附箋を剥がす(31)Including 「全然」(その20)

先日必要があって……というほどの必要でもないけれども、獅子文六の『ちんちん電車』(河出文庫)を読み返していた。その附箋を剥がすためのメモ。
この作品、以前、いわゆる「ら抜き」の問題で、取り上げたことがあるものである。

その家は、吉原の有名な義士ファンの幇間(たいこもち)と、吉原芸妓の夫婦がやっていたというが、二人とも、もう、ジイさんバアさんだった。私たちは学校の帰りだから、店の中の椽台で食べたが、普通の客は座敷に通った。昔の汁粉屋の客は、皆、座敷へ上がったものだが、ここの座敷からは、すぐ、海が見渡された。品川の海が、まだ、高輪の岸を洗っていた時代である。(泉岳寺――北の辻。P44)


「ら抜き」(正しくは「a-r抜き」)があるかと思えば、逆に、現在では「見渡せる」がふつうのことばに「a-r」が入っている例もある。

札の辻の次は三田であるが、以前は、その停留所を薩摩原(サツマッパラ)と呼んだ。そのくせ、ここを終点とする電車は、三田行の札を掲げていたが、恐らく、字画が多くて書きにくかったからだろう。幕府時代に薩摩藩の屋敷があったから、その名が出たのだろうが、原という荒涼の感じは、、電車が開通しても、まだ残っていた。(芝浦。P52)


「サツマッパラ」に目が留まってメモしておいた。何故目に留まったかは、たぶん僕以外の人には理解できないので理由は書かずにおく。

その頃、この店はカキアゲといってもイカを使い、サシミもマグロでなくブリだったが、それはそれで、結構食べれた。そして、まだ親がかりの身だった私にも、そう懐の痛まぬ値段だった。(東京港――新橋。P66)


以前引いたもののほかにも、いわゆる「ら抜き」があった。

実は、最初の調査の時に、私は貸切り電車に乗って、ここを通ったのだが、とても街がよく見える。タキシやバスに乗っては、望まれないことである。それは前にも書いた。(新橋――銀座。P73)


「a-r」が入っている例。

銀座の柳というものに、私は一向に魅力を感じず、水もない街路に、あんな木を植えたって仕方がないと思うのだが、昔は松と桜の並木だったのを、なぜ柳にしたかというイワレは、あの出雲町の交番に、巡査が立っていて、夏の日のカンカン照りには可哀そうだというので、日影の多い柳の木を、鋼板の側に植えたのが、ハジマリだという。(新橋――銀座。P75)


助詞「を」が気になったのでメモしておく。

昔の銀座も、前に述べたように、飲食は栄えていたが、名も知れぬ店というのは一軒もなかった。誰もチャンと名を覚えていられるほど、有名店ばかりだった。(銀座――京橋。P83)


現在ではまったく違和感はないけれども「ら抜き」と言えば言えないことのない例。

昔の銀座に、スシ屋の目ぼしい店はなかったように思うが、今は東京一、日本一みたいなのがあるらしい。だが、私は行く気になれない。ベラボーに高いというからである。そして、高いのを喜んで集る客なぞと、同席する気になれない。そんな連中は、スシの代りに紙幣でも食ってればいい。スシなんてものは、普通に食べて、千円も払ってくればいいのである。その程度の食べ物である。食べ物にも、身分というものがある。身分をわきまえて、相当に食わせる店が、銀座に二、三軒ある。私が水準が高いというのは、そういう店があるからである。(銀座――京橋。P84)


単に、面白いな、と思っただけのもの。

ところで、突然に、あの近代的恐竜の出現である。よく思い切って、あんな工事ができたものと、感心するくらいだが、橋の存在は、全然無視されたから、今の状態になるのは、当然である。(日本橋。P96)


否定を伴わない「全然」の事例。

金港堂の方は、教科書出版だったから、あまり縁がなかったが、とにかく、有名な出版社が日本橋に多かったという過去に、興味を感じるのである。それは、昔日の日本橋が、東京のあらゆる一流的な企業を、吸い寄せ、その中心になってたことの証跡となるかも知れない。(続・日本橋。P105)


いろいろな言葉に「的」を付けてしまうのは日本語の造語力の強さを示しているけれども、「一流的」はあまり見慣れない例なのでメモしておく。

室町三丁目の電停附近を十軒店(じっけんだな)といい、人形やが沢山列んでたが、いつの昔か。三月と五月の節句人形の売出しの時には、電車の窓から、賑やかな彩りが見えた。年末になると、羽子板の市が立った。戦後、人形屋の一軒がゴルフ道具屋になったとか聞いたが、そのような転業のために、街の季節感は、もう味わわれなくなった。(神田から黒門町。P108)

ヤッチャ場は秋葉原へ移ったが、その殷賑の余曳が、まだ窺われないこともない。須田町附近が一つの盛り場として、面影を止めてることも、また、電車通りに、ベッタラ漬で有名な、中川屋という漬物や、ノレンの古い万惣という果物屋のあることも、ヤッチャ場との関係の名残だろう。(神田から黒門町。P109)


現在なら「a-r」抜きで「味わえなく」「窺えない」というところだろう。

私はこの稿を書くために、更めて浅草見物に出かけ、伝法院の中の幇間塚というものに感心したが、さらに、奥山の弁士塚の前に立って、実に、感慨無量だった。タヌキ塚とちがって、この方は碑も立派なものだが、刻まれた弁士の名を読むと、いちいち記憶が甦ってきて、その声まで、耳に聞えてくる。花井秀雄なんて名は全然忘れていたが、八字ヒゲの顔や、"不夜城の光景と相成りまァす"という、キネオラマの説明の文句まで、思い出して、わが年少の時代に、再会した想いがした。(六区今昔。P154)


否定を伴わない「全然」の事例、その2。

さて、そのキレイで巌丈な、耐火建築になった本堂だが、いつも、サイセン箱の前で、拝んで帰るだけなのを、今度は、浅草の顔役が案内してくれたお蔭で、内部に入ることができた。(観音堂と周辺。P160)


助詞「を」が気になったのでメモしておく、その2。

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