附箋を剥がす

本を読んでいて気になることばを見つけると、附箋を貼ったりするのだが、貼りっ放しになっている本が何冊もある。
先日、谷崎潤一郎の『文章読本』に貼った附箋を1枚剥したのだが、まだ残っている。

何かの時に使えるかもしれないと思って貼るのだが、なかなかそういう機会が訪れない。どこかに書き写して附箋を剥がせばよいのかもしれないが、書き写したものを紛失するか、書き写したこと自体を失念するかのどちらかになるのがオチである。とは言え、附箋を貼りっ放しにしておくのは邪魔くさいし、家人に見られるのも少々小っ恥ずかしいものがある。

附箋を剥がすために、こういう場を使うのも何なのだが、そうでもしないと、永遠に剥がす機会が訪れることがないような気もするので、ここは少々我慢を願いたい。


【敬語について】

敬語とは尊敬の気持ちを表わすために使うことばだ、というのは、間違っているわけではないが、到底十分な説明とは言えない。カッコイイ術語を知らないのだが、敬語には、敬意を表わすことのほかに、「誰が、誰に」という重要な役割がある。
簡単に言うと…いや、「誰が、誰に」というのは十分簡単だ。もし判らないようなら、谷崎が端的に説明してくれている。

そこで、敬語の動詞助動詞を使いますと主格を略し得られますので、従って混雑を起こすことなしに、構造の複雑な長いセンテンスを綴ることが出来るようになります。
羅典語は主格がなくとも、動詞の変化で分るように出来ている国語だそうでありますが、かく考えて参りますと、日本語における敬語の動詞助動詞も幾分かそう云う役を勤めているのでありまして単に儀礼を整えるだけの効用をしているのではないのであります。(「文章の要素」)



【観点の転換】

家霊2題」「再びその姿を見なかった」で中途半端に書いた、文章の途中で観点が転換することの関連。
谷崎は、観点の転換ということを言っているわけではかならずしもないけれども、根本のところでは通ずるところがあるように思う。そして、何故、そのような文章が書かれるのか、作家の立場から説明がされている。

で、その無駄を削っては読み返し、削っては読み返しして、削れるだけ削る。そのためにはセンテンスの構造や言葉の順序を取り変えたり、全然用語を改めたりする必要も起る。この書の第二十六頁に引用してある「城の崎にて」の一節を以て説明しますと、あれの終りの方に、

他の蜂が皆巣に入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることがあった。

とありますが、初心者にはなかなかこうは引き締められない。

日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って、その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居たが、それを見ると淋しかった。

と云う風になりたがる。それを、もうこれ以上圧縮出来ないと云う所まで引き締めて、ようやく前のようなセンテンスになるのであります。(「文章の要素」)



【動作の対象を示す「に」】

女に別れる」で書いた、動作の対象を示す助詞「に」の用例の追加である。

が、同時にわれわれは、漢字のこういう長所に信頼しすぎた結果、言葉は一つの符牒であると云うことを忘れて、強いて複雑多岐なる内容を、二字か三字の漢字の中へ盛り込もうとするようになりました。(「文章の要素」)



まだ何枚か貼ってあったのだが、後から見ると何で貼ったのか思い出せない。だから、残りも全部剥がすことにした。

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