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断片語・日本語は最後まで読まなければ判らない…?

たとえば、こんな文がある。

  私は 東京に 行く。

英語なら

  I go to Tokyo.

となる。

日本語では、述語は最後に来る。だから、「行く」か「行かない」かは、文の最後になるまで判らない。
それに対して、英語の場合、「go」なのか「don't go」なのか、という重要な情報は、予め提示される。だから、文を最後まで読まなくても、行くかどうかが判る。
それで、日本語は最後まで読まない(聞かない)と判らない言語だ…ということが、良く言われる。

この考え方の、どこに間違いがあるか。

◆重要な情報
「東京に」に比べて「行く」がより重要な情報であるかどうかをどのように評価するのか。

  I go to Tokyo.

では、目的とする場所がどこなのかは最後まで読まなければ判らない。

  私は 東京に 行く。

なら、最後まで読まなくても「東京」だということが判る。
東京の話題なのか京都の話題なのかは重要な情報で、日本語ではそれを予め提示するけれども、英語は最後に持って来る。つまり、英語は最後まで読まないと判らない言語だ、とも言える。
先ほどと同じ理屈で、まったく逆の結論が出るのである。

それでも述語の方がより重要な情報だ、と固執する向きもあるかもしれないけれども、それにはさしたる根拠が見出せない。
二重橋駅の改札を出たところで、「すみません、皇居には…」と言われたとして、「述語まで喋ってください」と言うことは、まずないと思われる。
逆に、 「どうやって行きますか?」とだけ言われても、二重橋駅の改札で道を訊ねた人の行き先を一箇所に限定することは不可能だから、何を答えたら良いのかは判らない。この質問には、「どこにですか?」と返さざるをえない。
つまり、文の中でどの要素が重要なのかは、相対的なもので、一概に述語が重要だとは決められないのである。

◆最後まで判らない
判らないのは、どうする(行く、行かない)の情報だけで、「私が」や「東京に」という情報は、与えられた時点で理解できるはずである。
「行く」と言った時点で初めて「私」が誰なのかが判る、とか、「行かない」と言った時点で初めて「東京」とは何なのかが判る、ということは、それがことばである以上、ありえない。

日本語に、最後に述語が来るという特徴があるとしても、だから最後まで読まないと判らない、とは言えない。判らないのは、まだ表現されていない部分だけで、表現されたところまでは、判るはずである。
実際の言語生活では「言い差し」ということがしばしば起るけれども、日本語を言い差すと、たいていの場合、文末に来るべき述語が表現されないことになる。が、それによってコミュニケーションに著しい支障が起るということはない。

◆文脈もしくは場面
ある文が、単独で表現されることは殆んどない。多くの場合、前から続いている文脈の中で、表現される。
だから、仮に「私は東京に」だけだとしても、それが週末の行き先を皆で話し合っている文脈の中で発せられたのなら、それだけで十分に要を為すのである。逆に、述語を付けて「私は行きます」と言ったところで、目的が示されなければ要を為さない。

要するに、日本語が最後まで読まないと判らない言語だ、というのは客観性を持っていない迷信だということである。まだ表現されていないことが判らないのは、こと日本語に限ったことではない。

むろん、日本語は最後まで読まなくても判る、ということではかならずしもない。どんな言語であれ、読んだところまでは判るし、読んでいないところは判る場合もあるし判らない場合もある。それだけのことである。

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