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『古語の謎』

白石良夫『古語の謎 書き換えられる読みと意味』
古語の謎―書き替えられる読みと意味

およそ学問的なタイトルではない。「謎」だの「暗号」だのがタイトルに付いている本は、総じて信用できないのが相場である。のみならず、帯に書かれている「そんな歌、詠んだっけ?―柿本人麻呂(談)」という謳い文句に至っては、かなり怪しげである。が、サブタイトルには惹かれるものがあるし、目次を見るとなかなか面白そうだし、ということで読んでみた。

第1章「創作される人麻呂歌―「ひむがし」が歌語になるまで」では、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて…」と訓じられる柿本人麻呂の歌を取り上げている。「東野炎立所見而」の訓みは、「あづまののけぶりのたてるところみて」(元暦校本)が、すくなくとも平安末期の時点での訓であって、「ひむがしの…」は、契沖・荷田春満・賀茂真淵という国学者たちによる学的な成果として江戸時代に成立した万葉の歌語だという。なお、これが、帯の人麻呂の独白(?)の由来。
第4章「濁点もばかにならない―架空の古語の成立」では、『源氏物語』河内本や『徒然草』に用例があるとされる「おごめく(蠢く)」という語が、林羅山の『野槌』が「鼻のほおこめきて」とすべきところを、「鼻のほとおめきて」と誤記したことによって誕生した新しい「古語」だと推断する。

これら個々の問題についての当否は軽々には論じられないが、古代語だと信じられていることばが、実は後世に作られたものだという例は、たしかにある。
たとえば、古語辞典を引くと「なたぐひ(名類)」という語が立項されていることがあるが、その唯一の用例である『土左日記』の原文が「なくひ」だったりすることなど。(ただしこれは本書で取り上げられているものではない。)

終章「作者自筆本という幻想―古学の限界」で提起される、「作者自筆本はなぜ残っていないのか」という問い、文献学の営為を「末流本文の再生産」と捉える視点には、考えさせられるものがある。

各論にはこだわらず、総論として読んで益ある本である。

No title

これ、読もうと思ってました。
この最終章の問題って、『異本論』に通じるものがありますね。
[ 2010/12/08 00:51 ] [ 編集 ]

Re: No title

> この最終章の問題って、『異本論』に通じるものがありますね。

アプローチと用語は異なりますが、大局的には同じ方向を向いていると思います。
個々の説を専門的な見地から見れば、批判はできるでしょうが、仮に各論に誤りがあったとしても、それとは関係なく、異文(異本)発生のメカニズムを積極的に捉えている点は、非常におもしろいと思います。
是非、お読み下さい。
[ 2010/12/08 20:01 ] [ 編集 ]

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