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吾妻橋

芥川龍之介の全集(昭和29年の新書版)を読み返している。

芥川龍之介と言えば、いわゆる「王朝もの」とか「切支丹もの」とかが名高いが、作家本人が本所で育ったこともあって、本所界隈を舞台にしたものも少なからずある。

その内の一つ、『ひよつとこ』より。

吾妻橋の欄干によつて、人が大ぜい立つてゐる。時々巡査が来て小言を云ふが、すぐ又元のやうに人山が出来てしまふ。皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立つてゐるのである。


今では橋も架け替えられて、芥川が見たものとは違うし、船もまるで違う。花見時分には、屋形船も少なからず出るけれども、普段はこのような近代的な水上バスである。

吾妻橋&水上バス

とは言え、吾妻橋の「欄干によつて、人が大ぜい立つてゐる」ことは変わらないし、その人たちの多くが川の方を見ているのも同じである。

吾妻橋より隅田川を見る

ただし、『ひよつとこ』と違うのは、見ているのが川面ではなく、上空だということである。カメラ(ケータイを含む)を向けている人も数多い。

吾妻橋&東京スカイツリー

芥川が見た吾妻橋の風景に、東京スカイツリーがなかったのはもちろんのこと、アサヒビールも首都高速もなかった。川岸もこのように整備されていなかったはずだし、とすれば川の流れも今とは違っていただろう。だから、当時の面影は皆無だと言っても過言ではない。そういう意味では、わざわざこんな場所を訪れたからといって、作品の理解に裨益するところはまったくないとも言える。
それに、仮に作品の舞台が作品発表当時の面影を残していたとしても、そこを見なければ理解・共感できないようであれば、その作品が、作品自体として完結していないということである。だから、文学散歩などというものは、無意味と言えば無意味である。
が、そういう作家なり作品なりへの思い入れというものは、(馬鹿にする人も少なくないけれども、)存外大事なものである(注)。要は、現在のこの風景を目にして、その作品の世界に思いを馳せられるか、という想像力の問題である。
むろん、その想像が、完全に当時の感覚と一致することは極めて難しいが、その想像を楽しめることは重要である。判りやすく言えば、「ブラタモリ」のタイムスリップみたいなことを、自分の頭の中で出来るかどうかの問題である。(判りやすくないか?)

ところで、何故『ひよつとこ』などというマイナーな作品の地を訪ねたのか? というと、単純に、全集第1巻の最初の方に入っているからである。この巻には『羅生門』『鼻』のようなメジャーな作品も収められているが、その舞台となっている地はふと思い立っておいそれと行かれるような場所ではない。
なお、本所ではないが、『ひよつとこ』より前に収められている『老年』に「橋場の玉川軒」というのが出て来る。「橋場」(台東区)は判るが、「玉川軒」は不学にして知らないので残念ながら訪ねようがない。

(注)
こんなことを書いていたら、やた管ブログの「高野切の復元」の記事を目にした。「中川@やたなび」さんとは、学問的にはかなり水と油なんだが、こういうところは感覚が近い、と、勝手に思っている。

No title

ええ、僕も新宮で中上健次読みましたとも。
わざわざ新宮のブックオフで買って。

>学問的にはかなり水と油なんだが、

うええええ、水と油・・・それも「かなり」・・・。
それにしても高度なネタかぶりでした。
[ 2011/02/11 04:47 ] [ 編集 ]

Re: No title

> ええ、僕も新宮で中上健次読みましたとも。
> わざわざ新宮のブックオフで買って。

恐れ入りました。
でも、ふつうは行く前か、帰って来た後で読みそうなもんですが…。
[ 2011/02/11 10:10 ] [ 編集 ]

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