「を」あれこれ

「ご飯食べる」「テレビ見る」etc.。「を」は、現代語でもふつうに使われる格助詞である。
では、こんな例はいかがか?

――朝鮮食い詰めて、お千鶴を花街に残したまま、再び大阪へ舞い戻って来た丹造は、妙なヒントから、肺病自家薬の製造販売を思い立ち、どう工面して持って来たのかなけなしの金をはたいて、河原町に九尺二間の小さな店を借り入れ、朝鮮の医者が書いた処方箋を頼りに、垢だらけの手で、そら豆のような莫迦に大きな、不格好な丸薬を揉みだした。(織田作之助『勧善懲悪』)

間もなく私は瀬戸物屋暇取って、道修町の薬種問屋に奉公しました。(同『アド・バルーン』)


一つ目は「朝鮮食い詰めて」、次のは「瀬戸物屋から暇(を)取って」、とでもあった方が、判りやすかろう。何だか変な使い方だ、とも思えないではない。
が、格助詞「を」には、修飾語の動作の場所を表わす用法がある。

球藻刈る敏馬(みぬめ)過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ。(万葉集・250)


この歌では、「過ぎ」るという動作の場所が、「敏馬」なわけである。
先のオダサクの例で言えば、「食い詰め」るという動作の場所が「朝鮮」で、「暇取」るという動作の場所が「瀬戸物屋」なのである。

あ、蛍、蛍と登勢は十六の娘のように蚊帳中はねまわって子供の目覚ましたが、やがて子供を眠らせてしまうと、伊助はおずおずと、と、と、登勢、わい、じょ、じょ、浄瑠璃習うてもかめへんか。(織田作之助『蛍』)

もしこのまま手をつかねて倭軍の蹂躙に任せてゐたとすれば、美しい八道の山川見る見る一望の焼野の原と変化する外はなかつたであらう。(芥川龍之介『金将軍』)


ここは、「子供覚ます」、「美しい八道の山川」とでもするのが、現代語としては自然だろう。ただし、前者の場合、「子供の目を覚ます」と「子供が目を覚ます」では、主格が変わってしまうけれども…。
これは、修飾語の動作の対象を表わす用法。

昔、いと若き男、若き女あひ言へりける。(『伊勢物語』86段)


この例は、「あひ言」うという動作の対象が、「若き女」である。
先の例では、「覚ます」という動作の対象が、「子供の目」なのであり、「変化する」という動作の対象が、「美しい八道の山川」なのである。

もっとも、文法的にひねくり回すより、何も考えずにそのまま読んだ方が、素直に理解できるような気もするけれども…。

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