狛犬と文学(その1・芥川龍之介の『妖婆』)

芥川龍之介に、『妖婆』という小説がある。
婆娑羅の大神の力を借りて加持や占いをしているお島という老婆から、出版書肆の若主人新蔵が恋人お敏を救い出そうとする話である。
それほど有名ではないかもしれないけれども、やや怪談じみた内容で面白いものなので、芥川文学の一面として、読んでみて損はないと思うのだが、のみならず、これはコマイニストとしても見逃すことのできない作品である。

以下、作品の本文を引用する。新書版芥川全集のページ数を併記するけれども、こんな一般性のない本のページ数を記載するのは、あくまでも僕の便宜のためで、読者諸兄のためのものではない。その旨、悪しからずご了承いただきたい。

重ね重ねの怪しい蝶の振舞に、新蔵もさすがに怖気がさして、悪く石河岸なぞへ行つて立つてゐたら、身でも投げたくなりはしないかと、二の足を踏む気さへ起つたと云ひます。が、それだけ又心配なのは、今夜逢ひに来るお敏の身の上ですから、新蔵はすぐに心をとり直すと、もう黄昏の人影が蝙蝠のやうにちらほらする回向院前の往来を、側目もふらずまつすぐに、約束の場所へ駈けつけました。所が駈けつけるともう一度、御影の狛犬が並んでゐる河岸の空からふはりと来て、青光りのする翅と翅とがもつれ合つたと思ふ間もなく、蝶は二羽とも風になぐれて、まだ薄明りの残つてゐる電柱の根元で消えたさうです。(P220)

その内にもう二人は、約束の石河岸の前へ来かかりましたが、お敏は薄暗がりにつくばつてゐる御影の狛犬へ眼をやると、ほつと安心したやうな吐息をついて、その下をだらだらと川の方へ下りて行くと、根府川石が何本も、船から挙げた儘寝かしてある――其処まで来て、やつと立止つたさうです。恐る恐るその後から、石河岸の中へはいつた新蔵は、例の狛犬の陰になつて、往来の人目にかからないのを幸、夕じめりの根府川石の上へ、無造作に腰を下しながら、「私の命にかかはるの、恐ろしい目に遇ふのつて、一体どうしたと云ふ訣なんだい。」と、又さつきの返事を促しました。(P221-222)

お敏は頬の涙の痕をそつと濡手拭で拭きながら、無言の儘悲しさうに頷きましたが、さて悄々根府川石から立上つて、これも萎れ切つた新蔵と一しよに、あの御影の狛犬の下を寂しい往来へ出ようとすると、急に又涙がこみ上げて来たのでせう。夜目にも美しい襟足を見せて、せつなさうにうつむきながら、「ああ、いつそ私は死んでしまひたい。」と、もう一度かすかにかう云ひました。(P227)

あの石河岸の前へ来るまでは、三人とも云ひ合はせたやうに眼を伏せて、見る間に土砂降りになつて来た雨も気がつかないらしく、無言で歩き続けました。
その内に御影の狛犬が向ひ合つてゐる所まで来ると、やつと泰さんが顔を挙げて、「此処が一番安全だつて云ふから、雨やみ旁々この中で休んで行かう。」と、二人の方を振り返りました。(P243)


場面の点景として狛犬が登場する作品は多々あるだろうけれども、ここまで狛犬が活躍する…と言っても、もちろん狛犬自体は何もしないけれども…作品も、珍しいのではないかと思う。
なおかつ、お島が誰かを呪い殺したような場合、当の現場にはお島の力が及ばないという設定になっているのだが、この狛犬の建っている場所は、まさにそういう場所で、新蔵とお敏、それを手助けする泰さんがお島に気づかれずに会うことができるのが、この石河岸の狛犬の許に限られるという、作品展開の上で欠かせない重要な地点になっているのである。
それで、以前にも、どこの狛犬なのかと思って「石河岸」を調べようと思ったことがあるのだけれども、その辺りと思しいところに、現代の地図にはその地名はないし、僕の持っている範囲の古地図にも見られないから、そのままになっていた。

今回芥川全集を読み返している際に、この狛犬がどこに建っているものか、もう少し詳しい情報が書かれているのに気がついた。しかも、こんなことを見落としているのに呆れるくらいかなりはっきりと。
それで、何だあそこだったのか、と思い当たったので、書いている。

