「淋しい気がされた」

だいぶん以前に書き掛けたまま、ずっと放ったらかしにしていたのだが、改めて見返してみたら、公開したものとさしたる違いはないと思って、アップする。もちろん、違いがないのは、公開したものも大して考えを練っていないからではあるのだが…。

謙作は仕事は異っていたが、そういう竜岡を見る事で常にいい刺激を受けた。今、そういう友を近くに失った彼は本統に淋しい気がされたのである。(『暗夜行路』前篇・第二・1)


この「された」を如何に解するか。

「れ」は、助動詞「れる」の未然形。
口語文法の「れる」の用法は、受身・可能・尊敬・婉曲な断定である。

受身は、誰か(何か)にそうされる、ということだから、ここに当て嵌まりそうにも思われるが、その場合、通常では「~~れる」という形を採る。「淋しい気された」とあれば、竜岡によってそういう気にされたわけだから、受身とも取りうるだろうが、上記の本文では無理だろう。
尊敬の場合、作者が謙作を敬って、「淋しい気がされた」と言ったことになる。だが、ここで作者が突如謙作を尊敬語で待遇しなければならない必然性はまるでない。それに、それなら「淋しい気された」という言い方では無理だろう。
可能、婉曲な断定は、いずれも当て嵌まりそうもない。なお、「婉曲な断定」というのは、先ほど書いた「当て嵌まりそうにも思われる」というような用法である。

いずれにせよ、現代なら、「淋しい気がした」とか、「淋しい気にさせられた」とかいう言い方になるのがふつうで、「淋しい気がされた」には、しっくり来ない感じがあるだろう。

ここで、文語文法「る」を思い起こしてみる。
「る」には、「自発」の意味がある。「自然と・ひとりでに~れる」ということである。

長谷川時雨の『旧聞日本橋』に、次のような例があった。

だが、私の目には笑えない、生涯のそりとした、そのくせ誠実な大男が、愛した女の亡骸を入れた桶をしょって、尻はしょりで、暗い門から路地裏を出てゆく後姿をかなしく思いうかべられた。(勝川花菊の一生)


それに前置する部分に、このようにある。

父が出てゆくとみんな頭を揃えてさげて、
「ありがとうございました。取りかたづけはすみました、角力がひとりで、しょってしまいました。」
「そうか、あの男でも、それだけの準備はしてあったと見えるね。」
「ところが、それがね、しょってしまったって、一さいの事ではないのですよ。滑稽なことにはおばさんの棺桶をしょってしまったんでさあね。」
「人夫にしょわせるのは嫌だとでもいうんでしょうね、お角力さんの心意気だあね。」
と母が言った。皆は笑った。


「生涯のそりとした、…暗い門から路地裏を出てゆく後姿」という情景は、著者が実見したものではなく、上記のような周囲の会話から、著者の頭の中に自然と湧き起こって来たイメージである。つまり、「思いうかべられた」というのは、「自発」である。

先の『暗夜行路』の例も、これと同じく「自発」だと考えられる。「淋しい気」が自然と湧き起こって来た、という謂ではなかろうか。

なお、『暗夜行路』の例文の中の、「近く失った」という言い方にも、しっくり来ない方はいるだろう。「近くから失った」というのが、ふつうである。
これは、「近くいる」「近く坐る」というのと同じで、以前書いたことのある、後接する動作が行なわれる場所を表わす「に」の用法である。

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