「坊っちゃん」ではない「何か」

音楽であれ、文学であれ、誰にでも好みというものがあって、どんな名作でも、合わない人には面白くも何ともない。
けれども、仮に僕がドストエフスキー嫌いだったとしても、「カラマーゾフの兄弟」は駄作だ、ということにはならないから、自分にとって価値のないことが、他人にとっても価値がないとは限らない。(注1)
面白いと思わなければ、黙殺すれば良いだけのことだから、何かを一方的に否定することは、できるだけ慎もうと思っている。(注2)

だが、今日たまたま目にしたこの本については、断固否定したい。
それは、夏目漱石の「坊っちゃん」と称する「何か」である。何なのかは良く判らないのだが、すくなくとも漱石の「坊っちゃん」そのものでないのは確かである。

今や旧漢字や旧かなで書かれたものを読みこなすのは、無形文化財級の特殊技能と言えるから、明治の文学を新漢字や新かなに直すのは至当だろう。また、子供(小学中級から)向けの本である以上、漢字をかなに開き、ルビを振り、ということもせざるをえない。それから、これはあまり認めたくはないが、会話文に原文にはない鍵括弧を補い、読点を増やし、章立てを整えたりするようなことも、止むをえないのかもしれない。
そこまで認めた上で、なお、僕にはこの本のありようを認めることができない。

ではまず、その「何か」の冒頭部分を引用しよう。

プロローグ

    1
親ゆずりのむてっぽうで、子どものときから、損ばかりしている。

小学校のとき、学校の二階から飛びおりて、一週間ほど腰をぬかしたことがある。
なぜそんなむちゃなことをした、と聞く人があるかもしれない。
べつに、深い理由はない。
新築の校舎の二階から首を出していたら、同級生の一人が、冗談に、
「いくらいばっても、そこから飛びおりることはできまい。弱虫やーい」
と、はやしたからである。
用務員におぶさって帰ってきたとき、おやじが大きな目をして、
「二階ぐらいから飛びおりて、腰をぬかすやつがあるか」
といったから、
「この次は、ぬかさずに飛んでみせます」
と答えた。


漱石の「坊っちゃん」の原文は、以下の通り。ただし、新字、新かなに改める。

    一
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無暗をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出して居たら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云つたから、此次は抜かさずに飛んでみせますと答えた。


「無闇」を「むちゃなこと」に変えているものは、これまでにもあった。だが、ここまで文章を書き換えてしまっているものは、見たことがなかった。

続いてもう少し後の部分。これにはぶっとんだ。

兄はビジネスマンになるとかいって、しきりに英語を勉強していた。もともと女のような性格で、ずるいから、仲がよくなかった。十日にいっぺんぐらいの割合で、けんかをしていた。

   2

あるとき将棋をしたら、兄がひきょうな手を使って、おれがこまるとうれしそうにひやかした。あんまり腹が立ったから、手に持っていた飛車の駒を、兄のまゆとまゆの間へたたきつけてやった。皮膚が切れて、少し血が出た。


兄は実業家になるとか云って頻りに英語を勉強して居た。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍位の割で喧嘩をして居た。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。


違いについて、一々解説はしない。
なお、小さなことだが、「将棋をしたら」(「何か」)と「将棋をさしたら」(「坊っちゃん」)の違いは、写し間違いではない。

次。

十分たって次の教室へ出ると、
――天麩羅四杯なり。ただし笑うべからず
と黒板に書いてある。
さっきはべつに腹も立たなかったが、今度はしゃくにさわった。
冗談も度を過ごせばいたずらだ。一時間も歩くと見物する町もないような狭い都に住んで、ほかになんにも芸がないから、天麩羅事件を大戦争のようにふれちらかすんだろう。


十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯也。但し笑う可らず。と黒板にかいてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を過ごせばいたずらだ。焼餅の黒焦の様なもので誰も賞め手はない。田舎者は此呼吸が分からないからどこ迄押して行っても構わないと云う料簡だろう。一時間あるくと見物する町もないような狭い都に住んで、外に何も芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだろう。憐れな奴等だ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ。


何だかずいぶん長さが違うが、「何か」の方を写し漏らしているわけではない。

外国文学の翻訳なら、大人向けのものと子供向けのもので、表現がまったく違うではないか、子供向けの漱石もそれと同じことではないか、と言う人があるかも知れぬ。だが、外国文学は、それが原作者の原文でないことは大前提で、原作者名に併記して翻訳者名が明示されるのがふつうである。だから、子供向けの「三銃士」を読んで、デュマがそんな文章を書いたのだ、と思う人はいない。
それに対して、この本には、これが夏目漱石の「坊っちゃん」だと明記されているのである。「森川成美・構成」とは書かれているが、「構成」という行為には、ふつうは改作を含まない。著者が「夏目漱石」だと明記されている以上、漱石はこんな文章を書いていないとは誰も思わない。

この「何か」には、文学が、文字通り「文」の「学」だという観点が、根本的に抜け落ちている。名作の内容を知っていれば、名作を読んだことになると思っているのかもしれないが、こんな文章を読んだところで、明治の文豪の文学が判るものではない。
むろん、旧字旧かなの原文を読めば必ず漱石が判る、というほど単純なものではないけれども、こんなもので漱石が判らないことだけは、間違いがない。

