ノーベル文学賞2016(その15)

第1報から半年近く経って、ようやくここまで来たか、という感じではある、のだが…。

ボブ・ディラン氏、賞状受け取りへ ノーベル賞

 昨年のノーベル文学賞受賞者の米シンガー・ソングライター、ボブ・ディラン氏が今週末にスウェーデンの首都ストックホルムを訪れ、選考主体のスウェーデン・アカデミーから同賞のメダルや賞状を受け取ることが分かった。アカデミーのダニウス事務局長が29日、ブログで明らかにした。

 ディラン氏は昨年12月の授賞式を欠席し、メダルなどはアカデミーが保管。だが、ディラン氏と最近まで音信が途絶えていたため、行方が注目されていた。ダニウス氏は賞金800万クローナ(約1億円)に触れていないが、メダルと一緒にディラン氏に渡すとみられる。

 一方、ディラン氏は受賞者に義務付けられている講演は行わず、代わりに講演のテープをアカデミーに提出するという。過去には本人のスピーチの録音や録画で講演の代わりと見なしたことがあり、同様の対応となる。

 ディラン氏は4月1~2日にストックホルムでコンサートを開く予定で、アカデミーはこれに合わせてディラン氏が講演するとの期待を表明していた。メダルなどの手渡しはディラン氏の希望により非公開で行われる。(日本経済新聞)


それにしても相変わらず、講演は録音だわ、メダルの手渡しは非公開だわ…。

東京さくらトラム

都電荒川線に、愛称を付けるんだそうだ。

ただし、エントリのタイトルは、一案であって決定されたものではない。

都電荒川線に愛称を付けます!
-皆様のご意見を広く募集-

都電荒川線は、東京に残る唯一の都電として、地域の身近な足として親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など、多様で魅力あるスポットがあります。
東京都交通局では、こうした都電荒川線の魅力を国内外に積極的にアピールし、さらなる利用者の誘致、沿線地域の活性化に寄与していくため、外国人を含む観光客の方にも親しみやすい愛称を付けることとしました。
つきましては、広くお客様に親しまれる愛称とするため、下記のとおり、8つの言葉のうちどれがふさわしいか、ご意見を募集しますので、お知らせします。

愛称案

「東京○○トラム(Tokyo_Tram)」
- [注1]
海外ではヨーロッパを中心に路面電車(トラム)が環境にやさしい公共交通機関として再び注目され市民の足として親しまれています。
- [注2]
「○○(_)」の部分には次のとおり都電や沿線をイメージできるような言葉を入れます。


○○(_)に入る言葉の候補

ローズ(Rose)
さくら(Sakura)
フラワー(Flower)
ブルーム(Bloom)
クラシック(Classic)
レトロ(Retro)
ノスタルジック(Nostalgic)
レガシー(Legacy)

[ 2017/03/18 16:05 ] 旅・散策 乗り物 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

「行こうじゃないでしょうか」

しばらく前にテレビでニュースを見ていたら、某野党の党大会の映像が流れていた。
そこでは党代表が、実現して行くべき党の政策について、聴衆に呼びかけていた。
その内容はどうでも良いのだけれども、呼びかけの語尾が妙に気になった。
「…して行こうじゃないでしょうか」
この言葉には、聞いた瞬間に大きな違和感があった。

「…じゃ(では)ないか」という言い方はある。その前にある内容を強く勧誘する言い方である。
「…して行こう」ということを強く勧誘しようとするのなら、「行こうじゃないか」と言えばいいわけだけれども、それでは乱暴だと考えて、丁寧な言い方をしようと思ったのかもしれない。
が、「行こうじゃないでしょうか」はメチャクチャである。
「ない」を丁寧に言えば「ありません」である。だから、言うまでもなく、「行こうじゃありませんか」と言えば良かったのである。
「ないでしょう」も丁寧にはちがいないが、これは「ない」に対するものではなくて、「ないだろう」という推量形に対してのもので、これでは「ない」そのものが丁寧になっていない、ばかりではなく、そもそも表している意味が違う。

党内の意見対立で自分の主張を強く打ち出しにくい事情があって、ソフトにソフトに、と過剰に心掛けた結果だったのかもしれないけれども…。

「起き上がって、見ると」

「走れメロス」を読んでいて、ここをメモっておこうと思った人はほかにあるまいけれども、気になってしまったのだから仕方がない。

ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろと起き上がって、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧いて出ているのである。(『走れメロス』新潮文庫、P177)


いいかげんに読んでいると、「潺々」なんていう耳慣れないことばが出て来ても、見逃してしまうものである。今まで意識した記憶がない。わざわざ調べなくても、おおよそ文脈から察しが付くからだろう。音「せんせん」、「水がさらさら流れる△様子 (音)」 の意の古風な表現。」(『新明解国語辞典』)。

それはともあれ、「起き上がって、見ると」である。「起き上がってみると」でないところがポイントで、接続助詞「て」の前後で、「起き上がる」と「見る」という別々の動作を表わしている。
このように、読点が打ってあり漢字が宛ててあれば誤解の余地がないけれども、古典の文では、こういう判断が難しい場合がある。けれども、古代語は近代語に比べて接続助詞「て」の前後を接続する力が強いから、「起き上がってみると」式ではなくて、「起き上がって、見ると」式と考えた方が良いものが多い。

たとえば、土左日記冒頭の「してみむとて、するなり」も、「書いてみようと思って」なのではなくて、「書いて(それを)見ようと思って」なのだと、僕は、考える。
そう考えると、掉尾の「とまれかうまれ、とくやりてむ」との呼応が見えて来る。書き了えて、読み返してみたら、不本意なものになっていた、だから、破ってしまおう、というのである。