間の美、あるいはクラシック「通」についての雑感

先日、あるクラシックのコンサート(室内楽)を聴きに行った。
クラシックにはまるで造詣が深くないので、そのコンサートの演奏について云々するつもりはない。ここで語りたいのは、聴き方についてである。

クラシックのコンサートの聴き方には、作法があるようである。演奏が1曲終わるごとに拍手をする。そのこと自体はROCKだろうが童謡だろうが当たり前なのだが、クラシックのコンサートに限って言えば、これがなかなかに難しい。
何故なら、演奏曲を熟知していないと、どこで終わりなのかが判りにくいからである。終わりなのかと思うと、少しの間を置いて引き続き次のフレーズが演奏されることもある。それに、ROCKならのべつ幕なしに手を叩いたり叫んだりしているから、多少外したところで何ということはない。が、クラシックのコンサートの演奏中の客席は、基本的には静寂が支配している。そんな中、迂闊に手を叩くことなどできない。

だから、演奏が終了した後即座に拍手をするようなことは、余程の「通」でなければ、できない技である。言い換えれば、演奏終了後に能う限り速やかに拍手をすることが、「通」の証しだということである。オーケストラで全曲演奏終了後に「ブラボー!」と叫ぶのも同じである。如何に演奏に被らず、しかも迅速に行動を起こすか、が勝負なのである。
今回のコンサートでも、曲終了後0コンマ0何秒かのタイミングで手を叩く「通」な方が、少なからずいた。よくぞそこまで自信を持って手を叩けるものだと、感心すること頻りである。到底真似のできることではない。

が、一方で、そういう行為は「通」なのかもしれないが、「粋」ではないとも思うのである。
まったく別の例で恐縮だが、20年以上も前、中村雀右衛門の『京鹿子娘道成寺』を見ていて、ふと気付くと息苦しくなっていたことがある。あまりの素晴らしさに、比喩ではなく現実に息をするのも忘れていたから、というウソのようなホントの話なのだが、定式幕が閉まり切って、割れんばかりの拍手を耳にしてから、ようやく我に返って拍手をすることができた。それだけ雀右衛門の演技に魅入っていて、違う世界に行っていたわけである。

だから僕は、クラシックの演奏においても、本当にその演奏に感動して曲の世界に入ってしまっているのなら、曲が終わったからといって、そんなに早く立ち直って拍手をすることは、できないはずだと思うのである。それができるのは、曲が終わる少し前から拍手をするタイミングを虎視耽々と待ち構えているからなのではないか。
クラシックに造詣の深い方は、僕のような凡人とはまったく違った感覚の持ち主なのかもしれないけれども、それにしても、「間」の美というものがあるはずである。「間」などというのは「和」の感覚だからクラシックとは相容れない、とも言えるかもしれないけれども、だったら「余韻」という言い方に換えても良い。

演者にしても、最後の音を出し終わって、瞬時に気分が切り替わるということはよもあるまい。多少は余韻に浸っているはずである。だから、演者が立ち上がって客席に向かって礼をする時点で初めて手を叩いてもけっして遅くないと思うのだが、それではどうしても満足出来ないのだとしても、せめて楽器から完全に手を離して通常の姿勢に戻るまでくらいは待ったらどうなのだろう。僕は、そこまでが、演奏の内なのではないかと思う。

早すぎる拍手は演奏中の雑音と選ぶところがない、とまでは言わないけれども、僕にはそういうクラシックの作法が、どうにも腑に落ちないのである。

クラシック音痴のたわ言と思わば思え。


<贅言>
平安朝の貴族は、絶望のどん底にあっても、技巧溢れる美しい和歌を詠むことができた。技巧的だからといって、それが魂の叫びではないと言うことはできない。彼らはそれを当たり前のこととする世界の中で育ったので、魂の叫びを技巧的に表現することができただけのことである。
残念ながら、現代の小市民として生活する僕のような凡俗には、それを理解することはできても、感覚として共有することができない。
(中略)ともあれ、ここに書いたクラシック通の作法は、残念ながら僕には共有できない。(後略)
[ 2010/12/30 23:30 ] 理屈・屁理屈 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

コメントの投稿











管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://hoshinahouse.blog101.fc2.com/tb.php/139-fd466051