慣れない用語を高校で教えたら、クレームが来ること請け合いである。
『新大系』の注は、「が」を主格助詞として訳しているのは良いのだが、それがために「女性が〜方が〜」ということになって、文脈として判りにくくなってしまっているから、高校生にそれで納得せよ、というのも難しい。
そのほか、『新潮日本古典集成』傍注に「それほど高い身分ではなくて」とあるのだが、「が」が接続助詞「て」に置き換わっている上に、肝心の「省略」については何も書かれていないから、参考にならない。

さて、お手上げである。指導資料様、助けて…になると思うのだが、それは売っていないから、どんなことが書いてあるのかは僕には判らない。

とまれ、高校の先生は、大変なんだな。