附箋を剥がす(20)―漱石の「嘘」と芥川の「嘘」

最近『三四郎』を読み返していて気になったところ。

与次郎は風馬牛と云ふ熟字を妙な所へ使つた。さうして一人で笑つてゐる。
「なに、もう五六年もすると、あれより、ずつと上等なのが、あらはれて来るよ。日本ぢや今女のほうが余つてゐるんだから。風邪なんか引いて熱を出したつて始まらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。実は僕にも色々あるんだが、僕の方であんまり煩いから、御用で長崎へ出張すると云つてね」
「何だ、それは」
「何だつて、僕の関係した女さ」
三四郎は驚いた。
「なに、女だつて、君なんぞの曾て近寄つた事のない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌の試験に出張するから当分駄目だつて断つちまつた。所が其女が林檎を持つて停車場まで送りに行くと云ひ出したんで、僕は弱つたね」
三四郎は益驚いた。驚きながら聞いた。
「それで、何うした」
「何うしたか知らない。林檎を持つて、停車場に待つてゐたんだらう」
「苛い男だ。よく、そんな悪い事が出来るね」
「悪い事で、可哀想な事だとは知つてるけれども、仕方がない。始めから次第々々に、そこ迄運命に持つて行かれるんだから。実はとうの前から僕が医科の学生になつてゐたんだからなあ」
「なんで、そんな余計な嘘を吐くんだ」
「そりや、又それゞゝ事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困つた事もある」
三四郎は可笑しくなつた。(十一、岩波新書版全集P233〜234)


ここを読んでいて、以前にも取り上げたことのある芥川龍之介の『路上』を思い出した。
こんな場面である。

が、その時、ふと彼の前を通りすぎる汽車の窓が目にはいると、思ひがけず其処には大井篤夫が、マントの肘を窓枠に靠せながら、手巾を振つてゐるのが見えた。俊介は思はず足を止めた。と同時にさつき大井を見かけたと云ふ野村の言葉を思ひ出した。けれども大井は俊助の姿に気がつかなかつたものと見えて、見る見る汽車の窓とともに遠くなりながらも、頻に手巾を振り続けてゐた。(二十、岩波新書版全集P169)

「君は僕がどうしてあの時、国府津なんぞへ行つたんだか知らないだらう。ありやね、嫌になつた女に別れる為の方便なんだ。」
俊助は外套の隠しへ両手を入れて、呆れた顔をしながら、大井と眼を見合せた。
「へえ、どうして?」
「どうしてつたつて、――まづ僕が是非とも国へ帰らなければならないやうな理由を書き下してさ。それから女と泣き別れの愁嘆場がよろしくあつて、とどあの晩の汽車の窓で手巾を振ると云ふのが大詰だつたんだ。何しろ役者が役者だから、あいつは今でも僕が国へ帰つたと思つてゐるんだらう。時々国の僕へ宛てたあいつの手紙が、こつちの下宿へ転送されて来るからね。」
大井はかう云つて、自ら嘲るやうに微笑しながら、大きな掌を俊助の肩へかけて、
「僕だつてそんな化の皮が、永久に剝げないとは思つてゐない。が、剝げるまでは、その化の皮を大事にかぶつてゐたいんだ。この心もちは君に通じないだらうな。通じなけりや――まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になつた女に別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。出来るだけ――いくら嘘をついてもだね。と云つて、何もその場合まで好い子になりたいと云ふんぢやない。向うの為に、女の為に、さうしてやるべき一種の義務が存在するやうな気がするんだ。君は矛盾だと思ふだらう。矛盾も亦甚だしいと思ふだらう。だらうが、僕はさう云ふ人間なんだ。それだけはどうか呑み込んで置いてくれ。――ぢや、失敬しよう。わが親愛なる安田俊助。」(三十五、同P196 ~197)


