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「全然」

メモみたようなものである。省察はない。

恒例の『新明解国語辞典』より。

ぜんぜん[全然](副) その事柄を全面的に否定する様子。全く。「―〔=まるで〕なっていない」〔俗に、否定表現を伴わず、「非常に」の意にも用いられる。例、「―(=てんで)おもしろい」〕


国語問題、特に「言葉の乱れ」に興味関心のある方なら、「全然」に関する様々な意見を耳にしたことがあるだろう。
「全然」に否定表現を伴わない用法は、『新明解』が「俗に」と言うことからも明らかなように、正しい用法ではないと、一般には思われている。
それに対して、別の意見もある。芥川龍之介もそういう使い方をしている、いや、芥川の例はそういう用法ではなくて…うんぬんかんぬん…。

芥川の例というのは、たとえばこういうものである。

これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意思に支配されていると云う事を意識した。(『羅生門』)

そうして、又さっきこの門の上に上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。(『羅生門』)

人間に、言語があるのは偶然ではない。従って、彼等も手真似では用を弁じない事が時々ある。が、彼等は、全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思っているらしい。(『芋粥』)

そこで、彼等は、早速評議を開いて、善後策を講じる事になった。善後策と云っても、勿論一つしかない。――それは、煙管の地金を全然変更して、坊主共の欲しがらないようなものにする事である。(『煙管』)

三人の忠臣が予想した通り、坊主共の上にも、影響した。しかし、この影響は結果に於て彼等の予想を、全然裏切ってしまう事に、なったのである。(『煙管』)


『羅生門』の2例目は、強いて言えば、「全然―反対」という、否定のニュアンスを伴う使い方とも、言えないことはないかもしれないが、それはかなりコジツケで、間違いなく否定と呼応しない例である。

もっと古く、夏目漱石にも用例がある。

ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅見せろと迫ると同じく、ラファエルに取っては迷惑であろう、否同じ物を二枚かく方が却って困難かも知れぬ。人間の用うる国語は全然模俲主義で伝習するものである。(『吾輩は猫である』)

先生は幸い近眼である。のみならず自己の講義のうちに全然埋没している。三四郎の不心得には丸で関係しない。(『三四郎』)

全然(まるで)、stray sheep(ストレイ シープ)だ。仕方がない」(『三四郎』)

嘘を云う積でなかった津田は、全然本当を云っているのでもないという事に気が付いた。(『明暗』)


『三四郎』の2例目は、「ぜんぜん」ではないので関係ないと言えば関係ないが、「全然」という漢字を宛てているところに意味がある。『明暗』の例は、一見否定表現と呼応しているようにも見えるが、ここは「全然―ない」ではなくて、「全然―云っている」のである。なお、『猫』の例には、「全然似寄らぬ」という否定と呼応する例も入っている。

あぁ、なるほど。明治・大正期には「全然」は否定と呼応しない場合があるんだな、となると、「全然」が否定とだけ呼応していたのは、せいぜい数十年の歴史なのか…と思うと、もっと新しい例もある。

全然同意ですな」
沼田は変な軍隊用語で、ポカンと気が抜けたように答えた。雪子はくすりと笑った。(石坂洋二郎『青い山脈』)

「ええ、オバサマになんとかして貰わないと、あたし、全然、持てあますのよ」(獅子文六『自由学校』)

「フルフル、面白かったわ。お金はとれるし、男性のウィーク・ポイント(弱点)は、全然、ハッキリしちゃうしさ」(獅子文六『自由学校』)


『青い山脈』が1947年、『自由学校』が1950年の発表。どちらも当時の若い世代の人物の会話文の中の用例である。

『羅生門』の発表は1915年で芥川23歳の時。『芋粥』『煙管』はその翌年。芥川が『青い山脈』発表時に生きていたとして、55歳ほどの年齢である。
『自由学校』発表の十数年後、登場人物たちが漸く中年にさしかかるかどうかという頃に、僕は生まれた。そして、僕が物心付いてことばに興味を持つようになった頃には、「全然」が否定と呼応しない用法は、誤用と言われながらも存在していた…はずである。
となると、「全然」が否定と呼応するのが正しかった時期は、一体、何時だったのだろうか…?

こんな結論のない断片的な知識でも、誰かを相手にひけらかしてみようかと思って、自分では若干の違和感を覚えつつ、わざと「全然ありっしょ!」などと使ってみたりするのだが、全然突っ込んでくれる人がいない。


<余談>
「ひけらかす」を漢字に変換しようと思ったのだが、変換してくれない。「披らかす」とでも書くのではないかと思っていたのだが、辞書を引いてみたらこの語に当て嵌まる漢字はないらしい。
「ヒカラカス(光らかす)」とか「ホコラカス(誇らかす)」とかの転、という語源説があるようだが、どうにも胡散臭い。
【2月17日追記】
若干、用例を追加した。

【6月16日追記】
再追加

【7月22日追記】
再々追加

【9月5日追記】
再々々追加

【2012年4月19日追記】
その後の追加。
その1その2その3

【2012年8月19日追記】
追加

【2013年1月13日追記】
追加

【2013年7月13日追記】
追加その1その2その3

No title

仕事の関係で、羅生門のこの例にはいつも「?」となっています。

いつも生徒さんの言葉遣いに対しては、「それ変だろ」と言っていながら芥川がこんな言葉遣いをしているのですからね。

最近読んでいる「こころ」にもところどころに「?」とくる言葉遣いが・・・
まさか漱石先生に「お前の言葉遣いは変だぞなんて、おそれおおくて言えるはずもないし・・・」。
[ 2011/01/29 08:13 ] [ 編集 ]

Re: No title

原典を当たっていないので書きませんでしたが、『日本国語大辞典』には、「全然」が否定と呼応しない用例として、
「利子と結髪の一条の如きは、全然破談なりと思ふてくれよ」(坪内逍遥『諷誡京わらんべ』1886年)
「僕は全然恋の奴であったから」(国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』1901年)
の他、漱石と、黒島伝治・葛西善蔵が引かれています。
一方、否定と呼応する例は、先に引用した『猫』が最古。もっと古い例もあるかも判りませんが、『日国』だけで言えば、否定と呼応しないものの方が古そうです。元々が「全然たり」だから当然なのかもしれませんが。

とは言え、教育的見地に立つと、確かに難しい問題ですね。当時としては普通だけれど、今では変な言い方、というものもありますし。
「きちんとした言葉遣いをしなさい。そのためには漱石や芥川を読んで…」
「先生、芥川がこんな言葉使ってますけど?」
「あ、いや、それは…!?!?」

結論はありません。
[ 2011/01/29 11:40 ] [ 編集 ]

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