「再びその姿を見なかった」

岡本かの子の「家霊」から、文の途中で観点の転換するものを取り上げて、「気が向いたら、そのうち」と書いた切り、そのままになっていた。
何故、そのままになっていたかというと、書いているうちに、かなりの長文になって纏まりが付かなくなってしまったのである。
ブログの記事としては長すぎだし、かと言って、別途公表すべきようなきちんとした考察になっているかというと、そうでもない。どちらにしても中途半端なのでので、ボツにすることにした。

ただ、完全に捨ててしまうのも勿体ないという未練がましい思いがあるので、粗々の内容だけ、書いておく。後々、きちんと纏めようという気持ちが万一起こった場合の備忘でもある。
まぁ、あくまでも言い訳だが…。

中島敦の『山月記』。有名な末尾の部分である。

一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。
忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。
虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった


問題は、引用した第3文すなわち作品掉尾の1文である。
「見なかった」と終結するが、文冒頭「虎は」からすれば、「見せなかった」とでもあるべきではないか、とも思われるが、かならずしもそういうわけではない。

たとえば、土左日記にある、次のような例が参考になる。
「風も吹かず、よき日出で来て、漕ぎゆく」(1月21日)、「うらうらと照りて、漕ぎゆく」(同29日)は、「よき日(が)出で来て、(一行が)漕ぎゆく」、「(陽が)うらうらと照りて、(一行が)漕ぎゆく」ということである。それが、接続助詞「て」によって接続されている。 「て」の前後で、観点が転換して、主語が変わっているわけである。

『山月記』の文も、「虎」を主語とする文だったのが、1文の途中で観点が転換して、一行を主語とする文になったのである。

以上は、現象の説明で、その上で、そう書いた理由とか、それによる表現効果とか、作品の読みとかがあって然るべきだが、それは、もう少し本気で考えてからでなければ意味がない。

最初にお断わりしたとおり、中途半端だが、あしからず。

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