「全然」(その2)

ただのメモである。

以前のエントリで、「全然」が否定と呼応しない用例を幾つか上げた。その時に上げ忘れていた用例と、その後見つけた用例を追加する。
僕自身は、この問題についてこれ以上どうするつもりもないのだが、アクセスのログを見ていたら、ある地方の国立の研究機関から「全然」で検索して辿り着いていた履歴があった。恐らく真面目に用例採取をしているものと思われる。そこで、本気で研究する気のある人の役に少しでも立つのなら、と思って追加するのである。

古典文学の場合、完璧ではないが語彙索引が用意されているし、電子的なテキストも多い。が、近代文学は、作品の数が数え切れないほどあることもあって、自分で見て、探すしかない場合が殆んどである。だから、こうして纏まって用例が掲げられていれば、誰かの何かの役に立たないものでもないだろう。
用例は万人のものである。ご利用はご随意に。むろん、原典を確認すべきことは言うまでもないが。

芥川龍之介の用例が多いのは、芥川の全集を読み返しているからである。ただし、芥川の文章があまりにも面白すぎて、うっかり読み飛ばしてしまっているところも多々あるはずだから、網羅性には欠ける。だが、僕の意図するところからすれば、「全然」が否定と呼応しないのがさして珍しい用例でないことが判ればそれで事足りる。要するに、然したる意味はないわけである。

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従って、申上げようと思ったと致しましても、全然その材料を欠いているような始末でございます。(芥川龍之介『二つの手紙』1917年)

そうして又、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味った事であろう。(芥川龍之介『或日の大石内蔵助』1917年)

馬の上から転げ落ちた何小二は、全然正気を失ったのであろうか。成程創の疼みは、何時か殆、しなくなった。(芥川龍之介『首が落ちた話』1917年)
※同作品には、直後に「では、何小二は、全然正気を失わずにいたのであろうか。」という例もある。

が、こうして愈末期の水をとって見ると、自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切って、如何にも冷淡に澄みわたっている。(芥川龍之介『枯野抄』1918年)

それが何日か続いた今日、こうして師匠の枕もとで、末期の水を供する段になると、道徳的に潔癖な、しかも存外神経の繊弱な彼が、こう云う内心の矛盾の前に、全然落着きを失ったのは、気の毒ではあるが無理もない。(芥川龍之介『枯野抄』1918年)

それ程私は賑な下座の囃しと桜の釣枝との世界にいながら、心は全然そう云うものと没交渉な、忌わしい色彩を帯びた想像に苦しめられていたのです。(芥川龍之介『開花の良人』1919年)

だから巨勢博士は全然評判が悪い。(坂口安吾『不連続殺人事件』1947年)
※同作品には、「全然」が否定と呼応する事例も、何例かある。

ブルーノ検事―「それよりも、レーンさん、問題は果物ですよ。スミスさん、あなたは昨夜ナイト・テーブルに果物鉢がのせてあったのをご存じですか」
スミス―「はあ、存じております」
ブルーノ検事―「中味は今日われわれが見たのと全然同じですか?」
スミス―「そのように思います」(クイーン『Yの悲劇』大久保康雄訳、1958年)

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