続・昼下がりの月

もう一回だけ書いて、これで終いにする。

厳密には……」の続き、その3。

数寄屋橋のそばにあるデパートを出たところで秀一は煙草を買い、英子は、
「あ、月が出ている」
と空を見上げた。


英子にこれまで書いてきたような月に対する正確な知識があったわけではないだろう。が、昼の月が毎日見えるものではない、ということを感覚として持っているから、昼の月を見て、「あ、月が出ている」と言うのである。毎日見えるものなら、そんなことを言うはずがない。

空を見上げて、昼の月が出ていたら戻ろうと思い、見上げようとして、もし出ていなかったらと不安になって、汗ばむのかまわず歩き続けた。


作品の最後で、英子に空を見る決心がつかないのは、空を見上げても月が見えるとは限らないからである。
「昼の月が出ていたら」というのは戻るための踏ん切りである。踏ん切るためには月が出ていなければならない。が、月が見える確率は、さほど高くはない。
それがわからないでこの小説を読んでも、正しい解釈に至ることは覚束ない。

昼下がりの月

厳密には……」の続き、その2。

「戻ってくれ。たのむ」という秀一の言葉に、その選択を迫られた英子は、作品最後で、昼の月が出ているかいないかに賭けようとします。初夏の頃であり、よく晴れた昼下がりならば、昼の月は見える可能性は高かったでしょう。


この1文は、小説の結末部分について「昼の月」を絡めて説明したものだけれども、この理解はさすがに致命的である。
ここで「昼下がり」になっているのは小説の本文にそう明記されているからだが、それまでの「真昼時」がどこに行ってしまったのかは不明である。
それはまた措いておくが、「昼の月」が「晴天であれば、満月以外なら見える」のだとしたら、前者の条件は問題なく、後者の条件も29/30の確率で実現する(考慮されていないらしい新月を減算したとしても、14/15に下がるに過ぎない)から、たしかに、「可能性は高かった」と言える。それを前提として、空を見ることを躊躇する英子が、家に戻るという決断を先延ばしにしていると結論するのである。
空を見ればほぼ間違いなく見えるはずの月を見ようとしないのなら、たしかにそう思わざるを得ないだろう。が、その思い込みが間違いなのは、当ブログをご覧の方ならもとよりお判りのことだろう。

「昼下がり」――仮に午後2時として、月が見える可能性のあるのは月齢25日頃~翌10日頃の間だけである。ただしこの期間内でも新月なら見えないし、その前後の日も極めて細い月で、昼の月が見える、とは言いがたい。
また、小説の舞台になっているような都会なら、2時が月の出入の間際になる各1~2日は、建物の陰に隠れて見ることができない可能性が高いと思われる。とすれば、その時に月が見える可能性は、1/3程度しかなかったはずである。
もっと言えば、小説の内容からして半月に近い形の月が期待されることを加味すれば、多く見積っても可能性はそこからさらに半減する。
29/30(もしくは14/15)の確率に賭けようとしたと考えるか、1/3(もしくは1/6)の確率に賭けようとしたと考えるかで、作品の読みが根本的に変わることはない、とは断じて思わない。

「真昼時」?

厳密には……」の続き。

前回、月を見たのが「真昼時」だということに付き合って書いて来たけれども、そもそもこれが疑わしい。

英子が別れた夫の秀一と一緒に昼の月を見たのは、結婚指環を誂えに出掛けた帰りである。


小説の本文には上記の通り確かに「昼の月」と書いてあり、この後にも「秀一」が「昼間も月が出るんだなあ」と言っている。
けれども、それと「真昼時」とは違うだろうと思う。「真昼時」という言葉には、正午前後の印象がある。
二人は「数寄屋橋のそばにあるデパート」を出たところで「昼の月」を見ている。
デパートの開店と同時に入ったのなら、出て来るのは「真昼時」かもしれないけれども、二人はこの後「有楽町の喫茶店」に入り、その後、姑と「指環を誂えたことを報告かたがた夕食を一緒にした」のだから、そんなに早い時間帯だとは思われない。

