「北干住」?

今朝、新聞で見つけて、ちょっとウケてしまったニュース。

北千住駅が「北干住駅」に、ホーム看板27枚誤植で交換 東京メトロ千代田線

東京メトロは29日、東京都足立区の東京メトロ千代田線「北千住駅」のホームにある駅名表示板27枚が、7月頭から「北干住駅」になっていたと明らかにした。発注の際に「千」と「干」を間違えたのが原因。

東京メトロは原因を詳しく調査中。担当者は「一見すると気付きにくいが、ほかの看板と見比べれば明確な誤りと分かる。お恥ずかしい限り」と話している。

標識はLED照明に更新する際に取り換えられていた。21日に乗務員の指摘で発覚した。近く交換する予定で、応急処置としてシールを貼り修正している。

同駅にある27枚以外の看板や路線名の「千代田線」の表記、同じ路線の「千駄木駅」の看板の「千」に誤りはない。(産経ニュース)


北干住発注の際に間違えたのだとしても、千代田線の駅名表示板であることが判っていて「干」で納品する業者もいかがなものか。
東京メトロの担当者が「お恥ずかしい限り」と言うのはご尤もだけれども、校正の専門家というわけでもなし、「北千住」だと信じて疑わない眼で見ているわけだから、検品時に見逃したとしても、責めるのは酷だろう。

なお、最後の段落の「…誤りはない」だが、本当はもっと重要なところがあって、綾瀬駅と町屋駅の駅名表示板には、「北千住」の文字が入っているはずである。
きっとそれも「誤りはない」のだろうけれども、この両駅と北千住駅の表示板の納入業者が同じだとしたら、なおさら業者側に相当の問題があるように思う。
[ 2015/07/30 23:01 ] 旅・散策 乗り物 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?

たとえば、こんな文がある。

  私は 東京に 行く。

英語なら

  I go to Tokyo.

となる。

日本語では、述語は最後に来る。だから、「行く」か「行かない」かは、文の最後になるまで判らない。
それに対して、英語の場合、「go」なのか「don't go」なのか、という重要な情報は、予め提示される。だから、文を最後まで読まなくても、行くかどうかが判る。
それで、日本語は最後まで読まない(聞かない)と判らない言語だ…ということが、良く言われる。

この考え方の、どこに間違いがあるか。

◆重要な情報
「東京に」に比べて「行く」がより重要な情報であるかどうかをどのように評価するのか。

  I go to Tokyo.

では、目的とする場所がどこなのかは最後まで読まなければ判らない。

  私は 東京に 行く。

なら、最後まで読まなくても「東京」だということが判る。
東京の話題なのか京都の話題なのかは重要な情報で、日本語ではそれを予め提示するけれども、英語は最後に持って来る。つまり、英語は最後まで読まないと判らない言語だ、とも言える。
先ほどと同じ理屈で、まったく逆の結論が出るのである。

それでも述語の方がより重要な情報だ、と固執する向きもあるかもしれないけれども、それにはさしたる根拠が見出せない。
二重橋駅の改札を出たところで、「すみません、皇居には…」と言われたとして、「述語まで喋ってください」と言うことは、まずないと思われる。
逆に、 「どうやって行きますか?」とだけ言われても、二重橋駅の改札で道を訊ねた人の行き先を一箇所に限定することは不可能だから、何を答えたら良いのかは判らない。この質問には、「どこにですか?」と返さざるをえない。
つまり、文の中でどの要素が重要なのかは、相対的なもので、一概に述語が重要だとは決められないのである。

◆最後まで判らない
判らないのは、どうする(行く、行かない)の情報だけで、「私が」や「東京に」という情報は、与えられた時点で理解できるはずである。
「行く」と言った時点で初めて「私」が誰なのかが判る、とか、「行かない」と言った時点で初めて「東京」とは何なのかが判る、ということは、それがことばである以上、ありえない。

日本語に、最後に述語が来るという特徴があるとしても、だから最後まで読まないと判らない、とは言えない。判らないのは、まだ表現されていない部分だけで、表現されたところまでは、判るはずである。
実際の言語生活では「言い差し」ということがしばしば起るけれども、日本語を言い差すと、たいていの場合、文末に来るべき述語が表現されないことになる。が、それによってコミュニケーションに著しい支障が起るということはない。

◆文脈もしくは場面
ある文が、単独で表現されることは殆んどない。多くの場合、前から続いている文脈の中で、表現される。
だから、仮に「私は東京に」だけだとしても、それが週末の行き先を皆で話し合っている文脈の中で発せられたのなら、それだけで十分に要を為すのである。逆に、述語を付けて「私は行きます」と言ったところで、目的が示されなければ要を為さない。

要するに、日本語が最後まで読まないと判らない言語だ、というのは客観性を持っていない迷信だということである。まだ表現されていないことが判らないのは、こと日本語に限ったことではない。

