スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | | CM(-)TB(-) |  TOP△

『いちご姫・胡蝶』

言文一致運動
文語体にかえて、話し言葉と一致した文章をつくろうとする動き。1880(明治13)年代から欧化主義の風潮とともに盛んになり、三遊亭円朝の講談速記がもてはやされ、'87-'88には、山田美妙の「夏木立」、二葉亭四迷の「浮雲」など、小説の分野にも拡大した。(後略)(『角川日本史辞典 第二版』)


文学史のお勉強をすれば、概ね上記のようなことになるだろう。円朝は参考程度としても、山田美妙と二葉亭四迷は絶対に外すことのできない重要ポイントである。
それだけ重要な作家だから、二葉亭の『浮雲』くらいはみんな読んだことがあるだろうし、美妙の…美妙の…、えぇ~と美妙の…、いや、恥ずかしながら読んだことがない。
何しろ、美妙の本など、出ていないのである。出ていないこともないだろうが、よほど好きな作家でない限り、文庫本にでもなっていなければ、そうそう読むものではない。図書館に行けば全集が揃っている、などというのは、ふつうの人にとってみれば、「ない」と同義である。
それに比べれば、二葉亭は、文庫本で読むことができる。もっとも、僕の学生時代には新刊を買って読むことのできた『平凡』や『其面影』は絶版になっているようだから、少々危うい状況だが、美妙に比べれば、だいぶんましである。
「青空文庫」を見ても、二葉亭の作品は、10以上あるけれども、美妙の作品は、「夏木立」が公開されているだけである。これでは、どうにも読みようがない。

そんな昨今、岩波文庫から、こんな本が刊行されたので購入して読んでみた。

山田美妙『いちご姫・胡蝶 他二篇』
いちご姫・蝴蝶 他二篇 (岩波文庫)

「いちご姫」などと聞くと、どうしても「苺」を思い浮かべてしまい、ほんのり甘い物語を予想するが、豈図らんや、「いちご」は恐らく「一期」の謂で、足利八代将軍義政の時代、数奇な運命を歩んだ公家の息女いちご姫の波乱万丈の人生を描いた長篇小説である。

そもそも美妙が時代小説作家だったことすら知らなかったのだが、何はともあれ、美妙の文体がどんなものか、ということが興味を惹く。

まずは、冒頭の一節。

まことに世の中が回り持であるものなら頼朝このかたの片手落ちは何の訳。まわり持ちと言ッてあきらめるその下から直にその回り持ちさえわからぬまでに思われるほどの世の情無さ! 禁裏――ただ名のみの禁裏!


これが「言文一致」なのか、俄には判断の付きにくいところだが、その後も同じような文章が続く…かと思うと突如敬体が現われる。

大内と一際あがめてあッた昔は今その面影を古老の涙ながらのくり言に残すばかり、「いたわしい、この子も昔を知らいでのう」を子供さえ耳に聞き飽きました。


この敬体が、美妙の文体の特徴らしい。が、全部が全部、そんなふうに書かれているわけではない。登場人物の会話にも、別の特徴がある。

「おんでもない事でおじゃる。女性(にょしょう)の御身、朝霧もやがて立とうず、はやとく――御身にさわるも掛念――今夜(こよい)はこれとあきらめてこの儘におかえりやれ。窟子(うろこ)を愛でたもうたおいつくしみは忘れませぬ。煩悩にまようまいがそれがしのかねての望みで、それでつれのうは仕うまつッた、その贖いに御身(おこと)の御身のため、右ひだりあらわにいたいまいた。聞きわけておかえりやれ。送り申そう。」(第13)


その会話文に続く部分。

情か、仇か、生けみ殺しみのやさしい言葉、何処となく胸にもしみとおッて今更いちごも涙をもよおす、はかばかしい返事もなし、あわれ! 首(うな)だれたまゝの首に物思いを言わせ、会釈するばかりの体でおずおず、さきに立つ窟子の跡にしたがいました。
今になれば精気もたわんで、それとひとしく身にこたえるのは鎧の重みでした。


もう1箇所、引用してみる。

「いちご、心そこねつろう。ゆるせ、身に免じて。身が後にどうともしょう。他事ならば家隷(いえのこ)にて事済めど御身にかゝわる尼なれば身が直々に対面するのじゃ。それもあればやがて立ちかえる、心な屈しそ、のういちご、しばししばし、しばらく待ちね。」
うつむいた許り、有難そうに手を合わせるいちごの体(てい)、見ていよいよ不愍をもよおしました。家は歴々の公卿(くげ)とは言いながらこの姿か? 如何にも相思の情が細やかでした、馴染んで知ッているいちごの気性、くやしいあまりには大事をもしかねぬ風、それも苦労、武士に心を得させて気をつけろと命じ、心を残し残して出て例の尼に対面しました。(第35)


会話文の妙に時代掛かった文体と、地の文の敬体との間のギャップに、違和感を感じないではないが、これを刊行当時の読者がどう感じたものかは判らない。
もっとも、地の文も、完全に口語調になっているかと言えばそういうわけではななく、前の例で言えば、「…さきに立つ窟子の跡にしたがいけり」とか「…身にこたえるのは鎧の重みなり」とかあったとしても、逆に、おかしくはないようにも思う。

これに比べると、二葉亭の文体はかなり流麗で、読みやすい。二葉亭流の文体が以後主流になって行くのも宜なるかな、というところだが、何故会話文がこのような文体で書かれているのか、美妙が「武蔵野」の冒頭で書いている。

この武蔵野は時代物語ゆえ、まだ例はないが、その中の人物の言葉をば一種の体(てい)で書いた。この風の言葉は慶長頃の俗語に足利頃の俗語とを交ぜたものゆえ大概その時代には相応しているだろう。


室町時代の人物を描くのだから、(当時の)現代人が語っているような文体では駄目で、室町人らしい話し方で書くべきだ、ということだろう。今読むと、それが読みにくさの原因になっていると思われるのだが、考え方は間違っていない。今の時代小説を読んでいると、しばしば、侍が今にもケータイを取り出してしゃべり始めそうなものもある。
美妙は、小説の素材として古い時代を選び、その時代の香気を漂わせながら、言文一致を実現しようとしたのだろう。とは言え、結果から見ると、設定したハードルが、高すぎたのかもしれない。

この独特の文体に慣れてしまえば、作品としては、なかなか面白い。内容的には、近代の小説というより、読本により近いような気もするが…。結末は因果応報・勧善懲悪だし、挿絵もそんな雰囲気だし。
なお、別の1篇「笹りんどう」は、短いものだが、全篇が源頼朝の独白体で構成される。当時としては、かなり斬新な作品だったのではないかと思う。が、だからこそ、なのかもしれないが、後が続かなかったのか、「第1」しかない。

言文一致運動に興味はあるけれども美妙は読んだことがなかった人、あるいは、あまり深いことは考えずに面白い読み物を読みたいと思っている人には大いにおススメ。
ただし、今の内に買っておかないと、気がついた時には品切れ・重版未定になっているかもしれない。
ところで、「いちご姫」でググってみたところ、8ページ目になって漸く本書の版元のサイトが出て来た。それ以前に出て来るのは…興味のある方、ご自分でどうぞ。

コメントの投稿











管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://hoshinahouse.blog101.fc2.com/tb.php/425-1ec19655










上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。