芥川は、与次郎の「嘘」を捻って、大井の「嘘」に作り変えたのではないか、と、ふと思ったのである。

ボックス・シートふたたび

先日、志賀直哉の作品に出て来る東海道線のボックス・シートについて書いたが、今度は漱石の『三四郎』。引用は例によって新書版全集による。

車が動き出して二分も立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行つた。此時女の帯の帯の色が始めて三四郎の眼に這入つた。(中略)
女はやがて帰つて来た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞掛である。下を向いて一生懸命に箸を突ツ込んで二口三口頬張つたが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢張正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体を横へ向けて、窓からクビを出して、静に外を眺め出した。(一、P7)


女は「三四郎の横を通」ることができたのだから、三四郎は進行方向に対して水平に坐っていたのである。
帰って来た女の「正面が見えた」というのも、座席が客室の出口方向を向いていることを前提としている。
この後、先日取り上げた、有名な弁当の折を窓から投げる場面がある。そこから考えると、三四郎は逆進行方向を向いて坐っていたことになる。

ほかの箇所にも、ボックス・シートであることの判る箇所がある。

やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そつと自分の席に帰つた。乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない。只筋向ふに坐つた男が、自分の席に帰る三四郎を一寸見た。(一、P12)


「筋向ふに坐」っている人がいるということは、すなわちボックス・シートである。

なお、三四郎の乗ったのも、志賀の作品のそれと同じく東海道線の三等客車である。

大したことはないのだけれども、気になったついでに書き留めておいた。

「ぼくたちのいるところ。」

ここ暫くの間かなり集中的に聴いている音楽。

 『人生ダメ子と申します』
 人生ダメ子のテーマ
 阿保かいな
 あいのあな
 DEATHトロイ、おしり
 あなたは死にません
 人骨フィーバー
 だいぶ!!
 僕の頭にツノ生えた
 猫になりたいにゃ
 神様が見える僕の話
 生きぞこないのうた
 ボーナス・トラック あなたが死んだら(あなたは死にません~長生き。ばーじょん)


 『クソみたいな世界で生きてる皆様へ』
 僕だけが人間
 拝啓、電波でつながる皆様へ
 リアル
 絶望ファンタジー
 くそみたいな世界


 『今日も死にたがる』
 ニートは今日も死にたがる
 ヨユウシャクシャク
 死んだあなたと生きている僕
 僕は狂ってない
 さよならバイバイ


「ぼくたちのいるところ。」略して「ぼくいる」。
僕の音楽趣味はかなり偏っているので、これまでも取り上げた音楽があまり知られていないようなものであることが少なくなかったろうけれども、今回のものはこれまでにも増してほとんどの方にとって初耳だろうことは想像に難くない。
それもそのはず、大阪を中心に活動しているインディーズのバンドで、上記のものはその1st〜3rd。販売用のものとしては、たぶん「ぼくいる」名義のものは現在のところこれがすべてと思われる。

「サイケデリック精神病み闇ヤミーズ炸裂!」というのが1stのキャッチ・コピーなだけなことはあって、自殺とかイジメとかニートとか、かなり後ろ向きに感じられるようなテーマの曲が多いし、猟奇趣味溢れるものもある。
そのうえ、特に1stには僕の若干苦手な関西系のノリの曲も少なくない(そもそも、人生ダメ子などという名前自体、ベタな大阪の香りである)から、必ずしもその世界に全面的に共感できるわけではないのだけれども、聴き込んでみると、存外人生を肯定的に捉えているのではないかとも感じる。自虐や諦観に終わるわけではなく、かといって弱者を応援するような高い位置に構えているわけでもないところが心地良い。
まぁ、そんな小理屈はともかくとして、痛快な爆音ロックであることに間違いはなく、ヴォーカルの力強さは言うまでもなく、バックの演奏も確かである。
ごく大雑把に括るとパンクなのだろうけれども、それだけに留まらない意外に多彩な世界を持っている。