むろん、日本語は最後まで読まなくても判る、ということではかならずしもない。どんな言語であれ、読んだところまでは判るし、読んでいないところは判る場合もあるし判らない場合もある。それだけのことである。

1001

なんだかんだで、当ブログのエントリの数が1001に達した。2010年8月に始めたのだから、ほぼ丸5年も掛かったわけである。
こつこつと毎日1エントリずつ書いておれば、2年も前に到達したはずの数字であるが、書きたい時に書きたいことを書くのが、言い換えれば、書きたいことがなければ無理に書かないのがモットーだから、まあそんなものかと思わないでもない。
良く5年ももったものだという気もしないではないけれども、これまでのエントリを見返してみたら、纏まりのない駄文の寄せ集めに過ぎないのに違いないから、このレヴェルなら続いているのも不思議ではない。
それで、これを機に、纏まったものを上げてみようかと思って、ひとつの企画を始めてみることにした。…

…というのは真っ赤なウソで、たまたま最近思い付いただけのことである。
ただ、何かの切っ掛けをデッチ上げなければ、気力が続きそうもない企画だから、1001エントリにかこつけて、始めてみようと思うのである。

それで、やろうと思ったのは、『坊っちゃん』の校本である。近代の小説の校本など意味がないと思われるかもしれないけれども、対象とするのが児童向け書籍であることがミソである。
子供向けに判りにくいところを書き換えるのは多少なら致し方ないとして、どの本がどの程度原作と乖離しているのか、もしくはしていないのかを、確かめてみようと思ったのである。
一般の方には、「校本」というものは馴染がないだろうから、見ても何のことだか判らないかもしれないけれども、纏まれば、意味がないとも言えないだろうと思う。
…のだが、迂闊にも作業を始めてから気づいたのだが、『坊っちゃん』という作品、案外長い。芥川の『羅生門』にでもしておけば良かった、と思っても最早手遅れである。
1001エントリにかこつけたところで、気力が続きそうもない。

『WHAT IF?』

ランドール・マンロー
『ホワット・イフ? 野球のボールを光速で投げたらどうなるか


what if?

著者の「マンガ科学解説サイト」に寄せられた突拍子もない質問、たとえば邦訳書のサブタイトルになっているテーマ(本当は、野球のボールを光速の90%の速さで投げたらどうなるか、なのだが)のような、本当はありえないような if について、真面目に考えている本。
マシンガンをぶっ放して空を飛ぶ方法を考えたり、ロンドンからニューヨークまで、車が通れる橋をレゴで作ることを考えたり…。地球の海の水を抜いて火星に排水したら…などというのも突拍子もない発想だ。

地球にいる全員が同じ場所に集まって同時にジャンプしたらどうなるか? の答えは「ほとんど何の影響もない」なのだが、本書ではそれにとどまらず、何も起こらなかった後のことまで考えているのが面白い。ただし、ジャンプしたらどうなるのかが問題なので、どうやってそれを実現するのかは本書の問うところではない。

なお、サブタイトルの件、これまたどうやってそんなボールを投げるのか? はさて措いて、あくまでも投げた場合にどうなるか、を考えているのだが、結論は、「メジャーリーグ・ベースボール規則6.08(b)によれば、この状況では、バッターは「死球」を受けたと判断され、1塁に進むことができるはずだ」というもの…なのだが、実はそれ以前に、それどころではないとてつもなく大変なことが起こっている。

こんなどうでも良いことを真剣に考えるところから何かが生まれるのかもしれない、と思う。

附箋を剥がす(24)

芥川龍之介の作品から。
引用文が地の文と「融合」する事例。

下人の眼は、その時、はじめて其死骸の中に蹲つてゐる人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のやうな老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持つて、その死骸の一つの顔を覗き込むやうに眺めてゐた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸であらう。
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさへ忘れてゐた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」やうに感じたのである。(羅生門)

――前にはあのやうにつけつけとは哂はなんだて。
内供は、誦しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々かう呟く事があつた。愛すべき内供は、さう云ふ時になると、必ぼんやり、傍にかけた普賢の画像を眺めながら、鼻の長かつた四五日前の事を憶ひ出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまふのである。――内供には、遺憾ながらこの問に答を与へる明が欠けてゐた。(鼻)

「業畜、急々に退き居らう。」すると、翁は、黃いろい紙の扇を開いて、顔をさしかくすやうに思はれたが、見る見る、影が薄くなって、螢ほどになつた切り燈台の火と共に、消えるともなく、ふつと消える――と、遠くでかすかながら、勇ましい一番鶏の声がした。
「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく」時が来たのである。(道祖問答)

