『秘書綺譚』(その2)

昨日紹介したブラックウッドの『秘書綺譚』。書いたとおり、面白かった。
が、その訳文には若干気になるところがある。
揚げ足取りの嫌いはあるだろうが、「言葉」を前面に打ち出しているシリーズの1冊だから、あえて問題にしてみることにする。原文を知らないので何とも言えないところもあるのだが、あくまでも、国語としてどうか、ということである。

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「平気だと思うわ」叔母はささやきながら、背後の暗影をチラチラと見やった。「全然平気よ。ただね……」(『空家』)

しかしセシリアは、他人の批評を始める権利は自分にあるのに、それを横取りされたような気がして、こう言った――あなたは全然間違っているわ。だって、モリーは「あんなに気立てが良い人じゃないの。(『炎の舌』1)


否定と呼応しない「全然」は、現代において頻繁に耳にする言い方ではあるけれども、それでも文字として書かれると、少々違和感を禁じえない。
まだ完全に定着したとまでは言い切れず、使い方に揺れのあることばだと見た方が良いだろうと思う。そういう状態のことばは、少なくとも書記言語としては、使わない方が無難である。

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すなわち、あの男は、"滅茶苦茶"の渦の中へ出たり入ったりする際、奇怪な状況や不可思議な事件の世界へもぐり込んでゆくからなんだ。(『壁に耳あり』)


冒頭近くにある文だが、少々引っ掛かる。この文だけなら引っ掛かるところはないかもしれないが、前から順に読んで来ると引っ掛かる。
何が引っ掛かるのかと言うと、この文だけ突然砕けるのである。
冒頭からこの文の直前まで、文末だけ列挙してみる。

―性(たち)だった。―陥るのだ。―うけた。―つのった。―滅茶だった。―やってのけた。―理由による。


難解なことばはないものの、あくまでも書きことばで書かれている。それが、ここだけ話しことばになるのである。そして、これ以降の文は、再び書きことばに戻る。ここには、常体と敬体の混用に似た気持ち悪さがある。
最初から緩んでいるのなら気にならないが、ほかは引き締まっていて、ここだけ崩れているから気になるのである。「なんだ」を「なのだ」に変えるだけで、全部が締まるのに…。

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ここの話を書かれた日にゃア、うちは破産だ。あたしゃ損害賠償を訴えるよ。(『壁に耳あり』)


損害賠償とは、損害を賠償することを言うのだから、「損害賠償を訴える」というのは国語としておかしくはないだろうか。「訴える」を使いたいのなら「損害賠償を求めて訴える」だろうし、それではくどいと思うのなら「損害賠償を求める」とすべきだろう。あるいは、「損害賠償の訴えをするよ」というようなところで如何か。

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ショートハウスは一人になると、ホッとした。あのユダヤ人はどこか慇懃無礼で、癪に障ったからだ。(『秘書綺譚』1)


この「慇懃無礼」ということばは、どうにもしっくり来ない。
作中から、「あのユダヤ人」について書かれている部分を拾ってみると、こんな具合である。

「あんたは誰だね?」と男が返事をした。

「約束してあるのかね?」

「ここで待ってりゃ、ガーヴィーさんはそのうち来るよ」ユダヤ人は無愛想にそう言いながら、骨張った手で、蝋燭を覆って、床を横切った。

小男の醜い顔を一瞬ニヤッと妙な微笑が過って、すぐに消えた。彼は返事の代わりに、人を小馬鹿にするようなお時儀をした。


これらの描写からは、「無礼」さは十分に伝わって来るけれども、僕には「慇懃」さを感じられない。

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セシリアがいつもの明るい彼女でないとはだれも思わなかったし、彼女がどれほど神経をつかって屈託なく振舞っているかを想像することもできなかっただろう。(『炎の舌』2)


「屈託ない」ということばは、こういう場合にはふつう使われないように思う。心のつかえがあるのを必死に隠して明るく見せかける努力をしている人を、「屈託ない」とは言わないのではないか。使うとすれば、「屈託ないように振舞う」とでもなろうか。

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以上がとても気になったところなのだが、そういう細かいことを除けば、とても面白い作品である。
逆に言えば、非常に気になったところはこれだけ(結構あるか?)で、しかもそれは僕だから気になったので、他の人なら何とも感じずに読み終えるかもしれない。
おススメであることに、変わりがあるわけではない。

気にはなるけれど…。
ことばは常に変化する。だから、「正しい」ことばとか「間違った」ことばということは、安易に決めつけることができない。こういう気になることばは、実際問題、僕自身の会話も含めて、恐らく日常的に使われているのである。
その憑証として、メモしておいたという意味合いが、多分にある。

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