「女に別れる」

ちょっと妙なタイトルを付けてみたが、別段面白い話ではない。何かの想像を膨らませて期待された方には、予めお詫びをしておく。

ここのところ度々、芥川龍之介全集を読み返していることを書いているが、そういう昔の(と言っても近代だが)文章を読んでいると、所々、今の言い方とは違って気になる箇所が出て来る。
ことばは時代につれ変わるので、芥川のことばと現代のことばとでは、似ているようでいて違っている。古語なら現代語と違っていて当たり前なのでかえって気にならないようなことでも、近代の文章を読んでいると、ふと違いに気づかされることがある。

たとえば、こんな例である。

君は僕がどうしてあの晩、国府津なんぞへ行つたんだか知らないだらう。ありやね、嫌になつた女別れる為の方便なんだ。(『路上』)

通じなけりや――まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になつた女別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。(『路上』)


「女別れる」と書かれているが、こういう文章を読み慣れていないと、「女別れる」と書くべきところを間違えたのではないか、そうでなければ誤植か? と思いかねない。
が、どうやらそうでもないらしいことは、夏目漱石にも似たような用例があることからも知れる。

小さい時分から父に伴れられて外出する度に、屹度何処かで物を食ふ癖の付いた自分は、成人の後も御供と御馳走を引き離しては考へてゐなかつた。けれども其日は何故だか早く父別れたかつた。(『行人』)

然し君は一体何んな事を云つて、彼奴調戯(からか)つたのかい。(『明暗』)

彼は一番始めに斯んな事を云つて津田調戯つた。(『明暗』)


これも現代なら、「父別れたかつた」「彼奴(津田)調戯つた」とありたいところである。

古語を見ていればそれほど特異なものではないが、格助詞「に」には、動作の対象を示す用法がある。
たとえば、

  春の日のうらがなしきにおくれゐて君恋ひつつ現しけめやも(『万葉集』巻15、3752、狭野弟上娘子)

の例などは、現代語であれば、「君」とあった方がしっくり来るだろう。
現代語でも、「君恋してる」などと言うではないか、と言われるかもしれないが、この例は、それとはちょっと違って、「君恋する」という言い方である。意味合いは似ているが、「恋する」は動作で、「恋してる」は状態なので、微妙に違いがある。もっとも、「君恋する」が、現代語として絶対に成り立たない言い方か、というと、そこまでは言い切れないところはあるが…。細かいことを言うと、「恋ふ」と「恋す」とでは違うのだが、措く。
いずれにせよ、ここも、「恋ふ」という動作の対象が、「君」なのである。

先に上げた各例は、こういう用法に相当する。
最後の例「津田調戯つた」で言うと、「調戯」う対象が、「津田」なのである。強いて言い換えれば、「津田に対して調戯つた」「津田のことを調戯つた」ということになるが、それが、格助詞「に」で表現されているわけである。

蛇足でひとつだけ注意を促しておくと、「津田に対して調戯つた」「津田のことを調戯つた」と表現するべきものを、「津田調戯つた」という表現で代用したわけではない。格助詞「に」が、そういう用法を担っていたのである。
漱石や芥川の頃までは、そういう用法が残っていた、ということである。だが、現代人にはそれが残念ながら通じにくい。明治(大正)は遠くなりにけり、なのである。

コメントの投稿











管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://hoshinahouse.blog101.fc2.com/tb.php/186-017a5cd2