読書感想文の書き方・その2(導入)

ネットで検索を掛けてみると、読書感想文を宿題として課すことに対する評判は頗る悪い。
曰く、そんなものを書かせても何の役にも立たない。曰く、感想などというものは自分の心の中で持っていれば良いのであって、他人に伝える必要はない。曰く、こんな無意味なものを強制されたら、子供が読書嫌いになる。etc…。
結果、感想文が丸写しできるサイトから適当なものを選んで、ちょっとアレンジして提出すればそれで十分、極論すれば、その方がむしろ子供のため、というような論調になる。

読書感想文に子供が悪戦苦闘する様子を見たり、子供から助け舟を求められた自分(親)が苦悶したりすれば、そんなことを言ってみたくもなるだろう。だから、そういう意見に一理もないとまでは言わない。
だが、読書感想文かどうかはともかくとして、ある程度纏まった文章を書く訓練をすることは、断じて無駄ではない。社会に出れば、文章を書く必要が生じることがある。だが、必要が生じてから書き始めても、遅いのである。今や、原稿用紙の使い方もロクに知らない文学部の学生がいるのが実情である。
むろん、文章を書く訓練が、読書感想文でなければならない理由はないのだが、子供が、いきなり社会問題や政治・経済の状況について論じろと言われても、無理である。だから、身近な話題、遠足についての作文とか、読書感想文とかで、訓練を始めるわけである。

心の中で思っていれば良い、という意見も、一見まともなように見えるかもしれないが、やはり見当外れである。
たとえば、修学旅行でどこに行きたいか? という話し合いをクラスでしたとする。その時、自分が強く行きたいと思う場所があったとしても、それは自分の考えだから、他人に伝える必要はなく、心の中で持っていれば良い、と考える人はいなかろう。欲しいもの、やりたいことなども、思ってさえいれば十分、というものではない。
自分の考えを、他人に伝えることは重要である。そしてそれには、そのための訓練が必要である。これも、読書感想文でなければならない理由はもちろんないが、読書感想文ではいけない理由もない。

さらに、読書感想文を書かされた所為で読書嫌いになった人がいることは事実かもしれないが、それと、読書感想文を書くことに意味があるかどうかということは、本質的に関係がない。水泳教室に無理やり通わされて水泳嫌いになった子がいたとしても、水泳教室に意味がない、という人はあまりいない。
それに、うちの娘は、苦闘を何年も繰り返しているが、そして、それによって文章を書くのが得意になったとは到底言えないが、少なくとも、一向に読書嫌いになる気配はない。読書感想文が大嫌いだったということと、読書嫌いになったこととの間に因果関係の認められる事例があったとしても、それが普遍性を持った法則であるとは限らない。

さて、何故改めてこのようなことを書き出したか? というと、夏休みも残り僅かとなって、今年も「読書感想文の書き方」を書いてみようかという気になったからである。
もっとも、僕の住む墨田区は、例年通り9月1日から学校が始まるけれども、お隣の江東区では、節電対策としてか、夏休みの開始が前倒しされ、それに伴って今週半ばには授業が開始される。そういう地区の方にとってみれば、時宜を逸した間抜けなタイミングなわけであるが、あくまでも、僕自身のシミュレーションとしてやっているので、あしからず。墨田区の夏休み中にも書き了わらない可能性もかなり大きいが、シミュレーションが終わらなければ、子供の宿題を見てやれないわけでもない。

なお、夏休みも終盤を迎えて、相当切羽詰って来たのだろう、検索語句も、「丸写し」「パクリ」「楽に書ける」なんていうえげつないものが増えている。そういうワードでここに辿り着いても、残念ながら、楽には書けないし、丸写し・パクったところで大して良くできたものではない。それに、この「その2」は完成するかどうかも判らないし…。

続く…はず)

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