そこでその日も母親が、本所界隈の小売店を見廻らせると云ふのは口実で、実は気晴らしに遊んで来いと云はないばかり、紙入の中には小遣ひの紙幣まで入れてくれましたから、丁度東両国に幼馴染があるのを幸、その泰さんと云ふのを引張り出して、久しぶりに近所の与兵衛鮨へ、一杯やりに行つたのです。
かう云ふ事情がありましたから、お島婆さんの所へ行くと云つても、新蔵のほろ酔の腹の底には、何処か真剣な所があつたのでせう。一つ目の橋の袂を左へ切れて、人通りの少い堅川河岸を二つ目の方へ一町ばかり行くと、左官屋と荒物屋との間に挟まつて、竹格子の窓のついた、煤だらけの格子戸造りが一軒ある――それが神下しの婆の家だと聴いた聞いた時には、まるでお敏と自分との運命が、この怪しいお島婆さんの言葉一つできまりさうな、不気味な心もちが先に立つて、さつきの酒の酔なぞは、すつかりもう醒めてしまつたさうです。(P210)


「竪川河岸」というのも明確には判らない…固有の地名ではなくて、単純に、竪川沿いの河岸、ということなのかもしれない…のだが、「一つ目の橋の袂を左へ切れて…二つ目の方へ一町ばかり」というのは明確である。
「一つ目の橋の袂」とか「二つ目」とか、土地に馴染のない方には何の1つ目だか2つ目だか判らないかもしれないけれども、これは隅田川から数えて1つ目、2つ目、ということで、地元民ならすぐに判る表現である。
2つ目は現在の「清澄通り」だが、1つ目は「一の橋通り」として、3つ目と四つ目はそのまま「三つ目通り」「四つ目通り」として現存する。
竪川を渡るために、1つ目の通りには一之橋が、2つ目の通りには二之橋が掛かる。同様に、五之橋までが現存する。
これらの通りは南北に通じているから、「一つ目の橋の袂を左へ切れて、…二つ目の方へ」行くためには、北から南へ橋を渡っているということになる。そこを東側に進んだ辺りだから、現在の墨田区千歳に当たる。

現在の一之橋。

堅川河岸

一之橋の南詰から東方を臨む。

堅川河岸

お島の家は「一つ目の橋」から竪川沿いに「一町ばかり」行ったところだが、それより少し手前、民家と民家の間のスペースを入って行くと神社がある。

堅川河岸 江島杉山神社

この神社には何度も行ったことがあって、当ブログでも1度ならず2度までも取り上げたことのある、江島杉山神社である。
これまでは南側と西側からしか出入りしたことがなかったので竪川沿いに建っているという意識がなかったのだけれども、ここがまさに『妖婆』に描かれている神社である。

では、芥川の書いた狛犬は…ということである。
これも既に取り上げたことがあるわけであるが、上の写真でも判るように、鳥居の内側に一対の狛犬がいる。
ただしこれが芥川の書いた狛犬でないことは、コマイニスト諸兄には自明だろう。
『妖婆』の書かれたのは大正8年(1919)だが、この狛犬はその頃に作られていたタイプではないからで、台座を見ると昭和30年(1955)とある。
で、芥川の書いた狛犬がどうなったのかというと、恐らくこれではないかと思われるものが残されている。残念ながら1対ではなく、境内の末社・杉多稲荷神社の鳥居の脇に1体だけひっそりと置かれているものである。

江島杉山神社 江島杉山神社

折角なので、改めてもう少し紹介しておく。

江島杉山神社 江島杉山神社 江島杉山神社
江島杉山神社 江島杉山神社

このあたりは東京大空襲で大きな被害を受けた地域だから、もしかしたらもう1体はその際に失われてしまったのかもしれない。
だいぶ古くなっているし、石に対する造詣もないから、これが間違いなく「御影の狛犬」かと言われると自信はないけれども、大正以前のものであることは間違いないと思われる。
すなわちこれが、芥川の書いた狛犬である…のだと思う。

なお、この神社は墨田区千歳1丁目にあるのだが、すぐお隣り同2丁目、やはり竪川沿いに石材店があるようである。
昔からあるのかどうかは判らないけれども、もしそうだとすると、石屋がある河岸だから「石河岸」と言った可能性も、ないわけではない。「夕じめりの根府川石の上へ、無造作に腰を下しながら」等の描写からすれば、付近の河岸が石材置き場になっていたのかもしれない。

