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「芝浜」

昨日のエントリの最後に「芝浜」を持って来たのは、実は今日への振りである。

少し前に録画しておいた、NHK『日本の話芸』、柳家さん喬の「芝浜」を見た。
冒頭からいきなり編集(カット)されていて唐突な始まり方になっているところや、NHKの技術としてはありえない程画面が揺れていたことなど、気になる点はあるものの、それらを補って余りある好演で、久しぶりに感動する落語を聴いた気がする。カットについても、番組の編成の都合上、30分弱に収める必要があるのだから、致し方ないところではある。

ただ1点、腑に落ちない点があった。
酒ばかり飲んで怠けていた棒手振りの魚屋・勝五郎が、おかみさん(おふみ)に起こされて久しぶりに芝の魚河岸に仕入れに出掛けたのだが、一軒も開いていない。
そこに、切通しの鐘が鳴る。数を数えると…、

あれ、切通しの鐘、搗き終わったのかい? ひとつ足りねぇ。野郎、嬶ァの野郎、一刻(とき)早く起しやがった。忌々(いめいめ)しい野郎だなちきしょう…


翌朝の場面から考えると、本来起きるべき時刻は「六つ」(午前6時)だったはずである。
「六つ」には、その名のとおり6回鐘を鳴らす。正確には9回鳴らすのだが、最初の3回は捨て鐘だから、回数として認識されるのは6回だと言って良い。
問題は、「六つ」より一刻(2時間)早く起きた場合、鐘を何回聴くことになるか? ということである。

江戸時代の時刻の数え方は、「九つ」が午前0時、そこから「八つ」「七つ」…と数が減って行くに従って、2時間ずつ経過する。そして「四つ」が午前10時。
それなら正午が「三つ」かというとそうではない。正午はまた「九つ」に戻るのである。そしてまた、「八つ」「七つ」…と数が減って行く。
何だか面倒に思うかもしれないが、「九つ」が12時で「六つ」が6時というくらい覚えておけば、あとは簡単に数えることができる。午前と午後で同じだし、大した面倒はない。
厳密に言えば、もっと細かいことはあるのだが、そこまで理解していなくても差し支えはない。(むろん、僕も理解していない。)

そこで、先の「問題」の答え。
「六つ」より一刻早く起きた場合、鐘を7回聴くことになるのである。つまり、「六つ」よりひとつ多いのである。
台詞のとおり鐘がひとつ少ないなら「五つ」だが、午前8時では、違う意味で河岸は開いていないだろう。つまり、鐘がひとつ少ないから一刻早いというのは、実際とは違っているのである。

ちなみに、この演目を得意としていた3代目桂三木助の口演では、この部分は以下のようである。

あゝ、切通しの鐘が鳴っていやがらァ……いい音色だな、金が入(へえ)ってるとか言やァがったなァ。おまけに海へぴィんと響きやァがるからたまらねえなァ、あの味がよォ、また、なん……つぇッ 暗(くれ)え訳だ、嬶ァ、時刻(とき)ィ間違(ちげ)えて早く起しやがった……ちぇッ、忌々(いめいめ)しいなァ、ほんとに……

(青蛙房刊『桂三木助集』より。ただしト書きは省略した。)

鐘の数については触れられていない。鐘の数に言及すると、現代の聴衆には判りにくくなるという判断もあるのだろう。

さん喬ほどの噺家が、江戸時代の時刻の数え方を知らないはずがない。たとえ事実とは違っても、漠然と「違う」と言うより、具体的に鐘の数に言及した方が判りやすいという考えなのかもしれない。だが、この改変はいかがなものか、と思うのである。
時代に合わせて変わって行くのが、話芸というものである。否、基本は守りながら変えて行かなければならないのが話芸である。だから、台詞を変える行為自体には、まったく異存はない。また、ここで細かいどうでも良いことを指摘して揚げ足を取ろうつもりもない。だが、その上でなお、「いかがなものか」と言いたいのである。
何故なら、落語にとって時刻の数え方は、「芝浜」さえ判りやすくなればそれで良いという性質のものではないと思うからである。

前座話として有名な「時そば」で、

 「…いつ、むぅ、なな、やぁ…今何刻だい?」「九つです」「とお…」

と、1文誤魔化して得をした男(以下「誤魔化した男」と呼ぶ)を見て、それを真似した男(以下「真似をした男」と呼ぶ)が、

 「…いつ、むぅ、なな、やぁ…今何刻だい?」「四つです」「いつ、むぅ、なな、やぁ…」

と4文損をする。
何故、誤魔化した男が「九つ」で、真似をした男が「四つ」なのか。「八つ」と「七つ」でも、「六つ」と「五つ」でも、誤魔化した男が得をして、真似をした男が損をするのには違いない。
むろん、「九つ」と「四つ」が、真似をした男が最大の損を生む時間差だということも大いにある。だが、けっしてそれだけで説明し切れるものではない。

そもそも、真似をした男は何故、誤魔化した男と同じ「九つ」に実行しなかったのか。真似をした男が馬鹿だったから、というのはひとつの答えには違いない(真似をした男を「与太郎」とする演出もあるくらいである)が、だからと言ってそれだけの単純なことではない。
真似をした男は、前日のうちにすぐにも実行したかったのである。が、その日は銭の持ち合わせがなかったからやむなく翌日に持ち越しになった。銭を用意して、朝からやりたくてやりたくてうずうずしている。とは言え、さすがに「五つ」(午後6時)前では夜鳴きそばも出ていなかろう。待って待って、漸く「四つ」になって、時間も考えずに勇んで実行に移したわけである。

柳家小三治は、真似をした男が誤魔化した男を目撃した場面で、

俺もやってみようかしら、なんてんで…。その晩はあいにく細かいのがございません。明くる晩、揃えておくと待ちかねて表へ飛び出したってぇやつで…

(ソニー・ミュージックエンターテイメント『落語名人会37 柳家小三治13~初天神 時そば』)

とやる。真似をした男の待ちに待った心持ちを、さりげなく、かつ明瞭に表わしている上手い演出だと思う。

さて、誤魔化した男の都合だけで言えば、何刻にやっても構わないのだが、真似をした男が損をするというサゲのためには、「九つ」以降の時刻でなければならない。「四つ」では真似をした男は損をしないし、それ以前では前述のとおり、夜鳴きそばでもない。そして、「七つ」より後になると、やはり夜鳴きそばでもあるまいから、遅くとも「八つ」ではある必要がある。ただし、「八つ」の場合、真似をした男が「九つ」に実行すれば、逆にもう1文得をしてしまう。だから、真似をした男が必ず損をするためにも、「九つ」である必要があったのである。

単純な話のように思われるけれども、「四つ」の次が元に戻って「九つ」になるという、当時としては当たり前のことを「発見」しなければ、この笑いは生み出されなかったはずである。当たり前のことを「発見」するのは、思い掛けないことを「発見」するより、実は数段難しい。「時そば」は、時間が違ったから失敗した、というだけの噺ではなく、なかなか良く考えて作られているのである。

さん喬の「芝浜」は素晴らしかった。が、鐘の数え方を改変することは、啻に「芝浜」の問題に留まらず、「時そば」の時間設定の妙を味わええるかどうか、ということとも繋がっているように思う。そのことを、惜しむのである。
[ 2011/01/19 09:33 ] 古典芸能 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

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