『曲り角の日本語』

水谷 静夫『曲り角の日本語』
曲り角の日本語 (岩波新書)

こういうタイトルの本には、基本的にあまり期待しないのだが、ほかに読む本もなかったので、ちょっとした気の迷いで買ってみたところ、意外に(失礼!)面白かったのでご紹介。

第1章と第2章は、良くある「こういう言い方は間違いだ!」というような内容がメイン。
そういうことを個別に指摘してみても、あまり建設的ではないとは思うのだが、その一方で、教育的な見地や社会生活の上からは、効用があるだろうし、いろいろ考えさせられるところである。
ことばの意味の変遷を「意味のすりきれ」として説明するのは判りやすいし、敬語を、大きく「待遇表現」として考えるのも、示唆に富む。しかも易しい。

第3章で急に難しい文法論になる。それまで興味深々に読み進んで来て、ここで挫折する人も多いのではないかと思う。
ただしその理解しにくさは、一般の人にとって普段触れることの少ない時枝文法(学校教育で主流になっているのは橋本文法)に基づいていることに拠るものであって、良く読めば、言っていることは整然としている。ここはひとつ我慢して読んでみることをお勧めする。

第4章は、今世紀末に日本語がこう変わるという「日本語未来図」。
こういう予想の常として、やや乱暴なところもあるけれども、敬語の未来については、既にそうなりつつあるもの、近いうちにそうなりそうなものを考えることで、今あるべき敬語について考えるヒントにもなる。

ことば遣いの正誤の指摘を中心に読むのと、ことばの本質に繋がるところを中心に読むのとで、だいぶ印象は異なるけれども、後者の読み方をすれば、かなり益あるものと思う。前者の読み方でも、楽しめるけれども…。

誰かにことばについて語る機会の多い人にはおススメ、かな。(…本書に言う、断定したくない「かな」の用法。)

自分の専門に関わることは、極力専門的な場で発言しようとは思っているのだけれど(例外もあるが)、これはさほど専門分野というわけでもないので紹介することにした。…というのは、僕のことを文法屋だと誤解している人がいないではないようなので、言い訳めいたことを書き加えたのである。
さて、それとは別に、本書の主たる内容とは外れたところで、気になった点をいくつか。

著者は、入院した病院の隣のベッドの高校生の会話を聞いて、

助詞・助動詞らしい部分は何とか聞き取れるが、それ以外の部分はほとんど駄目で、だから話の中身は一向に分からない。


という体験をする。それで、

移り行くのが言語の常――それだけならよい。今の変わり方にあやうさを覚える。


と感じて、この書を物したのだという。
だが、新時代の若者の言葉を年配者が聞き取れなくて愕然とするのは、かならずしも今に始まったことではないのではないか。
たとえば、こんな例がある。

さァ、わからない。
駒子には、彼等のモメゴトの正体もわからないが、それよりも、二人の使用する言語が、まつたく理解できないのである。英語ならば、相当むつかしいイディオムでも、知つてゐるつもりだが、彼等の口にしてゐるのはまつたく、従来の慣用法と異るらしい。一体、それはどこの国の言語だらうか。新時代の日本語が生れたのだらうか。とにかく、駒子は、まるで意味が通じないので、途方に暮れた。(獅子文六『自由学校』1950年)


現代が、大きなことばの曲がり角に来ているのは確かとしても、国語の歴史を振り返れば、同じようなことが何度も起こっていたのではないだろうか。

もうひとつ。

更にもう一つ指摘をしておきますと、「た」を過去の助動詞と考えるのは間違いです。日本語では、文語の「き」「けり」が滅びてから、純粋な過去表現はなくなりました。


「き」「けり」を何の疑問もなく「純粋な過去表現」と言っているが、そうなのだろうか。
いわゆる詠嘆の「けり」や発見(気付き)の「けり」など、(そのタームの妥当性は措いておくとして)純粋な過去を表わすとは考えにくい例は少なくない。
たとえば、雪が降っていたのは過去のことで、今現在は止んでいなければ、「富士の高嶺に雪は降りける」(赤人)とは詠めないのかどうか? ということなど。

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