明治の文学は、現代の若者には敷居が高いのに違いない。いや、ある程度年配の人にでも、けっして低いものではないだろう。けれども、その敷居を越えなければ、多少なりとも判るようにはならない。
内容が判ればそれで良いのなら、あらすじで事足りる。改作された、「坊っちゃん」とは似て非なる「何か」を、そうと知らずに読まされるくらいなら、最初から割り切って漫画「坊っちゃん」でも読んだ方が、よっぽどタメになる。
カップ・ラーメンを毎日食べたからといって、本格的な中華料理の味が判るようになるわけではないのと同じように、「坊っちゃん」ではない「何か」をいくら読んでみたところで、「坊っちゃん」が判るようにはならないのである。

この「何か」の巻末には、「『みらい文庫』読者のみなさんへ」という、編集部による一文がある。曰く、

言葉を学ぶ、感性を磨く、想像力を育む……、読書は「人間力」を高めるために欠かせません。


その方針の結果が、これなのか…。

ついでに、最後のところも比較しておく。

エピローグ

清のことを話すのを忘れていた。
おれが東京へ着いて下宿へも行かず、かばんをさげたまま、
「清や、帰ったよ」
と飛びこんだら、
「あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰ってきてくださった」
と涙をぽたぽたと落とした。
おれもあまりうれしかったから、
「もういなかへは行かない、東京で清とうちを持つんだ」
といった。

その後、ある人の紹介で、路面電車の技術者になった。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清は、玄関つきの家でなくっても十分満足のようすであったが、きのどくなことに、今年の二月、肺炎にかかって、死んでしまった。
死ぬ前日、おれを呼んで、
「坊っちゃん、おねがいだから、清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めてください。お墓の中で、坊っちゃんの来るのを、楽しみにまっております」
といった。
だから清の墓は、小日向の養源寺にある。


清の事を話すのを忘れて居た。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれも余り嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んで仕舞った。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺に埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待って居りますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。


小学生に判りやすいようにここまで変えるのなら、「月給は二十五万円で、家賃は六万円だ」くらいのことをした方が良い。今時25円なんて、小学生の小遣いにもならない。

ところで、こんな本にお金を使うのも馬鹿げているので、最初は立ち読みで済まそうと思っていたのだが、それでは書店に迷惑だし、文句を言う資格に欠ける恨みもある。そこで、まったく必要ではないけれども、この「何か」を購入した。
だから集英社の諸君、1冊売れたからといって、1人の読者の支持を得たと思い誤ること勿れ。

(注1)これは、「仮に」の一例である。ドストエフスキーなら、文庫本になっているようなものなら、絶版のものも含めてたいていは読んでいる。
(注2)そうは言っても、人間だから、どうしてもつい、否定的なことを言いたくなってしまうこともある。そういうところを見掛けた時には、何卒お目零し願いたい。



▼ 『坊っちゃん』(集英社みらい文庫)の関連記事 ▼
 ・ 家賃は21000円
 ・ 「だから、顔は見えない」
 ・ 必要のない文を削除する(?)
 ・ 説明不足の文を添削する(?)
 ・ 「不人情でなくつて…」
[ 2011/10/04 22:22 ] 本と言葉 閑話 | コメント(4) | TB(0) |  TOP△

この中途半端さがいただけないですね。
プロットさえ同じならいいというなら、もっと豪快に変えちゃえばいいのに、漱石作(とは書いていないか?)とうたっている以上それはできない、ということなんでしょう。
以前、ある教科書会社の中学国語「竹取物語」の現代語訳があまりにひどかったので、クレームの手紙を送ったら、「中学1年生にわかりやすく云々」と返事が来たことがあります。
勝手にですます体に直すなど、現代語訳といえないレベルだったんだけど、なかなか理解できないみたいですね。
[ 2011/10/05 02:15 ] [ 編集 ]

Re: 中川@やたナビ さん

> 漱石作(とは書いていないか?)

いえ、「夏目漱石・作」と明記されています。

漱石の文章に触れるのでなければ、漱石である意味はないですね。
例に挙げたものの中でも、「ビジネスマン」は論外として、「兄のまゆとまゆの間へ」とか「皮膚が切れて」とか、凡そテンポがありません。
「植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ」というのも、情操教育上カットしたのかもしれませんが、そうしなければ子供に与えられないのだとしたら、子供に与えようとすることが間違いでしょう。

さらっと終わりにするつもりだったんですが、折角買ったんで、詳しく見比べています。そうしたら、出るわ出るわ…で収拾が付きません。
[ 2011/10/05 15:56 ] [ 編集 ]

>「兄のまゆとまゆの間へ」

意味は変わらないんだけど、ものすごく狙ってる感じがしますね。
ゴルゴの狙撃みたいな。

>植木鉢の楓見た様な小人が出来るんだ

これは、差別用語への配慮だと思います。
たぶん「小人」がまずいんだと思います。
「田舎者」が削除されていたり、「小使」が「用務員」になっているのも、同じ理由でしょう。
[ 2011/10/05 22:55 ] [ 編集 ]

Re: 中川@やたナビ さん

>「兄のまゆとまゆの間へ」

この部分、「まゆとまゆの間」という言い方の不自然さもさることながら、ここに「兄の」を補っていることのセンスを疑います。兄以外の、誰に誤解されうるんでしょうか…?

> これは、差別用語への配慮だと思います。

その通りだと思うんですが、「坊っちゃん」という作品は徹頭徹尾相手を田舎者扱いしてますから、削除してもし切れるもんじゃないんですけどね。特に「野だ」の出て来る場面なんて、全部カットしないと…。
[ 2011/10/06 20:32 ] [ 編集 ]

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