「月々に月見る月は…」

「月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」

出典は良く判らないらしいが、落語などを聴いていると、時々、こんな短歌を耳にする。
この中で、1点、気になるかもしれないこと。

それは、こんなところである。

……「月見るは」というのは、どうも表現としてこなれない。昼間を含めて1箇月間ずっと月を見続けているわけではなく、たまに見るだけなのだから、「月見るは」とでもあった方がすっきりするのではないか。これはことば遊びで、「月」が重ならなければ面白くないわけだから、多少の無理はあっても「月見るは」としたのだろう。まぁ、仕方がない。……

僕も子供の頃、そんなふうに思ったことがある。それは、「月見る月」の意味を、理解することができなかったからである。

無用のことだが、順を追って説明する。
初句の「月々」は言うまでもなく、1月・2月・3月…の「月」である。
第2句「月見る月」の1個目の「月」は、天体としての月。ただし、どんな月でも良いわけではない。「月見る」と明言する以上、満月である。むろん、三日月とか半月を見ていけないわけではないが、それは「月見」とは称さない。2個目の「月」は初句と同じく1月・2月……の「月」。
第4句の「月見る月」も同じことではあるけれども、少しニュアンスが違う。『「月」と呼ぶべきものを見る月』、『「月」は毎月見られるけれども、その中でも月を見るに足る月』、『「月見る月」(第2句)の中でも、特に「月見る月」』ということである。
結句の「この月の月」は、8月の(十五夜の)月を指す。

ポイントは、この短歌が旧暦(陰暦)を前提として詠まれているということである。
旧暦においては、毎月15日の夜が「十五夜」であり、その日は満月だ(注)、という(当たり前の)ことを知っていないと、最初に書いたような疑問が湧いて来てしまう。

つまり、「月見る月は多けれど」とは、砕いて言えば、月を見る機会は年に12回あるけれども、ということ。けれども、その中で最も月を見るに相応しい月は、今月、つまり8月(の十五夜)だ、ということを言っているわけである。

上記はどちらかというと、日本人としての常識に属することではあるのだが、いまは旧暦を知らない国文学科の学生すら珍しくないような時代だから、当たり前のことを、敢えて書いた。
(注)
実際には、旧暦の日数と月齢が完全に一致するわけではない。たとえば、月齢15日なのは、十五夜の昨日(12日)ではなく、今日(13日)である。
が、それは枝葉末節で、ここでは一般論として述べれば事足りる。

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