「全然」(その6の下)

「上」と書いたからには、「下」を書かなければならない。「「全然」(その6の上)」の続き。

前回、『日本国語大辞典』の説明を引用したのだが、同じ否定と呼応しない「全然」でも、明治~昭和初期の用法と、現代の口語の用法とには違いがあるという、成程という内容だった。現今の否定と呼応しない「全然」の用法について、「俗」だ云々の評価は一切書かれていないものの、書かれていること自体が「成程」なのには変わりない。
これまで、『日本国語大辞典 第二版』でも、さしたる違いはあるまいと思って迂闊にもチェックせずにいたのだが、先日、念のためと思って見てみたら、かなり違うことが書かれていた。

ことばの説明自体はまったく同じなのだが、違うのは、(3)の用法に実際の用例が採られていることと、国語辞典に書かれている内容とは思えないほどの、詳細な語誌があることである。

(3)は昭和20年以後に現われた用法で、肯定表現を伴う点では(1)と似ているが、(1)のように「残らず」「全部」の意味は含まず、ある状態の程度を強調するだけの働きである点が異なる。多くの人がこれを奇異な使い方に感じたのは、否定表現を伴わないということだけではなく、(1)とは違って、「とても」「非常に」と同様、単なる程度強調に使われたということが大きな理由である。


この語誌の解説はひとまず措いておいて、『第二版』で追加された(3)の用例である。
その一つを上げる。

お金はとれるし、男性のウィーク・ポイントは、全然、ハッキリしちゃうしさ。


昭和25年(1950)、獅子文六の『自由学校』。これが、程度強調の例だというのである。
たしかに、「とっても、ハッキリしちゃうしさ」とか「すっごく、ハッキリしちゃうしさ」と言い換えても、問題なく通じる。そういう意味では、現今の用法と同じようにも思える。だが、本当に、そうなのだろうか。

この「全然」を、「とても」「すごく」に置き換えても意味が通じることには異論がないが、現代人が見た場合に程度強調にも取れる表現だとしても、だから当時においても程度強調だった、とは言い切れないだろう。
旧来の用法として、「残らず、ハッキリしちゃうしさ」「全部、ハッキリしちゃうしさ」という言い換えが不可能な表現だとは思えない。むしろ、「男性の弱点がすべて判る」という文脈と取った方が、妥当なのではないか。

そのほかに上げられている例文は、実際に読んだことがないので、論評は差し控えるとして、同じ頃の用例を、いくつか上げておく。いずれも、坂口安吾の作品である。

文学には一定の限界線はないから、奴は探偵の天才だが、全然文学のオンチなのである。(『不連続殺人事件』)

だから巨勢博士は全然評判が悪い。(同)

伊東は祐親の城下であるが、そのせいではなかろうけれども、水屍体は全然虐待される。(『安吾巷談』「湯の町エレジー」)


とても文学のオンチ」「とても評判が悪い」「とても虐待される」という文脈に、取れないことはないけれども、むしろ、「完全に」とか「まったく」の意味で取るべきもののように思う。

もっとも、前回も上げた「全然、自分の意志に支配されている」という芥川の『羅生門』のように、程度強調と取ることのできない例に比べると、程度強調とも取れそうな感じがする表現なのには違いない。そういう「全然」の使い方が、現今のような用法を、生んだのかもしれない。

何だか中途半端で、まだ続きそうに見えるだろうが、ひとまずこれで終わり。
否定と呼応しない「全然」を「俗」な用法とする見解が何によって生まれたのか、『日国』を見ても不明のままである。

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