『この世に産まれて来た事がそもそも間違いだったから』

ぼくたちのいるところ。『この世に産まれて来た事がそもそも間違いだったから』

この世に産まれて来た事がそもそも間違いだったから

以前取り上げたことのある、ぼくたちのいるところ。のニュー・アルバム。
前回、応援しているようなことを書いたので、発売から少々時間が経ってしまったけれども、これも取り上げておくことにした。
メジャー・デビューとまでは行かないけれども、今回は Amazon とかタワレコとかディスクユニオンとか、全国展開のサイト・店舗で購入することができるらしい。
ラストの「最後のギャルの惑星」に、たまの石川浩司らがゲスト参加しているのがこのアルバムのウリのようだけれども、個人的にはそこにはぼくいる。らしさが出ているわけではないように思う。
が、そういう売らんかなの姿勢は大切で、それがきっかけで前の9曲が聴かれるのならそれで良いのである。

片岡仁左衛門

歌舞伎立役・片岡仁左衛門さんら「人間国宝」

文化審議会は17日、歌舞伎立役の片岡仁左衛門(本名・片岡孝夫)さん(71)(東京都品川区)ら4人を重要無形文化財の保持者(人間国宝)に認定するよう、文部科学相に答申した。

仁左衛門さんは人間国宝だった歌舞伎立役の十三代目片岡仁左衛門(故人)の三男。歌舞伎立役の人間国宝は、坂田藤十郎さん、尾上菊五郎さん、中村吉右衛門さんに続いて現役では4人目だ。(YOMIURI ONLINE)


誰からも異論のない、順当なところだろうと思う。
一時期、体調を崩して長期で休演していたことがあったけれども、完全に復活して、ますます元気なようである。
でも、「片岡孝夫」が本名だったとは知らなかった。
[ 2015/07/18 14:13 ] 古典芸能 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

ティラノサウルス

大型ティラノサウルス科の歯の化石、長崎で発見 国内初

長崎市教育委員会と福井県立恐竜博物館は14日、長崎市の長崎半島西海岸にある白亜紀後期の三ツ瀬層(約8100万年前)から、ティラノサウルス科(獣脚類恐竜)の大型種としては国内初となる歯の化石を発見したと発表した。下あごの歯とみられ、体長は10メートル以上あったと推定される。
見つかった歯の化石は3点。最も大きいものは最大幅38ミリ、厚さ27ミリ、歯根を含む高さ82ミリ。保存状態が良く、大きさと形状がティラノサウルス科の特徴に一致するという。ほかにティラノサウルス科とみられる歯と、別の獣脚類のものとみられる歯の化石も見つかった。(朝日新聞)


これまで国内では見つかっていなかった、大型のティラノサウルス類の歯の化石が見つかったんだとか。
中国では数限りなく恐竜の化石が発見されていて、中生代には今の日本はアジア大陸の一部だったわけだから、恐竜がいたところで別段驚くようなことではないのかもしれないけれども、何だか楽しい気分にはなる。
[ 2015/07/17 00:04 ] 自然・季節 生き物 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

首位ターン

野球は久しく新聞で確認するだけになっているのでこれまで書くことはなかったのだけれども、ここで一つプロ野球ネタを書いておくことにした。

DeNA横浜ベイスターズが、球宴前の前半戦を首位で折り返した。何でも、「横浜ベイスターズ」として優勝した1998年以来のことだそうである。
ぼくは横浜の出身で、横浜大洋ホエールズの頃からのファン…と言っても前述の通り最近は実際には見ていない…だから、悪い気がしようはずがない。
もっとも、それだけなら書き残しておくほどのことでもないのだが、成績が問題である。
昨日まで85試合消化で42勝42敗1分、勝率5割、2位以下のチームはすべて負け越しという史上初の珍事だから、備忘として残しておこうと思ったのである。
先日は、セ・リーグ全球団が負け越し、という事態も発生したし、このまま混戦が続いて行くと、リーグ戦で負け越したチームが日本シリーズで優勝するようなことにもなりかねない。
それはそれで、おもしろいと言えないこともないのだけれども…。
[ 2015/07/16 20:25 ] | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

附箋を剥がす(23)

以前、「つまらない」の丁寧な言い方について書いた、その附録のようなもの。

「ここへ入らしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
「でも折角画をかきに入らしって、些(ち)っとも御かきなさらなくっちゃ、詰りませんわね
「なに詰ってるんです」(夏目漱石『草枕』新書版全集P118)


「失礼ですが、よろしかったら、ごいっしょに飲みませんか」
「ええ」
気の抜けたような返事だった。エフ博士はかまわずに、そばに腰をかけた。
「お見うけしたところ、お元気がありませんが、ご気分はいかがですか」
つまりませんな。わたしの気分は、つまらないの一語につきます。このところ、ずっとそうなのです」(星新一「新鮮さの薬」『マイ国家』)