続・丘に建つ病院

だいぶ間が空いてしまって、もうどうでも良い気もしているのだが、ずっとそのままになっているのも何なので、「丘に建つ病院」の続き。

誠に申し訳ない次第だが、僕にはエヌ氏の教えている生徒が定期考査でどんな点を取ろうが、受験の結果がどうなろうが、正直なところ、興味がない。

僕の興味の所在は、

A. 私が生まれたのは湖を見下ろす丘に建つ病院です。
B. 私が生まれたのは丘に建つ湖を見下ろす病院です。

この2つの文に、どんな違いがあるのか、ということである。
前回書いたように、第一は文章の内容の違いで、第二は文章の構造の違いである。

第一の違いについては、判りやすい。
湖を見下ろすのが丘なのか病院なのか、ということだから、事実関係が判明すれば、正誤を判断できる。

判りにくいのは、第二の違いである。
中学生に対する解説であれば、前回書いたようなことで事足りるとは思うのだが、だから何なんだ? と突っ込まれた時には一言もない。違っているのは判るが、違っているとどうなんだ? ということはさっぱり判らない。
それに、この例文なら、順序を変えると内容が変わる第一の違いがあるからまだしも、文章の構造の違いが、内容の違いになっていないと、その違いの説明に、非常な困難が生じる。

たとえば、次のような場合。

C. 野原に花が咲く。
D. 花が野原に咲く。

CとDの絵を描かせたら、どちらも同じものができ上がるだろう。だから、CとDは同じだ、と言えば言える。
文法的に説明すれば、Cは、「野原に」が「花が>咲く」ということを限定修飾しているのだし、Dは、「花が」が「野原に>咲く」ということを限定修飾しているのである。
つまり、

C'. 野原に>[花が>咲く]
D'. 花が>[野原に>咲く]

という違いがあるのだ、とは言えるが、そんな説明で、だから何なんだ? を封じ込めることはできない。結局のところ、言っていることに違いはないじゃないか、ということである。
なお、この文法的説明に、異論のある人もいると思う。たとえば、CもDも「花が>咲く」という文であることに変わりはなく、「野原に」が上に付いているか、「花が」と「咲く」の間に挿み込まれているかの違いがあるのだ、など。が、どんな説明をしたところで、「だから何なんだ?」に変わりはないはずである。

さて、CとDの違いを端的に言うと、語句の順序が違うのである。当たり前のことだが、実はこれが、最大の違いである。
ことばというものは、最初から順に読む(聞く)以外の方法がない。どんな順序でも、最終的に同じ情報が与えられれば同じことだ、ということにはならない。でなければ、「私は昨日学校に行った」と言っても「学校に私は行った昨日」と言っても同じはずである。けれども、前者は相手に通じるけれども、後者はそうではない。
つまり、最終的な情報量が同じならどんな言い方をしても相手への伝わり方は同じ、ではないのである。そういう意味で、CとDとは、違う表現である。

では、どう違うのか? というと、先ほど書いた「語句の順序が違う」なのだが、これを言い換えれば、与えられる情報の順序が違うのである。
Cでは、まず、「野原が」という情報が与えられ、続いて、「花が>咲く」という情報が与えられる。
それに対して、Dでは、まず、「花が」という情報が与えられ、続いて、「野原に>咲く」という情報が与えられるのである。

この、与えられる情報の順序の違いによって何が変わるか、というと…。
Cでは、最初に与えられる「野原が」という情報によって、読者(聴者)は広い野原を思い浮かべる。そして、続いて与えられる「花が>咲く」という情報によって、その野原に咲く花に、視点が遷移するのである。
Dでは、最初に与えられる「花が」という情報によって、読者(聴者)は一輪(とまでは限定できないけれども)の花を思い浮かべる。そして、続いて与えられる「野原に>咲く」という情報によって、その花の咲く野原に、視点が遷移する。
卑近な言い方をすれば、Cは野原から花にズームインする表現であり、Dは花から野原にズームアウトする表現である。つまり、CとDとでは、読者(聴者)の視点の遷移する方向が違う。

これをAとBの違いに当てはめると、Aは、視点が「湖」―「丘」―「病院」という順序で推移するのであり、Bは「丘」―「湖」―「病院」という順序で推移するのである。

…という話をしたのだが、この拙論に対して、エヌ氏からは、「それは中学生には説明できない」という難有い評価を賜わったのである。

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