ジャンダーク

幸田文『みそっかす』より。

無気力なものと気がさなものと、いずれに鞭は痛いか知らないが、歯を剥くような児を見ると私は、腹の底から浪立つように興奮を感ずる。しっかりやれ親無しっ子! ジャンダークはお前等の心の中にいる。(でみず)


ちくま日本文学『幸田文』には、この部分の「ジャンダーク」について、注が付けられている。無くても大方察しは付くが、あればあったで親切だろう。

ジャンヌ・ダルク(1412~31)。百年戦争末期に祖国フランスを救えとの神託を受けたと信じ、軍を率いてイギリス軍を破りオルレアンを奪還した。


この注で、強く引っ掛かったところがある。それは、「神託を受けたと信じ」の「信じ」である。いささか揚げ足取りめくけれども、ともかく引っ掛かったのである。

「神託を受けて」と書かず、わざわざ「神託を受けたと信じ」としているのは、ジャンヌが神託を受けたことを、事実として認めないということである。本当は神託などなかったのだけれども、ジャンヌは神託を受けたと信じていた、というニュアンスが感じられる。神託はジャンヌの錯覚だ、と言っているようなものである。
科学的な見地から、神託など事実ではありえないということなのかもしれないけれども、それは注記としては僭越ではなかろうか。

不信心な僕からすれば、神託など俄には信じられないし、何よりフランスだけに都合の良い神託というのもおかしなものである。が、だからと言って、神託がジャンヌの錯覚だと言い切ってしまうことは憚られる。世の中の不思議な出来事を、理性や知性ですべて否定し去ることはできないのである。
もしもジャンヌが本当に神託を受けていたのだとしたら、「信じ」というのは適切な表現ではない。

また、別の見方をすれば、ジャンヌ自身が神託を「信じ」ていたかどうかも判らない。もしかしたら、周囲を動かすための方便として、受けてもいない神託を受けたと「称した」だけだという可能性も、まったくないわけではないだろう。その場合もやはり、「信じ」というのは適切ではない。

注記が客観的な記述を心掛けるのは正しいことである。が、客観的であるためなら、「神託を受けたとして」とでもすれば良いのである。
神託が事実ではないというのは一方的な見方で、客観的な記述だとは言い難い。

先ほども書いた通り揚げ足取りには違いないが、これも附箋を剥がす一環である。

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