(SONY NEX-6 + E PZ 16-50mm F3.5-5.6 OSS & Carl Zeiss Planar T*50mm F1.4)


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「立田川」

日本人人気実力力士が次々に引退し、角界を外国出身力士が席巻するようになった頃から、豪快な相撲を取るのは彼ら外国出身力士ばかりで、日本人力士はといえば叩けば落ちるような単調な相撲ばかりが目立つようになって行った。
それで、大相撲を見ることもほとんど無くなっていたのだが、豊真将だけは気になる力士だった。師匠譲りの相撲は、勝っても負けても見ていて気持ちが良かった。

元小結・豊真将が引退…年寄「立田川」を襲名

元小結豊真将(33)(本名・山本洋介、山口県出身、錣山部屋)が16日、日本相撲協会に引退届を提出し、年寄「立田川」襲名が承認された。
右膝の故障が完治せず、現役続行を断念。記者会見では涙を流しながら、「最後まで自分の相撲は取り切れた。悔いはない」と語った。
日大を中退後の2004年春場所初土俵。06年夏場所で新入幕を果たし、11年九州場所で新小結に昇進した。誠実な土俵態度や所作の美しさに定評がある人気力士だったが、昨年名古屋場所で右膝を痛めてから休場が続き、今場所は幕下東7枚目に落ちていた。幕内在位46場所、敢闘賞5度、技能賞を2度受賞。


最近、相撲人気が復活して来た中、実に残念なニュースだった。今、幕内に在位していれば、擡頭して来た若手力士たちとの間に、手に汗握る攻防が繰り広げられていたのに違いない。

なお、引退後に襲名した「立田川」は、百人一首にも採られた在原業平の名歌「千早振る神代も聞かずたつた川からくれなゐに水くぐるとは」にも詠まれた、由緒ある名跡である。(…
[ 2015/01/17 08:58 ] スポーツ | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

続続・ボブ・ディラン視聴月間(補遺)

以前書いた「続続・ボブ・ディラン視聴月間」で取り上げ漏らした1枚。
去年書いた記事の中で、"COMPLETE THE BASEMENT TAPES" のエントリが何故か意外にアクセスがあったので、思い出して引っ張り出して来た由緒の良く判らない海賊版(?)。盤面に「PROMOTIONAL USE ONLY/NOT FOR SALE」と書かれているから、何かの販促用のものだったのかもしれない。

THE BEST OF THE BASEMENT TAPES

THEBESTOFTHEBASEMENTTAPES

DISC ONE
1.I SHALL BE RELEASED
2.BABY,WON'T YOU BE MY BABY
3.LO AND BEHOLD! #2
4.PEOPLE GET READY
5.TEARS OF RAGE #3
6.GET YOUR ROCKS OFF
7.PLEASE MRS.HENRY
8.ONE MAN'S LOSS(ALWAYS IS ANOTHER MAN'S CAIN)
9.OPEN THE DOOR HOMER #1
10.ALL YOU HAVE TO DO IS DREAM #1
11.THE MIGHTY QUINN(QUINN THE ESKIMO) #1
12.YOU AIN'T GOIN' NOWHERE #1
13.BONNIE SHIP THE DIAMOND
14.I DON'T HURT ANYMORE
15.NOTHING WAS DELIVERD #2
16.I'M NOT THERE(1956)
17.UNDER CONTROL
18.CRASH ON THE LEVEE(DOWN IN THE FLOOD) #2
19.BABY AIN'T THAT FINE
20.YEA! HEAVY AND A BOTTLE OF BREAD #2
21.DON'T YOU TRY ME NOW
22.SEE THAT MY GRAVE IS KEPT CLEAN
23.THIS WHEEL'S ON FIRE