軽く中身のごく一部を紹介しておくと…、
1stの「猫になりたいにゃ」は、そのユーモラスなタイトルとは裏腹な、イジメを扱った絶叫系のハードなロック。
2ndの「拝啓、電波でつながる皆様へ」は、情報化社会の稀薄な人間関係をアイロニカルに歌った佳曲。
3rdの「死んだあなたと生きている僕」は、ネガティブにも思えるタイトルのポジティブな人生讃歌。恐らく2回り以上も違うだろう女の子が書いた詩に涙ぐむのも馬鹿みたようだけれども、これは良い。

ことばでは到底伝わるものではなく、聴いてみるに如くはない…のだが、入手する方法も限られているし、万人にオススメできるようなものでもない。

いつか彼女たちがメジャーになることがあった時に、したり顔で昔のことを語るオヤジになろうと思って書いた。

窓からゴミを投げ捨てる話

我が家の近隣住民のマナー問題を論じようわけではない。

芥川龍之介全集を中断して志賀直哉全集を読み始めたのだが、嗜好の問題でなかなか読み進まないでいるうちに、今度は不途思い立って漱石全集を取り出して来て『三四郎』を読んでいる。

三四郎が京都から名古屋への汽車の中で、弁当の折を窓から投げ捨てるところがある。

只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体を横へ向けて、窓からクビを出して、静に外を眺め出した。風が強くあたつて、鬢がふわふわする所が三四郎の眼に這入つた。此時三四郎は空になつた弁当の折を力一杯に窓から放り出した。女の窓と三四郎の窓は一軒置の隣であつた。風に逆らつて抛げた折の蓋が白く舞戻つた様に見えた時、三四郎は飛んだ事をしたのかと気が付いて、不途女の顔を見た。顔は生憎列車の外に出てゐた。けれども女は静かに首を引つ込めて更紗の手帛で額の所を丁寧に拭き始めた。三四郎は兎も角も謝まる方が安全だと考へた。
「御免なさい」と云つた。
女は「いゝえ」と答へた。(一、岩波新書版全集 P7)


三四郎は、女の顔に弁当の折の蓋が当ったことは悪いと思っているけれども、折を投げたこと自体は悪いとは思っていない。女にも、三四郎の行為を非難する様子がない。

これは割に有名な場面だと思うのだけれども、こんな光景は当時の列車でふつうに見られるものだったようで、実はほかにも客車の窓からゴミを投げ捨てる場面がある。名古屋から東京へ向かう途中の場面である。

三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。
「実際危険い。レオナルド、ダ、ヰ゛ンチと云ふ人は桃の幹に砒石を注射してね、其実へも毒が回るものだらうか、どうだらうかと云ふ実験をした事がある。所が其桃を食つて死んだ人がある。危険い。気を付けないと危険い」と云ひながら、散々食ひ散らした水蜜桃の核子やら皮やらを、一纏めに新聞に包んで、窓の外へ抛げ出した。
今度は三四郎も笑ふ気が起らなかつた。レオナルド、ダ、ヰ゛ンチと云ふ名を聞いて少しく辟易した上に、何だか昨夕の女の事を考へ出して、妙に不愉快になつたから、謹んで黙つて仕舞つた。(一、P16)



以上。「付箋を剥がす」みたようなものである。

柊鰯 II

とにかく忙しい。
忙しくてもふつうなら中身のない駄文の一つや二つ書けないことはないのだけれども、深夜残業に休日出勤、休憩はショートカットとなると、さすがに時間も気力もない。
通勤・帰宅の電車の中では時間が若干あるけれども、ここまで自分の時間が確保できずにいると、寸暇は読書に費したいような殊勝な気にもなる。
3月に入って1週間にもなるのでそろそろ記事をひとつ、写真1枚で誤魔化そうと思ったのだけれども、当然、どこかに写真を撮りに行く暇もない。それで、同じ素材でお茶を濁す。
再び柊鰯。

柊鰯

ただし別の機材。昔は、こんなことを良くやったな。

(SONY NEX-6 + Carl Zeiss Planar T* 50mm F1.4)
[ 2015/03/07 22:46 ] 自然・季節 風物詩 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△