「君の名は。」もしくは須賀神社

「君の名は。」舞台の須賀神社で消防訓練 東京消防庁 文化財防火デー

 文化財への防災意識を高めようと、東京消防庁四谷消防署は24日、大ヒット映画「君の名は。」の舞台になった新宿区の須賀神社で消防訓練を行った。

 地震で社殿の灯明が倒れ火災が発生したと想定し、地域住民ら約100人が社殿内から文化財を模した絵画を運び出した。消防隊員らは、映画のクライマックスに登場する参道の階段を駆け上がり放水した。

 国は昭和24年1月26日に炎上した法隆寺(奈良県)を教訓に、毎年同日を「文化財防火デー」と定めており、訓練はその一環。須賀神社は、江戸時代の絵画で小野小町や紀貫之などの姿を描いた新宿区指定有形文化財「三十六歌仙絵」を保存している。(産経ニュース)


何でも「聖地」になっているんだそうで、ネット上にはその場所を紹介しているものが少なからず、ある。
が、中には駒込にある同名の神社と勘違いしているようなものもあって、そんなのを見ると、神社のことも何にも知らなくて…と言いたくなるところだが、僕は「君の名は。」のことを知らない。
とすれば、どっちもどっち、と言えないこともない。

「まにまに」

昨日も取り上げた『近代異妖篇 岡本綺堂読物集三』より。

普通の幽霊草といふのは曼珠沙華のことで、墓場などの暗い湿つぽいところに多く咲いてい(ママ)るので、幽霊草とか幽霊花とか云ふ名を附けられたのだが、こゝらで云ふ幽霊藻はまつたくそれとは別種のもので、水のまにゝゝ漂つてゐる一種の藻のやうな萍だ。(「水鬼」P77~78)


これ自体は何ということもないのだけれども、「まにまに」ということばを見ると、思い出すことがある。

長い学生時代の最後の頃だったか、ある先輩が、自身の師匠の論文(?)の校正をしていた。その文章が掲載される論集が、僕がアルバイトしていた出版社から出されるものだった関係で、その先輩が赤入れした校正刷りを見ることになった。
すると、源氏物語の浮舟が「波のまにまに漂って行く」というようなことが書かれていた箇所を、その先輩が「波のままに」に直しているのを見つけた。
「川の流れの」というような表現なら「ままに」でも良いかも知れないけれども、「波のまにまに」というのは小舟が波にもまれて行ったり来たりする様子を、2人の男の間で揺れ動く浮舟にたとえたものだろうから、それを「ままに」に直してしまったら台無しである。
執筆者の意図は明白で確かめるほどのことでもなく、校正者に断るのも先輩に対して語彙不足を指摘するようなのが憚られて、黙って最終校正を元の通り「まにまに」に戻して下版した。

ただそれだけのことなのだけれども、観点を変えれば、異文が生まれる原因の一つを、目の当たりにした瞬間だったと言えないこともない。

逆接の接続助詞「を」に関する断片語(3)

かなり以前、伊勢物語(第6段)にある下記の表現

女の、え得まじかりけるを、年を経て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。


の「年を経てよばひわたりけるを」について、これが「年を経てよばひわたりける(女)を」の謂で、「を」は接続助詞(逆接)ではなく、格助詞と見るべきことを書いた。

※「逆接の接続助詞「を」に関する断片語(1)(2)

先日、『近代異妖篇 岡本綺堂読物集三』(中公文庫)を読んでいて、こんな表現を見つけた。

むかしの旗本屋敷などには往々こんなことがあつたさうだが、その亡魂が祟をなして、兎もかくも一社の神として祭られてゐるのは少いやうだ。さう判つてみると、職人たちも少し気味が悪くなつた。しかし梶井の父といふのはいはゆる文明開化の人であつたから、たゞ一笑に付したばかりで、その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを、細君は女だけに先づ遮つた。それから社を取りくづすと、縁の下には一匹の灰色の蛇がわだかまつてゐて、人々があれゝゝと云ふうちに、たちまち藪のなかへ姿をかくしてしまつた。(「月の夜がたり」三、67~68頁)


「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを」の「を」である。この「を」に準体助詞「の」が上接することからも明らかなように、格助詞の「を」で、連用修飾を表わす。
件の勢語の「を」を、そういう表現だと考えるのである。

むろん勢語には、準体助詞「の」はない。が、近代語ではこういう場合に準体助詞が必須だけれども、古代語ではそうではない。
直前の「え得まじかりけるを」も、「え得まじかりける(の=女)を」ということで、準体助詞なしに、「え得まじかりける」を体言句にしている。綺堂の文と同じ事柄を表わすのに、古代語であれば、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたを」という類の言い方が、可能だったのである。

さて、綺堂の文の「しかし」以降の1文で、主語は「梶井の父」だけれども、文末「遮つた」は、その述語ではない。「遮つた」の主語は、言うまでもなく「細君」である。
この文は、「しかし梶井の父といふのは…その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとした」と、「焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを、細君は女だけに先づ遮つた」という別々の文としても表現しうるものを、1つの文に凝縮して表現しているのである。

勢語の文も、これと同じことが言える。
「女の、え得まじかりけるを、年を経て呼ばひわたりけり」と「年を経て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり」とが、1つの文に統合されているのである。

なお、綺堂の文を、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたけれども」と言い換えても、意味は、通じる。通じるけれども、むろんのこと、「その書き物も黒髪もそこらに燃えてゐる焚火のなかへ投げ込ませようとしたのを」とは、まったく別の表現である。
「年を経てよばひわたりけるを」を「言い寄り続けていたけれども」と逆接に訳出しうることと、この「を」が逆接であることとは、直接の関わりがない。そういう言い換えをしても、意味の疎通する訳文めいた別種の表現を、創り出せるに過ぎない。

鴎外の書簡

森鴎外29歳時の書簡、2月初公開 初期の創作活動知る資料

文豪の森鴎外(1862~1922年)が29歳の時、作家で劇評家の饗庭篁村(あえば・こうそん、1855~1922年)に宛てて書いた全集未収録の書簡1通が4日までに見つかった。東京都の文京区立森鴎外記念館が昨年夏に都内の古書店から購入、2月2日から初公開する。

この頃の鴎外の書簡は全集でも収録数が少ないといい、記念館は「鴎外の初期の創作活動を知ることができる貴重な資料だ」としている。

書簡は1891年2月27日付で、巻紙に毛筆で書かれている。鴎外の留守時に家を訪ねて来た篁村に対し、「今日おん目にかくべかりしにと遺憾」と記し、書き上げたばかりの原稿を見せたかったと残念がっている。

書簡に出てくる原稿は「朗読法につきての争」と題され、鴎外が主宰する文学評論雑誌「しがらみ草紙」18号(同年3月25日発行)に掲載された。篁村らが東京専門学校(現早稲田大)に設けようとしていた「和文朗読法の科」に鴎外が賛同するとの内容だ。

鴎外は88年、4年にわたるドイツ留学から帰国。90年には小説「舞姫」を発表するなど、軍医として勤務する傍ら、文学活動に本腰を入れ始めた時期に当たる。(日本経済新聞)


未知の書簡が発見されて、鴎外の文学の読みが変わると考える立場には立たないけれども、とはいえ興味深い発見である、とは思う。