DISC TWO
1.MILLION DOLLAR BASH #2
2.BIG RIVER #2
3.BELSHAZZAR #2
4.FOLSOM PRISON BLUES
5.APPLE SUCKLING TREE #2
6.BIG DOG WON'T YOU PLEASE COME HOME
7.YOU GOTTA QUIT KICKIN' MY DOG AROUND
8.GOIN TO ACAPULCO
9.NEXT TIME ON THE HIGHWAY
10.FLIGHT OF THE BUMBLE BEE
11.ODDS AND ENDS #2
12.GIMME ANOTHER BOURBON STREET
13.ONE FOR MY BABY(AND ONE MORE FOR THE ROAD)
14.TINY MONTGOMERY
15.HILLS OF MEXICO
16.COOL WATER
17.CLOTHES LINE SAGA(ANSWER TO 'ODE')
18.TUPELO
19.SILENT WEEKEND
20.DON'T YA TELL HENRY
21.I'M A FOOL FOR YOU
22.TOO MUCH OF NOTHING #2
23.I'M ALRIGHT
24.YOU AIN'T GOIN NOWHERE #2
25.SIGN ON THE CROSS


"THE BASEMENT TAPES" がそもそも海賊版めいたものなのだけれども、更にその海賊版(?)。
"COMPLETE…" が公式に発売された今となっては、さしたる価値もない音源である。
強いて言えば、"COMPLETE…" を通しで聴くほどの気力が必要ない程度のことである。が、気力がなければ2枚組のスタンダード・エディションもあるわけだから、それも大した意味はない。

由緒不明なだけに造作が悪いのか、いつの間にか音飛びするようになってしまっていたのだが、CDプレイヤーのヘッドクリーニングをしたら何とか聴けるようになった。
その内完全にダメになるのだろうが、「公式」が出ているわけだから、然程惜しいということもない。

『オタバリの少年探偵たち』

昨年の暮れに買って来た岩波少年文庫2冊の内の1冊。

セシル・デイ=ルイス『オタバリの少年探偵たち』

オタバリの少年探偵たち (岩波少年文庫)

第二次世界大戦直後のイギリスのオタバリの町で、子供たちの戦争ごっこ(と言うにはかなり大掛かりだが)に端を発して起こる事件の一部始終が、一連の事件の当事者の少年の一人、ジョージを語り手として書かれている。
テッド隊とトピー隊との戦闘開始から始まって、テンポの良い、臨場感溢れる、スリル満点の展開が最後まで続く。
ふとした思いつきで始まった戦争ごっこから小さな事件が起こり、それが最後にはオタバリの町にかつてなかった大事件の解決に繋がる。目まぐるしい展開で、読者たる子供を飽きさせることがないだろう…と言っても、まだウチの子は読み始めていないのだが。むろん、良質の児童文学の常として、大人が読んでも十分に楽しむことができる。

なお、著者のセシル・デイ=ルイスは、ニコラス・ブレイクの筆名で推理小説を書いていた人らしい。そういえば、『野獣死すべし』なんていうのは、読んではいないが、聞いたことがある。

本書の冒頭、訳者(脇明子)による「物語のまえに」に、当時の時代背景などが説明されている。「『そんなことより、早くお話を』という方は、ここはとばして」と控えめに書いているけれど、とんでもない、素晴らしい文章だから、是非読むことをお奨めする。
[ 2015/01/05 14:23 ] 本と言葉 子供の本 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

デト11・12

電車好きの息子が、お年玉が貰えたら買う、と言っていて、元日に貰った途端に買いに行くと言い出し、それで今年最初に買ったもの。

デト11・12

「おとどけいきゅう鮫洲店」は正月休みだから、以前見た品川駅の売店に行く。売店も休みかもしれないし、現時点で売店で買えるかも判らない。現に、先日実家に行った際に見た金沢文庫駅の売店にはなかったし…と思ったのだが、行ってダメなら諦めるからとにかく行く、という固い決意だったので付き合った。
で、目出度く今年の初買いが出来た次第。

Bトレインショーティは、完成品ではなく組み立てる必要があるのだが、接着剤も要らず簡単、というのが売りである。けれども、このデト11・12に関して言うと、組み立てるに当って加工の必要なところが何箇所かあって、結構むずかしい。そもそも、部品の一部を切り落とすというのは、間違えたらすべて無駄になるわけだから、少々勇気がいる。また、その加工も模型趣味があって専用の工具を持っているような人からすれば朝飯前程度のことなのだろうが、ハサミとカッターくらいしかないと、かなり往生する。まして小学生には…、というところはあったものの、何とか組み上げた。
あとは、動力を組み込んで走らせるのみ。なお、動力ユニットの出っ張りをかくすために、本当はデト11・12には搭載しないコンテナが同梱されている。そこまで厳密に考えなければ、あればあったで楽しい。
[ 2015/01/02 12:26 ] 旅・散策 京浜急行 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△