「ゑらぐ」

芥川龍之介の『素戔嗚尊』より。

女たちの或者は、玉を飾つて琴を弾いた。又或者は、盃を控へて、艶かしい恋の歌を唱つた。洞穴は彼等のゑらぐ声に、鳴りよどむばかりだつた。


日本の古典に多少なりとも親しんでいる人にとってみれば、特別難解なことばではなかろう。むろん、正確には判らないとしても、おおよその見当は付くものと思う。「ゑ」=「笑」という連想が、容易に働くからである。

『角川新版古語辞典』には、この「ゑらぐ」が立項されていて、「楽しみ笑う」意であるとする。用例は宣命(続日本紀)。スサノオノミコトを題材とする作品に使用するのに、適当な語として選ばれたのだろう。
『岩波古語辞典』には、「エラエラと同根」という説明がある。「ゑらゑら」は、「楽しみ笑うさま。にこにこ」。一例を上げると、

あしひきの 八峰(やつを)の上の 樛(つが)の木の いや継ぎ継ぎに 松が根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代に 国知らさむと やすみしし わが大王の 神ながら 思ほしめして 豊の宴(あかり) 見(め)す今日の日は もののふの 八十伴の雄の 島山に あかる橘 髷華(うず)に刺し 紐解き解けて 千年寿き 寿きともよし ゑらゑらに 仕へ奉るを 見るが尊さ(『万葉集』4266番歌)


というようなものである。いずれにせよ、芥川による用語の選択は、当を得ていると言える。
それにしても、日本紀宣命など、そう易々と読みこなせるものではないから、当時の知識人の博覧強記ぶりには驚き入る。もちろん、当時の国語辞典に用例として引かれていた可能性はあるが、それにしても、である。

なお、『岩波古語辞典』には、「ゑら」と清音で立項される。この辞書は連用形での立項だから、一般的な終止形での立項なら「ゑら」ということである。『日本国語大辞典』も清音で立項。僕は上代特殊仮名遣いに暗く、正確なことは言えないが、「恵良」の「伎」がいわゆる甲類のキだから、ということなのだろう。この作品が発表された当時(1920年)、上代特殊仮名遣いは既に橋本進吉によって提唱されていたはずだが、まだ一般に拡まるには至っていなかったのだろう。…これは余談。

ところで、先ほど、「ゑらぐ」が特別難解なことばではない、と書いた。が、それは、このことばが歴史的仮名遣いで書かれていることが前提となっている。現代仮名遣いで「洞穴は彼等のえらぐ声に…」と書かれていたとしたら、容易には意味を把捉しがたい。
歴史的仮名遣いで書かれていることが、近代(戦前)の作品の閾を高くしているように思われている面も多々あるとは思うけれども、それを読み易からしめんがために現代仮名遣いに直してしまうことによって、却って閾が高くなることもあるのではないかとも思うのである。

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