そもそも、「昼の月」の描写は、次のようである。

ビルの上にうす青い空があり、白い透き通った半月形の月が浮かんでいた。


半月だと明記されているのだから、月齢7日前後の頃だとしか考えられない。22日頃の月も半月だけれども、その月齢なら、月は昼前には沈んでしまう。
月齢7日なら月の出は11時30分過ぎ頃、正午には、まだ地平線からほど遠からぬ位置にある。1時間に15度ほどずつ昇る見当だから、「ビルの上」に月が見えるのは、早くて午後2時、恐らく3時頃までの時刻で、デパートでの買い物帰りに近くの喫茶店でひと息、というのに丁度良い時間帯だろう。そしてその後、姑の家に行って夕食を食べる……作者は、周到に時間を計って書いているのである。「昼の月」を「真昼時」だと思い込んで読んでいたら、こういうところが見えて来ない。

小説などの文学作品は、書かれていない(ように見えて、実は書かれている)ことまで読むと、よりおもしろくなるものである。表面的に書かれていることだけを読んでいてもそれなりにおもしろいだろうけれども、それでは少々、もったいない。

「厳密には…」

あまり厳密ではない話。

本を読んでいて、おもしろいと思うこともあればそうとは感じないこともある。
もっとも、良いにしろ悪いにしろそれ以上の感想を持つことは稀なのだが、ごく最近読んで、久々に腹の立ったものがあったので、腹立ち紛れの勢いで書いている。
書評だのレビューだのというまとまったものではなく、あまりに低次元の断片語なので、著者名や書名は割愛することとする。

ある有名な作家の、ある有名な小説に関して、こんなことが書かれていた。

昼の空にある月というものを見たことがあるでしょうか。天候や月齢によっては見えにくい時もありますが、晴天であれば、満月以外なら見えるのです(厳密には、真昼時限定ならば四分の一以上が欠けている月のようです)。


何とも、意味不明な文である。
「見たことがあるでしょうか」と読者に問いかけているのを見ると、逆に、「見たことのない人がいるのでしょうか?」と聞き返したくもなるが、当該の小説にはそういう男が出て来るのだから、それは措いておく。
まずは、「天候や月齢によっては見えにくい時もありますが、晴天であれば、満月以外なら見えるのです」というのが、どういう知識に拠って書かれているのか、不思議でならない。
「満月以外なら見えるのです」と「厳密には、……」との整合性がどうなっているのか理解しがたいこと、「月齢によっては見えにくい」ということの指し示している意味が判らないことも措いておくとして、この文を読む限り、晴天であって満月でない日であれば、1/4以上欠けた月が、真昼時には必ず見える、ということになる。
そんなはずがないことは、小学生にでも判ることである。(もっとも、国文科の大学生でも判らなかったりはするのだが……。)

言うまでもないけれども、月は、同じ月齢であれば、ほぼ同じ時刻に昇り、ほぼ同じ時刻に沈む。むろん、季節による誤差があって、厳密に考える必要のある場合にはきちんと調べる必要があるけれども、数時間に及ぶ差が出るようなことはないから、大雑把に「ほぼ同じ」と考えておいて、大過ない。
月が「四分の一以上が欠け」るのは、単純に計算して、月齢20日頃~翌11日頃の間になるだろう。
その内、「真昼時」に月が見えるのは、月齢23日頃~翌7日頃の間(むろん新月は除く)で、その期間内に真昼時に四分の一以上欠けた月が見られるのは確かだけれども、それ以外の日には、月は見えない。「晴天であれば、満月以外なら見える」ことを前提にして「真昼時限定ならば四分の一以上が欠けている」ということが「厳密」だとは、到底思われない。
そんなことは、古典を少しでも齧っていれば調べなくても判ることだけれども、判らないのなら当然調べてから書くべきだろう。

ここまでは、謂わば揚げ足取りみたようなものだけれども、もう少し大事なことが、ある。
続きは、また書く。

【10月19日】
記述が不明確なところを、若干修正した。