辞典の話(続)

辞典の話」の続き。

違う理由は、いくつかある。
第一に、辞典にはかならずしも正しいことが書かれているとは限らない。
前回、「ものぐるほし」と書いた、その語を例に取る。

 『岩波古語辞典』…「物に憑かれて気が違ったようである。狂気じみている」
 『角川新版古語辞典』…「気が変になりそうだ。気違いじみている」

『岩波古語』の方が表現がより強烈だが、どちらも似たようなことが書いてある。そら見たことか、どの辞典を見ても、大した違いはない。

が、次に『例解古語辞典 第2版』を引く。
「ばかげている。ばかばかしい」とあり、さらに、「要説」として、

多く軽い嘲笑を含めて用いられる。気違いじみていると解釈するのは、動詞「くるふ」の意味と直結して考えるための誤りで、実際の用法に合わない。

とあるのである。

有名な『徒然草』の冒頭、「徒然なるままに日暮し、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそものぐるほしけれ」を習った時、「よしなしごと(=たわいもないこと)」を書くのがどうして「気違いじみている」ことになるのか、良く理解できなかった人はいないだろうか。それに、「そこはかとなく(=とりとめもなく)」書き付けると、何で「物に憑かれて気が違った」ことになるのだろうか。
そういうことを考えると、『例解古語』の説明の方が良さそうに思える。

あぁそうなのか、『岩波古語』や『角川古語』は間違っているんだな、だったらそんなもの、捨ててしまったら良かろう、そもそも、そんな欠陥商品を出している出版社には、苦情を申し立てなければ…。

いや、そういうものではないのである。
赤瀬川源平の『新解さんの謎』の中に、「新解さん」(『新明解国語辞典』のこと)を分析した単行本に対して、「ただ間違いを指摘しただけの本で、ぜんぜんつまらない」と評している部分があった。
僕はその「単行本」を読んだこともないし、『新解さん…』の方向性をかならずしも諒とするわけではないが、『新解さん…』の言う通り、辞典の記述のアラ探しを指摘したところで、さしたる意味はない。むしろ、絶対に正しいことが書かれているはず、という前提で辞典に向かうこと自体が、間違っているのである。

算数の参考書なら、正解が書かれていなければ間違いである。が、実はそんなに単純に割り切れるものは、世の中には多くない。
ことばは生き物だから、固定した意味があるわけではない。「ことば」という現象を、実態に即して解釈して解説したのが国語辞典や古語辞典である。だから、解釈する人によって、違いが出るのは当然である。それらの正誤を判定する絶対的な基準はない。

もっともこれは、ことばの解釈に限ったことではない。現代の教科書に、天動説が書かれていたら大問題だろうが、15世紀の科学書であれば、地動説が説かれていることの方が誤りである。科学は、進歩するのである。
ことばの解釈も、科学だから、先の「ものぐるほし」にしても、『例解古語』の方が良さそうだとは書いたが、それが絶対的な正解かどうかは判らない。辞典の記述はあくまでも参考で、文脈により適当な解釈を、自分で考えなければ意味がない。
だから、そのための参考書(=辞典)は、いくつもあるに越したことはないのである。

(気が向いたら)まだ続く。

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