説明不足の文を添削する(?)

また、「坊っちゃん」ではない「何か」について。

もうどうでも良くなっていると言いつつ、なお続けているのには理由がある。
ひとつには、前にも書いたように、折角買って、そのままにするのは勿体ないという貧乏性による。
だが、もうひとつ、もう少し積極的(?)な意味もある。

この「何か」について、ネットで検索すると、意外にも、評判が良い。「漱石の文章の雰囲気を壊さずに子供にも読み易くリライトされている素晴らしい本」というような感じである。
「実業家」を「ビジネスマン」に書き換えてあっても、そこに漱石の文章らしさを感じられる人とはそもそも感覚を共有できないのだが、様々な個人的意見を自由に表明できるのが、ネットの魅力のひとつだから、そういう意見をネット上に公開すること自体には、別に文句はない。
だが、だからこそ、なのだが、否定的な意見も書いておくべきだ、と思って書いているのである。

さて、漱石の文章の雰囲気を保つということは、漱石の文章そのものではないとしても、いかにも漱石が書きそうな文章でなければならない。そして、漱石が明治の文人である以上、それは、最低限、明治の時点において、ありうべき文章であることが、必須だろう。でなければ、漱石の文章の雰囲気を保つことができるはずがない。

文学作品は、時代の制約から自由ではない。だから、漱石の文章そのままでは、現代人には理解しにくいところが多々ある。どうしても、説明が必要である。そこまでは、これまでにも述べたように百歩譲って認める。
ただ、説明なら、注を付ければ良いと思うのだが、この「何か」はそういう方法を取らず、漱石の文章に書き加えることで、それを実現しようとする。
その結果、どのようなことになっているか?

まず、坊っちゃんが、清から貰った小遣い銭を蝦蟇口ごと便所に落としてしまった場面である。
「坊っちゃん」から。

其三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すっぽりと後架の中へ落して仕舞った。


「後架」は注記をすれば判るとしても、生まれた時からマンション暮らしの子供など、トイレに財布を落としても、すぐに拾えば大丈夫だろう、としか認識できない人にとっては、意味不明の文章なのかもしれない。
「何か」では、そういう人のために、漱石先生の文に大層親切な添削を施して判りやすくしている。

その三円をがまぐちへ入れて、着物のふところへ入れたまま便所へ行ったら、すぽりと便所の穴の中へ落としてしまった。くみとり式の便所で、深い穴の底には、なん週間もの大便や小便がたまっている。手をつっこんでひろうわけにはいかない。


それは確かに、「手をつっこんでひろうわけにはいかない」だろう。実に判りやすい。
ただ、水洗便所が普及したのは戦後のことだから、明治末期の読者にとってみれば、これは不要の説明である。こんな説明が施されている文章では、明治末期に書かれた「坊っちゃん」を読んだことにはならない。

次に、坊っちゃんが赤シャツに誘われて釣に出掛けた場面。
「何か」には、こうある。

「一番に釣れたのは、お手柄だがゴルキじゃ」
と、野だがまた生意気をいうと、
「ゴルキというと、ロシアの文学者みたいな名だね」
と赤シャツがしゃれた。
「そうですね。まるでロシアの作家のゴーリキーですね」
と野だはすぐ賛成しやがる。


赤シャツも野だも、坊っちゃんに「ゴルキ」の説明をしよう気はさらさらない。「ゴルキ」の面白さは、2人には判っているので、それをわざわざ「ロシアの作家のゴーリキー」などと言うのは、むしろヤボで、そんなことは口が裂けても言わないはずである。
こんな説明は、たとえば、鈴木一朗という名前の人の話題になった時、
  「鈴木一朗というと、メジャーリーガーみたいな名だね」
  「そうですね、まるでメジャーリーガーの外野手のイチロー選手ですね」
と言うようなものである。そんな説明たらしくわざとらしい会話は、ふつう、しない。
  「鈴木一朗というと、メジャーリーガーみたいな名だね」
  「そうですね、まるでメジャーリーガーですね」
と言えば十分である。
「坊っちゃん」の文は、以下のようになっている。

一番槍は御手柄だがゴルキじゃ、と野だが又生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者見たような名だねと赤シャツが洒落た。そうですね、丸で露西亜の文学者ですねと野だはすぐに賛成しやがる。


「ゴルキがロシアの文学者の名前のようだ」という赤シャツと野だの会話と、「ゴルキとはロシアの文学者のゴーリキーのことだ」という読者に対する解説が、中途半端に合体してしまっているのである。
なお、明治時代には、ゴーリキーは「ゴルキー」と表記されていた。「ゴルキ」は「ゴルキー」に似ているのである。だから、野だが「ゴーリキー」に言い換える必要はなかった。
二百歩譲って、どうしても現代人に判りやすいように「ゴーリキー」が言いたいのであれば、坊っちゃんに、「あとで人に聞いたら、ロシアの有名な作家にゴーリキーというのがいるんだそうだ。ゴルキがそれに似ているとしゃれたわけだ」とでも語らせるが良い。

もうひとつ。
祝勝会の際、中学校と師範学校が喧嘩をした場面。
「坊っちゃん」には、こうある。

すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の癖に、引っ込めと、怒鳴ってる。


たしかに、今となっては「地方税」は判りにくい。三百歩譲って、説明が必要だとしよう。
「何か」は、こうである。

すると前の方にいる連中は、しきりに
「なんだ、地方税のくせに、ひっこめ」
と、どなってる。
『地方税』とは、学費がただの師範学校のことだ。税金を使ってるくせに、と悪口をいっているつもりだろう。中学校は学費がかかるから、エリートだぞといばっているわけだ。


「中学校は―学費がかかる」も「中学校は―エリートだ」も、どちらも間違ってはいないが、「学費がかかるから―エリートだ」には、何の因果関係もない。
それに、仮に当時「学費がかかる=エリート」という図式が成り立っていたとしても、現代では、むしろ税金を使ってただで勉強できることの方がエリートな感じがするだろう。だから、「何か」の文章は、現代人にとって判りやすい文章になっているとも思えない。

最後にもう一度言う。
「坊っちゃん」ではない「何か」をいくら読んでみたところで、「坊っちゃん」が判るようにはならないのである。
[ 2011/10/14 23:05 ] 本と言葉 閑話 | コメント(0) | TB(0) |  TOP△

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